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今週の1枚(07.02.05)



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ESSAY 296 : ホワイトカラー・エグゼンプション(その2) 



 写真は、NewtownのThe Peasnt Feastというレストラン。現在のオーナーが、Dr. Robert Warlowという臨床免疫学、免疫病理学のお医者さんであり、彼が(東洋的に言えば)「医食同源」的発想に基づいて経営しているお店です。マクロバイオティック的見地から、食材、油、調味料、料理法までこだわり倒している店であり、確固たる主張を持ってる店です。http://www.peasantsfeast.com.au/にホームページがありますが、素人っぽい作りのサイトながら、書いてあることは非常に格調高いです。が、そんな高邁な理想を知らなくても、単純にリーズナブルで美味しいレストランですよ。昔ながらのヨーロッパの田舎料理を出してくれます。野菜や肉を丁寧に低温で長時間煮込んだりローストしてますので、味が深くて美味しい。メインで20ドルプラスアルファくらいだから、コストパフォーマンスを考えたらそれほど高くもないです。店員さんのマナーもいいです。チャイニーズ系らしきオジサンもやたらフレンドリーで、美味しいハーブティーについて質問すると、一生懸命買う店まで教えてくれ、サンプルをくれたりしました。また、オーナーのドクターらしき人も、お盆片手に店の前の歩道で試食してってくださいと呼びかけたりしています。

 ちなみに、この店の二軒隣にある Kai on King という回転寿司も、シドニーの回転寿司の中ではベストだと思います。オーナーシェフの大将に話しかけて、オージー向けではない日本人向けの握りを特別に握って貰うといいです(これはこの店に限らず、日本人のやってる寿司屋に共通するけど=というか、そもそも寿司屋ってそーゆーもんでしょ、「今日は何がいいのかな」って聞くのは)。



 先週に引き続いて、ホワイトカラーエグゼンプション制度について考えてみたいと思います。
 先週は主として制度や現状の解説をしてきましたが、今週はバリバリの私見をぶつけてみます。



 ホワイトカラーエグゼンプション制度の本当の問題は、制度それ自体の問題ではなく、日本の労働環境というか、日本人の労働観という「土壌」の問題なのだと、先週の末尾に書きましたが、いわばそれが結論です。

 ホワイトカラーエグゼンプション制度というシステムそれ自体についていえば、ある程度合理的なものだと言えるでしょう。一定時間職場で仕事をしていれば、自動的に一定量の成果が上がるという種類の仕事があります。ブルーカラーの工場作業などの場合、典型的にはベルトコンベヤーの流れ作業のように、一定時間その持ち場にいて、指示された作業内容をこなしていれば、自動的にそれなりに成果があがります。10分働けば10分、1時間働けば1時間分の製品ができあがるわけですからね。ここにおいては、労働時間→成果(収益)量→賃金というスムースな流れになり、労働環境や賃金を決定するのは、労働時間というモノサシでやっていけば良いという発想になります。

 しかし、企画とかプロジェクトのような不定型な仕事の場合、一定時間作業をしていれば一定の収穫が上がるというものではないです。企画なんかアイディア勝負ですし、アイディアを生み出すために、取材をしたり、息抜きをしたりします。会社の帰りがけに本屋に立ち寄ってヒントを探してみたり、自宅で風呂に入っている間にいいアィデアが浮かぶ浮かぶかもしれない。また企画を実現するためには、関係各所に根回しをしたりしますが、飲みに連れていってある程度出来上がったところで「実は〜」と切り出したりもするでしょう。こういった作業には、9時から5時という時間はあんまり大きな意味を持ちません。むしろ静まった夜の方がはかどるという場合もあるでしょう。だから、このような仕事に従事する人々には、杓子定規な勤務時間とそれに比例した賃金体系というのは素直にフィットしないんじゃないか、もっとフレキシブルに、「○○という成果を達成したから給料いくら」と考えた方が事情に即して居るんじゃないかってことです。

 別の例を挙げますと、子供がお駄賃を貰う場合、1時間草むしりをしたら幾らとか、30分肩たたきをしたら幾らというのは、時間量とご褒美(給与)が比例関係にあります。しかし、「今度の通信簿でオール5だったら」とか「大学入試に合格したら車を買ってやる」というのは、一種の成功報酬であり、「プロジェクトの達成」という事実に対してご褒美が支払われるわけです。そこでは何時間勉強したら幾らとか、深夜に勉強したから割り増しで幾らという発想はありません。ホワイトカラーエグゼンプション制度というのは、まさに後者のようなものであり、何も突拍子もなく珍奇な制度ではなく、僕らが子供の頃から日常的にやってるようなことなのでしょう。それはそれで分かります。



 しかしね、と思ってしまうのですね。しかし、そういった特殊な業務体系の場合、すでに労働基準法は予定しています。例えば前回ちょっと触れた管理監督者の場合は、労働時間の規制を受けません(深夜労働を除く)。それだけではなく、労働基準法38条の3には専門業務型裁量労働制というのがあり、38条の4には企画業務型裁量労働制というのがあります。

 専門業務型裁量労働制は何かというと、法文上は(うっとうしいから流し読みしていいですよ)「業務の性質上その遂行の方法を大幅に当該業務に従事する労働者の裁量にゆだねる必要があるため、当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し使用者が具体的な指示をすることが困難なものとして厚生労働省令で定める業務のうち、労働者に就かせることとする業務」と表現されてます。例によって法律らしい堅苦しい表現で、よくわかりませんねー(^^*)。

 でも、具体例を出したら分かりやすいでしょう。厚生労働省令などにより定められている職種は以下のとおりです。
  a)新商品、新技術の研究開発または人文科学・自然科学に関する研究業務
  b)情報処理システムの分析・設計の業務
  c)記事の取材・編集の業務
  d)デザイナーの業務
  e)プロデューサー・ディレクターの業務
  f)その他厚生労働大臣の指定する業務(→コピーライター、公認会計士、弁護士、建築士、不動産鑑定士、弁理士、税理士、中小企業診断士など)。


 企画業務型裁量労働制というのは、事業運営に関する企画・立案・調査・分析などの業務、あるいは業務の遂行方法を大幅に労働者にゆだねる必要がある業務と言われています。

 何を言いたいかというと、何もわざわざホワイトカラーエグゼンプション制度などを持ち出さなくても、この制度にふさわしいような業種、職種については、すでに労働基準法で定められているってことです。だから、別に新たに定めなくてもいいじゃんって。ちなみに僕の前職は弁護士でありまして、イソ弁やってるときも、思いっきりこの「専門型裁量労働」にハマってましたので、労働時間もヘチマもなかったです。

 しかし、ホワイトカラーエグゼンプション制度を提唱する経団連は、現行法ではダメだと言います。その理由は、まずもって「対象業務の範囲が狭い」こと。専門裁量においては厚生労働省告示の19の職種に限定され、企画裁量においては「企画、立案、調査及び分析の業務」に限定されています。これでは狭すぎるし、妙に対象を限定することは、現在のフレキシブルで流動的な業務形態に適合しない。例えば、企画は裁量労働の範囲だが、校正はダメとなっているが、広報部門では、一人が企画も構成もやることがあり、実情に合わない。したがって、すべからく対象業務を拡大し、基本的に労使協定において合意したらOKとするような柔軟な規制にすべきであるといいます。

 まあ、言わんとするところはわかります。ホワイトカラーエグゼンプション制度は、それにふさわしい形態であれば、どんどん導入すべきであり、アレはダメ、コレはOKと最初から業務形態を決めていても杓子定規過ぎて使い物にならない、と。それに、何を含ませるかは、会社側の一方的な一存で決めるわけでもなく、労使委員会などで労働者側の代表と十分話し合って、お互い納得づくで決めるのだからいいじゃないかってことでしょう。



 経団連、およびホワイトカラーエグゼンプション制度を推進する人々の言い分は、業務の実態に合わない労働時間制を廃止し、より実態に即した形態にしましょうということでしょう。システムと実態との間にズレが生じている場合、あくまで実態に即してシステムを柔軟にしようということで、そのこと自体は正論だと思います。また、具体的な範囲や給与等の取り決めは労使協定で話し合われるのだから、会社側の一方的な都合で従業員を酷使するということもないだろう、と。話し合って、より実態に合致したやり方にしよう、その方が合理的じゃないか、何が問題なんだ?ってな感じなのでしょう。

 しかし、僕に言わせれば、これは机上の空論というか、一見正当のように見えて実は不平等な結果になるように思われます。

 まず、「労使が対等に話し合って決めるんだから適正である」という大前提からして疑問を抱くべきでしょう。
 労働関係のシステムを考える場合、考えなければならないのは、労使が対等に話し合うなんてことは滅多に無いってことです。通例、使用者側が強大であり、従業員側は劣弱。最初っから力の差が歴然としており、対等な話し合いなんかろくすっぽ出来ない。それは歴史が証明しています。

 大体ですね、対等に話し合って、それで問題がないんだったら労働法なんか要らないです。民法上の雇用契約とか請負契約の一般規則で十分です。それをわざわざ労働三法を設けて、あれこれ細かく設定しているのは何故かというと、対等になんか話しあえっこないからでしょう。生活がかかってる労働者側としては、「あ、そ。イヤならいいよ、クビね」って脅しをかけられたら、多少不利な条件でも呑まないとならない。よほど超好景気で売り手市場バリバリでもない限り、たいていの無理難題は飲まないとならない。このように、労働者が個別に交渉したら負けちゃう場合が多いからこそ、労働組合という集団力を用いよう、労働組合の結成を法的に保証しよう、労働組合の団体交渉権を保証しようってことでしょう。

 産業革命で資本主義が勃興して以来、労働者は圧倒的に不利な状況に置かれてきました。19世紀初期のイギリスの炭坑労働など悲惨を極め、10歳以下の少年少女が朝の3時から夜中の10時まで19時間労働をさせられていたといいます。こういった非人間的な現実を目の当たりにして、「これは、いかん」と心ある人は皆そう思った。そこで、マルクスという青年は「そもそも資本主義があかんのじゃ」と共産主義を唱えたけど、資本主義を維持する立場からは、それが本来的にもってる毒性を薄める必要が生じた。だからカウンターを当てて補正しなければと考えた。そこで出てきたのが労働者の人権です。イギリスで、9歳以下の児童労働の禁止、13歳以下だったら1日8時間までなど労働時間を規定した工場法が制定されたのは1833年のことです。

 そういった過去200年ほどの流れの末に、日本の憲法第27条は「@すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。A賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。B児童は、これを酷使してはならない」と定めています。また第28条では「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」と定めているわけです。憲法レベルで、わざわざ賃金だの、労働時間だの、休息だのについて言及し、さらに団結権、団体交渉権、団体行動権と掲げて保障しているのは何故なのか?それは放っておけばすぐに侵害されちゃうひ弱な立場に労働者があるからでしょう。

 繰り返しになりますが、憲法レベルで定めているというのはかなり重大なことです。憲法というのは国のDNA、国の基本設計図です。日本の場合、やれ天皇制にしましょうとか、国会をつくりましょうとか、内閣総理大臣という職を設置しましょう、有名な9条で戦争放棄をしましょうってレベルの話です。そのくらい超ハイレベルで、チマチマと「労働者の賃金、就業時間、休息」について言及しているわけです。言ってみれば、天皇制をやめるかどうかくらいの重大な意識で、これらの規定を作ってるわけです。そして、労働時間などについて「法律でこれを定める」としている趣旨は、双方当事者の合意だけではダメだよってことです。当事者がいいって言っても、法律が「そんな合意は無効、違法」とダメ出しこともあるよってことです。このことの意味をもう一度よーく考えるといいと思います。

 その憲法の趣旨を受けて、労働基準法、労働関係調整法などの労働各法は、きめ細かくアレコレと定めているわけです。アレやっちゃダメよ、こういう合意は無効よ、こんなことしちゃダメだよって。やたらうるさく決めている。そこまで細々と鬱陶しく決めるのは何故かというと、そこまでやっておかないと労働者の権利というものは侵害されてしまうからです。ついつい力の差で会社に押し切られてしまう、使用者側の言いなりにならざるを得ないからです。

 そして、守るべきものが大事であればあるほど、そのガードは鋼鉄のように堅固にしなくてならない。しかし、ガードを鋼鉄のようにすればするほど、同時に杓子定規になり、若干現実にそぐわない場合も出てくるものです。「そこは、まあ、臨機応変に、適当に」なんて物わかりのいいこと言ってると、それが蟻の一穴になり、崩壊しかねない。だから、頑固であって、硬直的であろうとも、妙に調子を合わせるようなことはしてはならないのでしょう。

 会社側からしたら、労働法というのはひたすら鬱陶しい存在でしょう。なんせ攻める立場からしたら、こういったディフェンスの壁は、出来れば無い方がいいだろうし、ことあるごとに弱体化したいでしょう。だから、経団連が、現状の労働法を、「実情にそぐわない」とか「よりフレキシブルな運用を」と唱えるのは当然の話であり、会社側が「これでいい」と満足するような労働法だったら、労働法として意味がないとすら言えます。極論すれば、経団連を怒らせてこそ労働法は正しく機能しているとすら言ってもいい。だから、労働法の諸規定を、雇用者側から単に「実情にそぐわない」というだけで批判するのは不十分でしょう。実情にそぐわないくらいでないとイケナイというとか、そこを妙に「実情」に合わせていくような弱腰になっていくと、どんどん土俵を割っていってしまう。「労使対等に話し合って」なんてことは、理想ではあるけど、現実ではない。そんな「対等」なんて滅多にないんだ、ということです。

 


 次に、経団連がいう「実情」というのは、ひとえに会社の都合による「実情」です。サラリーマン側の「実情」は、それとは全く違う。もう現状認識のレベルで全然違うし、そもそも見ている場所が違う。

 経団連が言うのは、バリバリのキャリアビジネスマンの八面六臂の活躍ぶりみたいなケースです。もう昼夜兼行、獅子奮迅という四字熟語的世界です。そして、「そうやって働いて欲しいなあ」って願望だし、「そうやって働いて貰わないと廻っていかない業務がある」ってことをもって、彼らは「実情」と呼んでいるのでしょう。

 しかし、サラリーマン側の「実情」は全く異なる。それは労働法の規則なんか無視するかのような現場の労働慣行であり、サービス残業の常態化であり、膨大な過労死予備軍の存在であったりします。憲法で、そして労働諸法でこれだけガチガチにディフェンスを固めていても、平然とそれを無視し、踏みにじってくる会社の姿勢こそが、彼らが日常的に見ている「実情」です。日本のサラリーマンの多くは、毎日毎日「反抗を困難ならしめる」「威迫を受け」「義務なき労働」をさせられているわけで、これも極論すれば、毎日毎日カツアゲされているようなものです。イジメっ子にパシリをやらされているようなものです。そういった現状で、「対等に話し合え」とか言われても、ヤクザに因縁つけられて「話し合おうやないけ」と言われているようなものでしょう。

 サラリーマン側からしたら、経団連に「労働者が創造的な能力を十分に発揮できるようにする」なんて麗しい美文で称えられても、「けっ!」てなもんでしょう。ゴタク並べるヒマがあったら、労働法上の諸規定をちゃんと守れよって。サービス残業なんかやらせるんじゃないよ、残業手当も休日手当もちゃんと払えよって。法律が不十分とか文句言う前に、まずは自分らが法律を守れよって。自分らで法律を踏みにじっておきながら、「より実情に即した法律を」なんて言えた義理か?ってな感じだと思いますよ。

 このように労使が見ている「実情」は全然違うから、話がまったくかみ合わず平行線を辿るのも当然だという気がします。





 しかしですね、なんで日本はこうも労働者側が弱いの?って思いますよね。日本だけ見てたら、「そんなもんか」って思うかもしれないけど、外国では全然違う。どっちがいいか悪いかは一概には言えないし、日本的労働慣行の全てがダメだというつもりもないです。イイモノも沢山あるだろう。しかし、人類という視点で見た場合、日本的な労使関係というのは、とうてい人類普遍の状況ではないし、日本以外ではほとんど流行ってない(まあ、韓国くらいじゃないかな)。地球規模で見たら、非常に特殊なことをやっているという。

 オーストラリアの労働者は強いですよ。ここ数年どんどん労働者の権利が蚕食されつつありますが、それでも日本に比べたら雲泥の差でしょう。サービス残業なんか普通はやらない。残業やったら残業代を請求するし、これをケチろうものなら徹底抗戦されます。労働組合が強い上に、オーストラリア人一人一人の戦闘能力が高いので、納得できないことは一人でも戦う。共感を呼べば他人の戦いにも参戦する。

 これは以前に書きましたが、あるインドネシア系の会社が、建物を発注しておいて、出来上がった頃には経済的にヤバくなったので請負代金をケチって雲隠れしてしまった。代金を請求できない下請企業とかは大打撃です。「可哀想じゃないか」ということで、直接には関係ない建築関係の仲間達が集まって、この施主であるインドネシアの会社が経営している別のインドネシア料理店の前でデモをやってました。店の前で通行人にビラを配り続け、店に入らないように説得します。でもって、ここがタフで陽気なオージーらしいのですが、店の前の歩道に椅子を持ち込み、テントを持ち込み、泊まり込みで抗議する。ギターを持ち込み、楽器を持ち込み、どんちゃん陽気に演奏しながら抗議をする。もう何日でも延々抗議し続ける。それも悲壮感もないまま、楽しそうにやってるわけです。

 こういう連中相手に給料ケチろうものなら、会社はどういうメにあうか?です。ヘタすりゃぶっ潰されます。海運関係の労組も強く、賃金交渉が暗礁に乗り上げると、数十隻の大船団で港を封鎖し、示威行進する。もう海賊みたいな風景です。そこらへんの街角で、ナースの集団がデモを打ち、教職員集団がデモに繰り出し、警察官や消防職員も団体で「おー」とやっています。日本人のワーホリさんなどが、地元オージーのところで働いたりすると、大体同僚のオージーから"you are working too hard!"って不思議そうに言われたりするといいます。

 こんな社会だから、会社の正常な経営のために、もう少しフレキシブルな運用を、、、と財界や政府が思うのも、まあ、無理はないです。財界寄りの与党自由党がIR法案(労働法改正)やら、Work Choiceやら、なんとかしようとするのも、この実情を見てたら、僕も多少は頷けるものはあります。そりゃ、経営者、大変だろうなあって。

 また、ビジネス活動をする場合、あるいは顧客になった場合、これまた大変です。なんせ引き継ぎなんか何もしなくて、ポーンと一ヶ月以上バカンス取っちゃうし。何度伝えても話が全然通ってなかったりするし。平気で忘れられたりするし。ビザの申請なんかもそうですよね。平気で2年くらいほっておかれたりすることもあります。「あ、忘れてた」てなもんです。残業代が高いので、経営者としても、残業代を払うくらいだったら、顧客を怒らせた方がまだしもビジネス的にマシって部分もあるでしょう。



 日本人的な発想においては、こういういい加減な仕事の仕方をしてられると腹が立ちます。もっと真面目にやれ!って思う。オーストラリア人というのは、仕事を誠実にこなすということに、全く人間的美徳を感じていないのか?とすら思ったりもします。が、感じてますよ。その証拠に、"work ethics(勤労の美徳)" という英語表現はちゃんとあるし、"Hardworking Australian"「真面目に一生懸命働いているオーストラリア人」=「市民の鑑のような立派な人」という使い方もします。逆に仕事に就かないで、失業保険だけで食べてる人を、"dole bludger"といって、やや蔑んだニュアンスで言います。だから、働くことは尊いと思っているし、そこになにがしかの人間的美徳を感じている点では日本人と一緒です。

 しかし、勤労の美徳を感じ、真面目に働くことを尊く思うことと、本来の労働契約の範囲を超えて滅私奉公&無償奉仕をすることとは、話が別です。「働く」ということと、「雇用」ということも、一見同じように見えて実は違います。「働く」というのは、たった一人で働くような場合も含めます。例えば、たった一人で荒れ地を開墾するために鍬をふるう場合も「働く」ことだし、陶芸家や画家、音楽家が心血注いで制作に打ち込むことも「働く」ことです。自分で事業を起こし、必死になって仕事に励むことも「働く」ことです。つまり、「働く」ということは、別に雇用主が居なくても成立します。「はたらく」ということは、「何事かの生産的なイトナミをすること」だといって良いでしょう。「働く」というのは、自分自身の生産的で有益な行為を、自分という基準だけで考えた場合の概念であり、「勤労の美徳」「働くことの尊さ」は、自分自身の生き方の問題として、「真っ正直に生きる、まっとーに生きる、お天道様に恥ずかしくないような生き方をする」という、主観的な価値観、美意識だと思います。この意味で言えば、日本だろうが、オーストラリアだろうが、勤労の美徳はあります。そこには相手(雇用主)の存在など本来的に関係はない。



 しかし、「雇用」は違う。雇用というのは、労働力と賃金の交換であり、交換することを合意した契約です。それは、100円で豆腐一丁を売買するように、等価交換、バーターです。当事者が二人登場して、しかも基本的に対立構造をとります。つまりAが得をすればBが損をするという構造=豆腐を90円に値引きしたら売り主は10円損するけど買い主は10円得するということです。このように、当事者が二人以上出てきて、対立的な構造になる場合、何を考えるべきかといえば、「当事者間の公平/公正」でしょう。なぜなら、本来的に対等で公平であるべき当事者間において、Aが無条件で損をしてBを儲けさせろとすべき原理はないからです。豆腐屋は常に定価や原価を下回っても安値で販売すべし、それで破産したらそれは豆腐屋としての名誉である、なんて誰も言いません。また、消費者は、定価が100円になっていたら常に120円を出せ、定価よりも高い値段を払うのが消費者の美徳であるとも言いません。そこで問題になるのは、誇大広告などの消費者被害であったり、賞味期限などの品質の問題であったり、食い逃げなどの詐欺だったりします。つまり、当事者間の公平でフェアなシステムを作り、維持をするという、「社会正義」こそが最大の問題になるはずです。

 雇用もまたバーターであり、取引ですから、労働者が無償奉仕をしてまで反対当事者の雇用者に得をさせなければならない理由は一つも無いはずです。なるほど労働は尊い、働くことは大いなる自己実現であり、まっとーに生きることかもしれないが、そういった個人的の美徳を、本来、「社会正義」の観点で律しなければならない複数当事者関係に持ち出してくるのはおかしな話です。本質的にスジが違う、レベルが違う、次元が違う。

 現在の日本の労働環境というのは、本来、社会正義の観点から万人に公平でフェアなシステム作りを考えねばならない場面で、全く次元の異なる主観的な勤労の美徳、無償奉仕の素晴らしさを持ち込んできて、一方当事者(労働者)に自己犠牲を求め、それによって他方当事者(会社側)を不当利得を生じさせようとするものであり、原理的に言って大いなる「まやかし」であり、「騙し」以外のなにものでもないと、僕は思います。一丁100円の豆腐を200円という法外な値段で売りつけ、100円分の損は「これは神が与えた試練です」「この損によってあなたは大きく成長するのです」といって誤魔化しているようなものです。ここに、現在の日本の労働環境における、巨大な「欺瞞」があるのだと思います。

 この欺瞞は巨大強大ですよ。サービス残業などという一方当事者に損を強いるような理不尽な慣行を常態化させ、しかもそれをあんまり疑問に思わせないという意味では、宗教的ですらあります。だって、強大な価値観で幻惑し、理性的な発想や行動を出来なくしているわけですから。サービス残業=「お布施」みたいなものでしょうか。



 こう書くと、いやそれは違うぞ、人間が働くということは、そんなカサカサに乾ききったドライな損得勘定じゃないぞ、もっと大きな人間的交流なのだって意見もあるでしょう。僕も日本人だから、それはよく分かる。確かに、親方や、上司や、先輩に、厳しくも正しく仕事を教えて貰い、それぞれの職業における大いなる価値創造の素晴らしさと尊さを教え込まれ、人間的に大きく成長していくという場面はあります。板前だったら、素晴らしい料理という付加価値を創造するために、いかに手を抜かず誠実に下ごしらえをするか、お客様の期待にいかに応えていくかというプロフェッショナリズムを通じ、人間的に高度な価値を教えてくれるでしょう。その圧倒的な人間的正しさにおいて、タテ序列における多少の理不尽や無理難題は呑みこめ、と。そして、そういった「修行」が、ひいては自分の成長と独立につながるのだという意識は、プロ的な領域においては今もなお濃厚に残っているでしょう。僕のやってた弁護士なども旧来的な徒弟制度の業界であり、先輩や上司の弁護士達からビシバシ鍛えられ、泣かされ、面倒をみてもらい、育ててもらってきました。

 その意味において、それは単なるドライなバーターではなく、「師匠と弟子」という本来は無償であってもOKというプロ的人間関係であります。契約とか交換というよりは、「学校」みたいなものであり、そこでの人間関係は対立対等の当事者というよりは、大きな「家族」みたいなものです。ゆえに、プロ的な領域では、「親分」「親方」とか、擬似的な家族名称が残っていたりするわけですね。「幸福な封建社会」とでもいうか。

 それはそれで分かります。自分自身が経験してきたことであるので、賃金がどうとかいうゼニカネ以上の価値の創造と交換であることも、よーく分かってます。よーく分かってて言うのですが、そういう麗しい人間関係というのは、そんなに滅多に成立しません。雇用主と従業員は親子同然とよく言いますが、それを言うためには、真実、親子関係に匹敵するくらい、雇用主は親として自己犠牲を払い、子供は親の恩を感じてまた自己犠牲を払うという美しい人間関係が築かれていなければならないでしょう。しかし、そんな幸福な職場が、今の日本にいったいどれだけあるというのだ。

 そりゃ、「ここにあるぞ」「あ、ここにもあるぞ」と個別的に数えていけば沢山あるとは思いますよ。でも、総体として眺めてみた場合、それほど普通の現象ではないでしょう。中小企業、零細企業で、親方一人、弟子一人くらいの規模だったら、比較的そういう現場は多いとは思います。雇用主の人格が人並み以上に誠実であり、従業員の感性も人並み以上に素直だったら、そういう美しい関係は出来るでしょう。でも、バブル崩壊以降、10年余にわたって吹き荒れた殺伐としたリストラの嵐のあと、ホワイトカラーエグゼンプション制度導入を図ろうとかやってる経団連所属の大企業において、そういった人間味あふれる情景が残ってますか?これらの企業が、ゼニカネを超越した「親の愛」を従業員に降り注いできましたか?どうですかね?僕は現場に居なかったから確言できる立場にはないけど、あんまりそうは思えないんだけどなあ。





 とかなんとか書いてるうちに、今回も紙幅が尽きました。おお。
 今回は、@労働者の権利が憲法という国家の最高レベルで保障されていること、そして何故最高レベルの保障が必要なのかを再認識すべきこと、A勤労の美徳という主観的倫理的価値観を、公正/公平という社会正義が支配すべき労使局面に混入させ、話をややこして見えなくしているという欺瞞的な構造について触れました。

 だが、まだ足りない。
 これだけでは日本の労働現場の説明には不十分です。それは日本人の「キッチリ最後までやらないと気が済まない」という精神生理、対立的人間関係を必要以上に恐れる心理傾向、さらに人生の組み立て原理や技術を学んだり実践したりする機会の乏しさなど、他の文化的な条件があるように思います。次回はそのあたりを書きます。




文責:田村

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