今週の1枚(05.07.25)



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Essay 217:トシをとってからわかること(その3)  〜子供・大人二元論

写真は、Meadowbank。うららかな土曜日の午後、Parramatta Riverの川面にて。



 子供のころ、あるいは若いときには、大人や上の人から事あるごとにあれこれ言われます。指導されたり、叱られたり、無理難題押し付けられたり。時には納得することもありますが、反発を感じることもある。さて、自分も大人になれば、大人の立場からはものがどう見えるかというのがわかるようになります。これがなかなか面白いのですね。川のあっち側から見るのとこっち側とでは、見え方がガラリと変わったりすることも多く、「おおー、こう見えるわけね」「あ、そういう意味だったのね」と、新たな発見があります。

 そのあたりのことをお気楽に書き綴りながら、今回はその3回目です。





 今回は、年齢世代の差に関するポピュラーな原理、「年少者は年長者を敬え」という原理について考えてみます。長幼の礼です。

 アジア系社会は長老社会ですから、儒教が浸透してようがしてまいが、ナチュラルに長幼の礼の意識が強いです。骨の髄まで儒教社会である韓国では、長幼の礼は日本人の想像を越えて厳しいですよね。オーストラリアに語学留学すれば、たくさんの韓国人と知り合えあるし、いい友達になれるでしょうから、その違いを実感されるといいですよ。年少者は年長者の前では絶対にタバコを吸わないとか。50歳に手が届く兄弟間であっても、弟がタバコを吸うことをついこの間まで兄は知らなかったとかいう話が普通にあります。

 こういった長幼序列が全面的に悪いとは僕も思いません。それどころか、一定の合理性もあるし、美徳にもつながるでしょう。先に生まれた/始めた→経験時間が長いから上達もするし良く知るようになる→より進度の高い者が進度の低いものを導くのは理に叶っているし、進度の低いものが高いものをレスペクトするのも情として当然。お兄ちゃんが幼い弟を気遣うのは美徳であり、年長者が年少者を思うのもまた美徳である。ゆえに長幼の序列や、先輩後輩のナチュラルな上下感覚は、あって当然だと思います。それはよく分かっています。

 長幼の礼というのは、なにも「下が上を敬え」という一方通行の奴隷的関係をいってるのではなく、「上は下の面倒を見ろ」という双方向のオキテだったりします。韓国人の友達と話して意気投合したことがありますが、年長者になったら威張れるし、イイコトばっかだと思ったら、実はそんなことないね、と。上にいくほど下が増えるから、飲みにいっても奢る機会がそれだけ増え、多少収入が増えたって大赤字だ、「けっこうツライよねー」「そうそう!」とか言ってました。

 そういえば昔、日本にいるとき、同じ年くらい(30代前半)の住友銀行の副支店長さんと仕事で面談し、そのあと年も近いので気楽な雑談になったのですが、似たような話になりました。当時(バブル崩壊後しばらくして)の銀行の副支店長だったら年収で1000万前後はいってるでしょうが、そのくらい貰っても全然残らないという話です。「だって、そうでしょう?」と彼は力説します。「残業がとにかく多いですからねー。本店の指示はキツいし、サービス残業当たり前だったりするのだけど、陣頭指揮に立つのはボクですからねー。夜中の10時11時まで働かせたら、宅配ピザのひとつも自腹切ってとってやらないとならないし、かなり無理させてるなーってときは寿司ですよ。下手すれば十数人前ですよ。飲みにも連れて行かなきゃならないし、シリアスな話になったら、一次会で”はい、さようなら”ってわけにもいかんですよ。スナックに流れて、ボトル入れたりしてたらあっという間に2−3万ぶっとびますからね。そんなことを週に何回もやってたら金なんか残るはずないですよ。可処分所得は絶対ヒラの頃の方がよかったですよねー」と。

 こういうあたりも長幼の礼の一つの側面なのでしょう。



 さて、この延長線上に「若いときは雑巾がけ、年をとったら左ウチワ」的な発想もあります。
 美味しいところは年長者が取り、年少者は下働きのパシリであると。これは、はっきりありますよね。それが正しいか正しくないかは別として、皆の思考行動パターンとしてこういう傾向は歴然としてあるでしょう。

 この傾向は、なにも年寄り社会においてのみそうだというのではなく、ティーンエィジャーの世界にも歴然としてあります。体育会系の部活なんか典型的ですが、「1年生は奴隷、3年生は貴族」という世界ですね。冷静に考えれば、1−2歳違ったくらいで何なんだって思うけど、ああいう風習は廃れないですね。たしかに上級生を屁とも思わないような生意気な奴というのもいるけど、そいつだって下級生からタメ口きかれると激怒したりするから、別に年齢自由主義者なわけでもなんでもなく、単に自己中なだけでしょう。

 部活等での先輩/後輩関係というのは、常軌を失して極端に行かないかぎり、「ほほえましい」ものとして認めていいのでしょうね。だって、1,2年ですぐに順番が回ってくるし、上の世代はすぐに卒業していなくなるし。60歳くらいになって同窓会をやったら、世間では皆さん社長だの重役だのエライさんになっているのに、口調が17,8歳の頃に戻るし、当時の先輩後輩関係がそのまま生きてたりするようです。「○○!酒が足りんぞ!なにやってんだ!」「はいっ、すんません!」とか言ってたりして。でも当事者は、それがイヤかというとそうでもなく、「いや、なかなかイイモンですよー」とシミジミしてたりします。こういう「わかりやすい人間関係」っては複雑なこと考えなくていいから、楽なのかもしれませんよね。



 というわけで長幼の礼は、「お兄ちゃんが弟を思う気持ち」「先行している人が後から来る人にあれこれ教えてあげたくなる気持ち」という、人間としてナチュラルな気持ちをベースにし、それを発展させたものだと思います。その限りにおいては特に非難されるべきものでもないし、むしろ賛美されるべきものでしょう。しかし、物事はなんでもそうですが、「行き過ぎ」とか「悪ノリ」という現象がつきまといます。長幼の礼の本質からはずれて、単に年長であることだけを理由に強権的に振舞ったり、特権的地位につくこと、あるいは反動的な逆差別として、単に年長であることだけを理由に馬鹿にされたり、軽んぜられたりする理不尽は、これはおかしいと思います。

 前にも書きましたが、自分が若いときに「大人はクソだ」と思った事柄のうち、半分は実は自分が方がアホだったというケースですが、あとの半分は今でもクソだと思ってます。自分が大人になって当時を冷静に省みても、「あっちの方が悪かった」というケースはあります。子供の頃に反発を感じた教師達を思い起こしてみて、「ああ、先生の方が正しかったな」というケースも多々あるけど、今あらためて考えてみても教師の方が理不尽だったというケース。これは誰にでもあることだし、あなたにもその種の心当たりの一つや二つはあるでしょう。もっとも、今となっては、自分よりも年下になってしまう当時の教師の言動は、「まあ、彼は彼なりにストレス溜まってたんだろうな」「自分も可愛くないガキだったよな、あれじゃ自分が教師でも腹立つよな」って理解したりすることは出来ます。自分だって、他人のことをエラそうに言えるほど、聖人君子として生きてこなかったし、自分自身理不尽なことを他人に幾らでもしてきたと思いますからね。

 子供であっても無条件にツンケン反発ばっかりしていたわけではないです。子供心に「怒られても当然だ」というのは分かりますし、愛されているかどうかも又分かります。叱られていても心のどこかで納得できるときは、意外とそんなに反発なんかしなかったような気もします。反発したのは、やっぱり納得できない理不尽さを感じたときであり、その多くは、今思い出してもやっぱり納得できない。

 子供心に反発した心理を精密に思い出してみると、当時子供だった自分がまず反発したのは(子供だからボキャブラリも表現力もないから上手くいえなかったけど)、「それは人間としての美徳に反する」ということだったと思います。「お父さんの嘘つき!」みたいな。でも、嘘つきはやっぱり良くないことですよ。意見としては正しいわけです。しかし、それを言ったところで、「子供のクセに生意気なことをいうな、口答えするな」と抑圧されたから、「そーゆー問題じゃないだろ?That's not the point!」という点でさらに腹が立ったのではないか。無理やり大人子供二元論を押し付けられた怒りみたいなものですよね。子供だった僕が、今と同じだけの言語能力を持っていたら、「意見の当否は、純粋の”意見の内容”のみによって判断されるべきであり、それを言ったのが子供であるか大人であるかという”発言者が誰か”によって判断されるべきではない」と弁論を展開したでしょう。でもそんな表現力もない子供はただピーピー泣くしかないわけです。あ、これって、英語がヘタだから言いたいことも言えずに悔しい思いをするこっちでの生活に似てますな(^^*)。



   一方では、もちろん、子供であるとか、若輩者であるがゆえにピントのずれたアホな文句を言うこともあるでしょう。「キミも大人になればそのうち分かるよ」と頭ごなしに言われて腹が立つこともあるでしょうけど、じゃあ、大人になると一体何が分かるというのか?多分、これは若いうちはデーターが足りないし、複雑なスチュエーションが理解できないからでしょう。「子供はひっこんでろ!」という一見ムチャクチャな言い方も、大局的にみれば「そうとしか言いようがないわな」という場合もありえます。つまり、部分的には正論であっても、全体的に見たら、そんな局部的正論を持ち出しても役に立たない、しかしそれを説明したところで理解能力の無い人間には無益であるし、ゆっくりじっくり説明している時間も忍耐力もないって場合も、確かにあります。


 よく若手社員なぞが、「ウチの上司はアホばっかりですよ」なんて言ってたりしますが、まあ僕の経験で言うと7対3で言ってるそいつの方がアホだったりします。上司の決断にシャープさが欠けるとか、右往左往してるとか、それは批判はしやすいし、実際無能な人もいるでしょう。しかし、シャープさに欠け、決断が明瞭ではない場合には、裏にそれなりの事情がある場合もあります。

 これは僕の経験ですけど、とある会の幹事役のようなことをしていました。なにかのイベントや会合などで、メンバーを割り振ったり、グルーピングしたりするわけですけど、誰が見てもAさんとBさんは同じグループにすべきという状況でもそう出来ない場合もあります。それは何かというと、Aさん(女)から内々に話があって、実はBさん(男)からしきりにラブコールがあって、最近ではストーカーまがいにまで発展しているので、どうしても同じグループに入りたくない、帰り道が一緒になる等のことがあると恐い、だけどお互いに立場もあるから表沙汰にはしたくないという事情です。幹事役としては「むむむ」と思っちゃうわけですよ。そういう事情があるなら人道的に一緒にするわけにはいかないな、プロテクトする意味も含めて自分のグループに入れるのが最善の選択だってことになります。でも、それを外部的に説明する「もっともらしい理由」が無いんですよ。だから、頭ひねくりまわして、色々な理屈をつけるんだけど、どうしてもシャープさに欠けますよね。だから、やっぱりそのあたりは批判されてしまう。挙句の果てに、そのAさんが美しかったりすると、「なんだよ自分は美人ばっかりちゃっかりモノにして」みたいな痛くもない腹をさぐられたりします。そこまで言われても、「馬鹿野郎、これには事情があるんだよ、ド阿呆!」といいたいところだけど、言えない。事情ってなあに?ってことなったらAさんに迷惑がかかるでしょ。だから、ヘラヘラ笑って聞き流していないといけない。

 単なる同好会とかその程度のレベルですらこういった「複雑な」事情が発生するのだから、人々の生身の欲望が衝突しあう実際のビジネスシーンでは、これに輪をかけて複雑極まる事態が発生しますし、これが政治とかになったら尚更です。これが、「人の上に立つ」ということの実体であり、大なり小なり、なんらかの「表に出せない人質」をとられるのです。

 別に若くたってこのあたりの事情を理解できる人は理解できます。「ははあ」と深い理由はわからないけど、「なにか止むを得ない理由があるんだろうな、表には言えないんだろうな」ってことですね。「人にはそれぞれ事情がある」という原則です。これは、16歳くらいでも分かる人には分かる。それどころか12歳でも6歳でも分かる奴は分かる。野球部のキャプテンで、親友でも泣く泣くレギュラーから外さざるを得なかったとかそういう経験をしてきていれば分かるはずです。逆に、40になっても50になっても全然わからんアホはいます。こういうことが分からないから、人の上に立つポジションに就けないのだけど、就けないから益々分からないという悪循環ですよね。



 あとは、立場の違いというのはやっぱりあるわけで、年をとるにしたがってマネージしなきゃいけない事柄が増えてきます。
 20代のヒラ社員だったら、いくら本人が深刻ぶってようが考えるべき事柄の数なんか知れてます。しかし50歳の部長にもなると、マネージすることが増えてくる。最近、子供がグレて困った、明日は教師との面談だとか、配偶者が浮気をしているらしいとか、親がボケてきたのでそろそろ介護をつけた方がいいだろうけど、どうやって切り出したものかとか、親族間で遺産分割でモメているとか、そのあたりの家庭の事情がまずあります。さらに仕事面でも、ビジネス的な状況判断とか正面のものもあるし、またぞろ総会屋系の裏社会の連中がしきりに接近しようとしてきているのをどうやって防ごうかとか裏面のものもあります。部下の○○が最近落ち込んでるから元気付けてやらないととか、社内でイジメがあるようだという匿名のメールがきてるけどどうしたものかとか、、、もう同時処理しなければいけない懸案事項が30も40も重なってきて、その半数以上は自分のことでも、自分が原因でも何でもないことだったりします。他人の事をあれもこれも考えなければならない情況で、判断が多少トロくなったり、説明がいい加減になってしまったり、ついぞんざいな口調になってしまったりすることは、人間だったら当然だと思います。しかし、そのあたりの事情は、実際にやったことある人間でないとわからない。わかりもしないで、「ウチの上司は無能」と公言して憚らない人も、まあ、いるよね。

 今これを読んでいるあなたが20代だったら、今から10年後、20年後となるにつれ、自分のために費やす時間とお金、つまり可処分時間/費用は加速度的に減っていくことを覚悟しておかれるといいです。今の数分の一にくらいにまで減り、ほとんど自分のことなんか構ってる余裕はなくなるかもしれない。今の日本社会で普通にやってたらそうなるでしょう。もし、それがイヤだったら、人間関係や生計や人生に思い切ったリストラを断行するしかないです。仲間はずれになろうがどんな陰口を叩かれようが一匹狼を貫くとか、結婚しないとか、恋人も割り切った関係にするとか。出世もキャリアも家族関係すら諦める、ということは今の日本社会では実質上「老後の安心」も諦めることです。家族関係をリストラするというのは、人生の最後で「身寄りのないお年寄り」になってひとりぼっちで死んでいくということを意味するでしょう。それが必ずしも悪いことだとは僕は思わないけど、自発的にそういう選択をする場合、かなりドラスティックに腹を括る必要はあります。昔だったら西行法師のように出家したりするとか、今だったら単身外国に移住するとか、そのくらいの感じになると思います。一回全てを捨てるくらいの根性はいるでしょうし、僕も海外移住組ですが、行く以上は「見知らぬ異国の道端で行き倒れになって死んでも本望」くらいには思って来ましたし、今だってそう思ってます。

 そこまで踏み切れない人は、やっぱり周囲との間で適度な人間関係を構築していくしかないし、それらのメンテナス、別の言葉でいうと「しがらみ」で、多くの自由時間もお金も奪われることになります。年末ともなれば「一応顔をだしておかなきゃね」という忘年会の日程が山盛り入ってきますし、中元・歳暮・暑中見舞いに冠婚葬祭で年間出費は100万を軽く超えるようになるでしょう。

 ワーホリでこちらにこられた人にオーストラリアの周遊貧乏旅行、いわゆるラウンドをお勧めしてますが、やっぱりあんなに何ヶ月も放浪旅行できる機会なんか人生において滅多にないからです。滅多にどころか唯一かもしれない。冷静に考えてみたら分かるのですが、そんなに長期間滞在できるビザというのがまず少ない。観光ビザは通常三ヶ月、特別申請で半年ですが、現地で農場で働いて稼ぐということが出来ないです。働けるビザになると学生ビザ、労働ビザ、永住権ですが、学生ビザは学校への出席率80%以上という規定があるからそんなに何ヶ月も放浪できない、労働ビザは当たり前だけどそこで働かないとならない。永住権だったら自由になんでも出来ますが、逆に永住権をとるということは現地で生計を立てねばならないということで、とても周遊している精神的余裕はないです。また日本社会においても、普通に働いてしまったら海外旅行で休みを取るとしてもいいところ1週間が限界でしょう、それも事前事後に職場でエクスキューズを出しまくり、山ほど土産を買わねばならない。しかし、それとて30代以降になってくると責任がのしかかってくるから1週間も休みをとること自体至難の業になるでしょう。そうこうしているうちに結婚すると、盆暮れの休みになると「どっちの実家に帰るか」で激論が展開されたりしますし、相手の実家に言ってもホリデー感覚はまるでないでしょう。さらに子供が出来ると子育てに忙殺され、いちおう手がかからないところまで育て上げ、仕事も一段落した頃には60代になって身体が言うこときかなくなってる。バックパック一つで気楽な放浪なんか考えただけでうっとうしくなります。こうやって逆算していくと、結局、今しかないでしょう?と。可処分時間というのは、そのくらいレアなものだということですね。

 


   話を戻して、「大人になるとやらねばならないこと」ですが、もう一つ面倒なのは「人を育てる」という行為です。下が増えてくると、育てねばならない人が増えてくる。好むと好まざるとに関わらず、人はイヤでも教育者にならざるを得ない。そして、No pain no gainの原則で、成長には苦痛が伴いますから、その人を成長させようと思えば、どうしても苦痛を与えるハメになります。自分がイイコぶって甘やかしてたら、結局その人は無能のまま地獄に落ちるわけですから、ハードな課題でも与えなければならないし、失敗に懲りてない奴には懲りさせないとならない。また、本人が自力で這い上がってこないと意味がないこともありますから、妙に説明しちゃダメで、敢えて理不尽に振舞う必要がある場合もあります。

 「キミもそのうち分かるよ」といわれる事柄の多くは、上記のような事情にあるのだと思います。

 しかしながら、これって色々なことを経験してきて、洞察力があるかどうかって問題だという気がしますね。@経験の質と量×A本人の洞察力のマックスポイントがどこにあるかってことです。@の経験量が少なくても、一つの経験を5にも10にも応用させる洞察力のある人、いわゆる「一を聞いて十を知る」という人だったらその範囲は広がるし、Aの洞察力が乏しかったらいくら経験しても身につかないということになるでしょう。そして、Aの洞察力が同じだったらあとは@の問題であり、経験を増やすには時間が必要だから、長い時間を持ってる人間の方がより深く理解している度合いが高いというだけのことだと思います。

 「キミに大人になればわかるよ」と言いつつも、「こいつは大人になっても分からんだろうな」って人はいますし、「この人今までどうやって生きてきたんだろう?」という年齢は高いけど全然理解範囲の狭い人もいます。逆に、子供だって、かなりの程度事態を正確に洞察できてたりします。「あ、お父さんなんかすごく疲れているみたいだから、あんまりワガママ言うのはやめよう」とかね。子供は子供なりにかなり気を使ってたりします。

 そう考えていくと、大人は経験豊富だから全て正しく、子供は未熟だから常に間違っているとは言いがたいでしょう。「経験をつむことによって人は賢くなっていく」という一般的原則や傾向としてはそう言えるにしても、理解力や学習能力にものすごい個人差があることを考えたら、常に常に年長者有利というものでもない。また、「若いがゆえに見えないこと」もある反面、ここでは詳しく書かなかったけど、「大人になる過程で忘れていってしまうこと」も沢山あります。経験を積むということは経験に縛られるということでもあるし、情報が増えるということはその情報を整理しきれず振り回されるというリスクもある。経験度に応じて視野が広がるのが一般かもしれないけど、経験が増えると視野が狭まることもあるし、経験自体が偏っていたりすると、「視野が濁る」ってこともまたありえるでしょう。また、仮に視野が広がり、洞察力が高まったとしても、それらの能力を公正に使うか、利己的に使うかはおのずと別問題です。



 こう書いていてシミジミ思うのは、大人VS子供という二元論で全て理解しようというのが無理じゃないのかってことです。

 さきにも書いたように、子供と大人の理解力や善悪の判断力の差というのは、思っているほど大きなものではないのでしょうね。子供心に反発したのは、大人のいわゆる「大人性」みたいなものに反発したのではなく、大人の個々の言動に「人間として醜悪である」という人間的な倫理的判断として反発したように思います。例えば、大人ゆえの二面性、その人の前ではベンチャラ言って、離れると悪口を言うというのを、子供は卑怯だの、嘘つきだの感じて反発しますが、それが人間的倫理的に醜悪であるのは、やっぱりその通りでしょう。

 それを「だから、大人はキライだ」と思ってしまいがちなんですけど、それは大人一般がキライなのではなく、当該個人が嫌いなだけではないでしょうか?Aという人間がいて、その人のことが嫌いだったとしても、それはAの個人的特性がキライなのであって、Aが「大人だから」キライなのではない。「キライなAがたまたま大人だった」ということかもしれないです。これ、大人とか子供とかいうから話がややこしくなるのであって、「血液型B型の人」とか「山梨県出身者」とか「東大卒」とかに置き換えてみたらわかります。たまたまキライな人間がたまたまB型で東大卒で山梨出身だったという。

 これは、過去のエッセイでも書いたことあるけど、「過度の一般化」の問題です。
 上の説例で、同じ人間を嫌うにしても、人によっては「だから東大卒ってのはイヤなんだ」って思うかもしれないし、「だから、山梨県人は嫌いなんだ」と思うかもしれないし、「B型って奴はどうしてああなんだろう」って思うかもしれない。でも、そのキライな面、例えば「お金に汚い」という欠点があったとしても、それは山梨県人の特性でも、東大の特性でも、B型の特性でもないのだけど、見る人によって勝手に一般化してしまうという。あなたがシドニーで誰かとシェアして、それがすごくイヤな奴でほかのシェアメイト全員に嫌われていたとしても、あなたは「だからオージーは嫌いだよ」と思ってるその瞬間に、他のシェアメイトは「だからローマカトリックの奴は嫌いだ」と思ってるかもしれないし、「だからメルボルン出身の奴は嫌いなんだ」と思ってるかもしれない。はたまた、「だからタバコを吸う人はキライ」「だからIT関係の仕事をしてる奴はキライ」「だからルースターズ(地元のラグビーのチーム)のファンはキライ」、、、、こんなの無限にありますよね。その中の一つとして、「だから大人はキライなんだ」と思ってたのかもしれないでしょ?



 
 そして、このことは逆にも言えると思います。つまり、子供がワガママで反発したり悪態ついたりするのは、それは「子供だから」そうなのではなく、「そういう人間だから」なのではないかって。

 ひねくれて、小生意気で、甘ったれたクソガキは、長じてもやっぱり、ひねくれて、自己中で、理不尽な難題を部下に押し付けるような大人になる可能性が高い。裏表があったり、二面性が極端な大人は、やっぱり子供の頃からそうだったというケースが多いのではないか。そりゃ常にそうなるとは言いませんし、ガビーンとくる巨大な人生経験を経てガラリと人柄が変わることはありますよ。でもそれは万人に訪れるものではなく、文字通り「三つ子の魂百まで」で行ってしまう人も多いでしょう。



   部活などで後輩に対してやたらエバるタイプ、会社でやたら横暴に部下に接するタイプというのは、実は自分が後輩や部下だったときに先輩や上司にタテつくタイプだったりします。「なんだよー、先輩風吹かせてんじゃねーよ」とかブチブチ言ってる奴に限って、自分が先輩になったら、「後輩のクセに生意気なんだよ、おまえ」とか言ってるという。逆に、自分が後輩のときにナチュラルに先輩に接してる人は、自分が先輩になってもナチュラルに後輩に接し、過度にエラそうにしないような気がします。部下のときは上司を非難し、上司になったら部下を非難するというこのテのタイプは、要するにただの自己中クンなのでしょう。なんでも自分中心だから、自分を弁護したり正当化できる論理だったら何でもいい。後輩のときは「そんな上下関係はナンセンスだ」といい、先輩のときは「やはり上下関係はビシッとしているべきだ」という彼の言動に、なんの論理一貫性や整合性はないのですが、そんなもん無くてもいいのでしょう。要は自己正当化が出来るかどうかなのだから。

 もう一つやたらエバるタイプとしては、先輩/後輩、上司/部下という人間的上下関係にやたら過剰適応してるタイプというのが考えられます。このタイプは、自分が下の立場のときには上の者に従順であり、時として媚びへつらったりする点で、上記の自己中クンとは違います。しかし自分が従順に媚びていたことを、自分の部下にも求めるわけで、あんまり上司になってもらいたくないタイプです。

 しかし、両者に共通する部分というのはあります。それは、どちらもナチュラルで豊かな人間関係を築けないタイプだということです。先の自己中タイプは自分しか好きになれないのだから他人とミューチュアルな(相互的な)人間関係は築きにくく、後者の上下関係命タイプは、全ての人間関係を上下関係でしか捉えられないわけだから、これまた人間関係形成のパターンが偏りすぎている。

 


   そして、こういった自己中クンも上下クンも、ボクの実際の経験範囲でいえば、そんなに多くはないです。まあ、僕が所属していたのは弁護士とか一匹狼的特性の強い世界で、そんなに上下的組織体じゃなかったこともあるので、一般の会社ほどシリアスな上下関係を経験する機会も少なかったというのは確かにあると思います。しかし、それを差し引いても、「うわ、たまらんな、この人」って人は、そーんなに多くないような気もしますよ。二人に一人もいないのではないか。僕の実感では10人に一人もいないような気もしますが、多少割り引いて考えたとしても50%もいないでしょう。そりゃあ、行くところに行けば沢山いるかもしれないし、そういう奴ばっかりってところもあるでしょう。でも、そうでない人ばっかりというエリアもあるわけで、広く社会全体を見渡せば、大多数の人は、リーズナブルに、ナチュラルに人間関係を築いているんじゃないかって気がします。

 もし、そうだとするならば、いわゆる年齢的上下関係とか、それにまつわる弊害というのは、全体の中の一部のタイプの人間が巻き起こしているだけの話で、誰にでも共通する一般的な問題ってわけじゃないんじゃないかって気がします。つまり、ごくナチュラルに存在する長幼の礼と、それに伴う多少の人間的凸凹はあるとしても(=普段は道理をわきまえている人でも、虫の居所が悪いとつい年齢を理由にして理不尽な言動にでてしまうということはあるとしても)、そこから逸脱して「うわ、たまらんな」というレベルにまでは達していない。

 神様の視点で世間の全てを上から俯瞰できるとしたら、いわゆる自己中タイプの後輩が自己中タイプの先輩といがみあっていて、その横でなんでもかんでも上下関係クンが彩りを添えているだけじゃないかって。大多数の人間は、ナチュラルにうまいことやっていて、それだけだったら別に問題も生じていない。ただ一部の鬱陶しい性格の人が頑張っていて、たまたま不幸にもその周囲にいてしまった人がその迷惑をこうむるという。

 もっと言えば、長幼の礼とか年齢世代の問題や弊害は、多くの人にとってはさして問題でも弊害でもない。それが問題になるのは、自己中的なエンバラシングな(迷惑な)人が正当化の理論武装として長幼とか世代とかを持ち出してくるからであって、その問題の本質は「そういう面倒くさい人がいる」ということであり、あくまで個々人の性格の問題じゃないかって気がします。だから、年齢世代や長幼それ自体は無罪であり、強いて問題点を指摘すれば「悪用される恐れがある」ということだと思います。料理包丁みたいなもので、それ自体は調理に不可欠な道具で罪のあるものではないけど、ときとして包丁が殺人の凶器になることもある、というのと同じことです。

 というわけで、子供大人二元論は、なんとなく思われているほど絶対的なものでも決定的なものでもないんじゃないかという話でした。




文責:田村


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