今週の1枚(05.02.07)





ESSAY 194/英語の学習方法(その11)


リーディング(その4) 精読と濫読

写真は、ブルーマウンテンナショナルパークのカンガルー。
たまには気恥かしくなるくらいキメキメのオーストラリア写真を。




 リーディングの第4回です。
 今回はリーディングをするときの”メリハリ”について書きます。「精読(せいどく)」と「濫読(らんどく)」です。

 これはリーディングをすることによって「何を得るか?」という問題に重なってきます。
 リーディング、リーディングといいますが、じゃあ英文を読むことによって具体的にどのような学習効果があるというのか?ここって意外とあんまり語られることがないですよね。でもそれって変な話ですよね。

 スポーツに例えてみれば、足腰を鍛えるためにスクワットをやる、心肺機能を高めるためにジョギングをするという具合に、どこを鍛えるために何をするかというという、目的=手段=効果の関係がキッチリ把握されています。フィットネスクラブなどにいけば、このあたりはかなり精確に説明されるはずです。やれ有酸素運動がどうのとか、筋肉の再生には何時間かかるとか、こういう腹筋の方法では関節を痛めるおそれがあるからこういう姿勢でやるといいよとか事細かに教えてくれますし、インターネットを巡回して関連サイトにいけば山ほど合理的な説明がなされています。いまどき、ただ何となく身体を動かしてればいいんだ、ハードにやってればいいんだという大雑把な方法論は流行らないでしょう。

 これだけスポーツとかダイエットの世界では、トレーニングと効果の関係を厳しく検証し、方法論が洗練されつつあるというのに、英語にこういった発想を応用しない手はないです。ただ何となく身体を動かしてるだけだったら無駄も多いし、マイナス効果もあるのだとしたら、英語学習においても、ただ何となくやっていても同様に無駄も多いし、マイナスもあるのでしょう。

 ただ、Don't go too far で、あんまり頭でっかちになる必要もないですよ。
 オリンピック選手やプロ選手などにならない限り、そんなに朝から晩まで食餌制限やら生活管理ができるわけないですから、科学的合理的トレーニングといっても、それほど決定的なものではないでしょうし、金科玉条に思うこともないでしょう。それに、何となく理屈が通ってるような通ってないような疑似科学的なダイエット方法なども沢山あるようですので、あまりにもこのあたりの理屈に偏りすぎるのは、それはそれで問題だと思います。なかには嘘八百というのもあるでしょうしねえ。だから、僕らのような素人レベルでは、誰もが言ってるような、衆目の一致する原理原則レベルを押さえていればいいのでしょうね。それ以上精密な議論をしたって、僕らの実際の日常生活がそのとおり実行されていないのですから絵に描いた餅でしかないでしょう。大事なのは、練習と効果の関連性を頭に入れておこうということです。

 英語においても話は同じで、対効果を考えて合理的に勉強する必要があるとは言いながらも、そんなにイチから十まで科学一色に塗り潰される必要はないです。また、あまりにも理屈を求めすぎると、妙な方向にねじまがっていってしまう危険もあります。効率を重んじるのはいいのですが、それが段々「楽して最大の効果を」という怠け者の免罪符みたいな方向に陥り、「いかに効果的に習得するか」という問題が「いかに楽をするか」という問題にすりかえられたりします。その種の英語教育法は山ほどあると思いますけど、このシリーズ一回目から口をすっぱくして書いている「とにかく量の原則」、あるいは ”No Pain No Gain”の原則に反するものは、あんまり効果的ではないでしょう。





 さて、なんのためにリーディングをやるか?ですが、「リーディングが上手くなるためじゃん」というレベルで終わってないで、もっと真剣に考えてみる必要はあるでしょう。なんでリーディングをやるとリーディングが上手になるの?リーディングが上手になるには何をすればいいの?リーディングが上手に出来ないのは何が足りないからなの?と。

 英文を読みます。最初からスラスラ理解できたら問題ないわけで、当然あちこちでつまづきます。まず知らない単語が出てくる、知ってる単語なんだけど知ってる意味で使われているように思えない、単語は全部わかるけど内容が理解できない、何でこの語順になるのかわからない、文章が長すぎて理解できない、一見理解できるのだけど文脈に照らしてみてどうもおかしい、、、などなど。

 そして、これらの難関でスタックする度に「作業」を行います。つまりは、知らない単語の意味を調べるために辞書をひく、知ってる単語なんだけど確認のために辞書をひく、奇妙な語順になってるような気がするので隠れた文法上のトリックがあるかどうか調べてみる、文章が長すぎる場合はカッコで括ったり、シンプルな形に置き換えて理解しようとする、それでも理解できないときはなにか別の理由があるんじゃないかと推測する、それでも分からないときは、、、諦める(-_-;)。

 こういった作業によって、@ボキャブラリが増える、A既に持ってるボキャブラリをより正確に精錬させる、B文法を調べることによって文法力をつける、C長文のフレームワークのパターンなどを理解するという訓練ができます。これらは、ボキャブラリや文法の練習になっているのですね。

 以前書いたように、4スキルズや語彙や文法力というものは、各個バラバラに存在しているのではなく、相互に密接に関連しています。「リーディングをすること」は実はボキャブラリや文法力の勉強に他ならず、逆にボキャブラリや文法力の勉強が「リ-ディングのための勉強」になったりするわけです。





 さて、ここで冒頭に掲げた「精読」と「濫読」について書きます。

 どちらもあまり日常的には使わない日本語だと思いますが、「精読」というのは神経を集中し、一字一句をおろそかにしないで読むことです。「眼光紙背に徹する」という表現がありますが、一行一行を親の仇みたいににらみつけて、書いてある内容はおろか、書かれていないこと(暗示してあることまで)完璧に理解しようとする読み方です。これに対して「濫読」とは、もう'手当たり次第、片端からガンガン読み進むことです。精読が文章に対する理解の”深さ&正確さ”がポイントなのに対し、「濫読」は読む”量とバラエティ”がキモになります。全く対照的な読み方といってもいいでしょう。

 僕の考えでは、リ-ディングには両方必要だと思います。あるときは精読で、またあるときは濫読で、ケースバイケースで読み方を変える、意図的にメリハリをつけると良いのではないか、と。

 精読の重要性と効果は、これは比較的分かりやすいと思います。上に書いたように、ボキャブラリの習得から、実際に各単語がどのように使われているかを知ることにより、その語意の本質をより正確に把握するとか、公式を覚えただけの文法知識を実際に使われている現場を見ることによって血肉にしていき、またあやふや文法知識を正確にしていくなど。


 ところが濫読の効用というのは分かりにくいと思います。ともすれば「なんとなく読んでる」だけのように思われますからね。




 濫読の効用は、「量」です。とにかくシャワーのように英語を自分の脳味噌に浴びせかけること、それも膨大な時間浴びせつづけることによって、英語に対する「経験値」があげていくこと、さらには英語にとって一番大事なセンスを磨くことを目的にします。これは中々表現しにくいし、理解しにくいところだと思いますが、英語独特のリズム感や、独自の発想方法、そしてカジュアルな用法変化、省略方法、ユーモアセンスというのは、本当の英語理解にとって非常に大事な要素だと思います。ひっくるめて言えば、いわゆる「スジを良くする」ということですね。で、この「感覚」を養うのは、これまでやってきた量であり、バラエティだと思います。

 さきにリーディングの際の問題点として、「一見理解できるのだけど文脈に照らしてみてどうもおかしい、意味がよくわからない」ということを書きました。こういうような場合、多くは英語世界に対するセンスが今ひとつ乏しいから、なかなか理解に到達できないのではないでしょうか。そして、これは「知識」というよりも「センス」の問題だと思います。

 僕も英文を読んでいて、どうにもこうにも意味が分からない部分がよく出てきます。おそらくはある単語になにか特別な意味があるんじゃないかな?と思ったりしますが、辞書でひいても訳が沢山あって、いったいどれが当てはまるのか分からなかったりします。手を尽くしても分からないという時点で、もう知識的、論理的には解決不能だと思います。与えられている情報だけでは、当該単語の意味を一つに絞り込むのは論理的に不可能であると。でもネィティブはそれでも易々と理解してるわけで、なぜだ?と思うのですが、そこがセンスなのでしょう。



 話が抽象的でわかりにくいでしょうから、日本語の場合で例をあげます。
 日本語で「やる」という言葉があります。それだけの無色透明な意味だったら、なにごとかを実行するとか、行動するとかいう意味、つまりは英語でいうところの"do"でしょう。しかし、この「やる」もTPOによって意味ががらっと変わります。犯罪的な場面でつかわれるときは、「やる」=「殺す」という意味だったりしますよね。「先代の組長をやったのは○○だ」とかね。さらに専門業界的になると「とる」という言い方になり、「神戸をとる」とフレーズは「山口組組長を暗殺する」という意味になります。はたまた、男女関係の推測するとに使われる「やる」は「セックスする」という意味になりますよね。

 また別な単語で「出来る」という言葉がありますが、単に可能である、able という意味だけではなく、「出来る男」とかいえば「有能な」という意味ですし、「あの二人はデキている」といえば恋人関係にあること、さらに「デキちゃった」と完了形にすると「受胎した」ということを意味します。

 こんな例は枚挙に暇がないでしょう。そして、僕らが英文を読んでいても全く同じことが起きるわけです。辞書には沢山の意味が並んでるんだけど、いったいどの意味で言っているのかが分からない、という。わからない筈ですよ。読んだ時点でピンと来なかったら、あとは幾ら考えても分かるわけ無いですから。これが僕のいうところのセンスってやつです。こういう状況で、こういう人物が、こういう方向に話す場合には、○○という単語は通例○○という意味に使われるという、単語のTPO的意味変化がわからないから結局わからない。

 まあ、これも単語のTPO的意味変化という「知識」といってしまえば知識なんですけど、でもここでの知識はそんなに明確なものではなく、輪郭もぼやけてますし、何となくこんな感じで使われる場合が多いという経験則ですよね。ですので、知識と明確にいってしまうよりは、ぼややんとした「センス」なんじゃないかと思うわけです。そしてそのセンスは、たくさんの場数を踏んでこないと見えてこない。だから量が必要。

 ここで、「なあんだ、単にスラングを沢山知ってればいいんだ」と問題を矮小化してはならないでしょう。単に単語の意味内容の状況的変化、だけではないです。同じことは文法にだってあります。

 例えば、日本語の終助詞で「わ」というのがあります。「〜ですわ」というような場合ですが、これはメインの説明としては、女性言葉として現れます。「わたくし、そのようなことはいたしませんわ」と。今時これだけ優雅な話言葉を使ってる女性はマレだと思いますが、ともあれ原則的にはそうです。しかし、おっさん言葉としての「わ」もありますよね。どっかの不動産屋のオヤジさんが、団扇をパタパタあおぎながら「いやー、そこが中々難しいんですわ」と言うような場合です。これは明らかに女性言葉ではありませんよね。さて、女性言葉の「わ」とおっさん言葉の「わ」、どういう法則性で区別されているのでしょうか?僕にはようわからんのですよ。もちろん僕らはネィティブですから、聞けば一発でどっちの意味かはわかりますよ。しかしその区別の基準を外人さんに説明するのは難しい。だって、男が喋ればオッサン言葉で、女が喋れば優雅な女性言葉というわけでもないでしょう?若い女性は使わないかもしれないけど、ある程度年とってきたら女性でもおっさん言葉の「わ」を使うでしょ。「そりゃ、あんた、運ってもんですわ」って、おばちゃんだって使うでしょう。さらにこれらの前提をもとに、「オカマ喋りのおっさん」「やたらオヤジが入ってるおねーさん」というシュチュエーションだってあるわけで、ギャグやコミカルな場面だったら出てきますよね。敢えてギャグの意味でつかっているのか、それとも普通の用法として使っているのか、これを区別するのはひとえに「センス」でしょう。そして「終助詞わの使用例」というのはボキャブラリ知識ではなく、文法でしょう。スラング知ってりゃ解決ってもんじゃないでしょ。

 英語でも、このシュチュエーションにしては何かやたら仰々しい言い方をしてるな、多分これギャグでいってるんだろうなとか、わざわざ難解な言い方を敢えてさせることによってこの人物を頭でっかちで融通のきかない学者タイプとして表現しようとしているなとか、えらく優雅なものの言い方をしてるクセにやってることはえげつなかったりすることで当該人物の精神のねじれ具合を表現したりします。映画マトリックス2、3に出てくるフレンチマンのおっさんの英語も、やたら優雅で高踏的だったりするのですが、それがわからないと「このおっさん、相当歪んでるな」ってニュアンスが分からんです。ところで僕は日本語字幕のヴァージョンを見てないのですが、あのあたりどう訳しているのでしょうね。

 濫読は、これらのセンスを磨くべく、ありとあらゆる英語の使用場面に遭遇するためのものです。
 SFから、医学から、法律、経済、歴史、哲学、地誌、料理、園芸、鉄道、冒険、育児、葬式、建築、修理、、ありとあらゆる場面に赴き、「こういう場合にはこういう英語の使い方をするんだな」という膨大なデーターベースを頭の中に作っていくためのものです。





 以上のように精読と濫読とは趣旨が全く違いますから、読み方、読む際の注意点も全く対照的になります。

 精読の場合は、もうほんとに一言一句ゆるがせにせず、「どうしてここは " a" ではなく "the" になるんだろう」「なぜここで過去形にするのだろう」を立ち止まって考え、分からなければわかるまで調べてください。まあ、結局分からないってこともあるだろうし、単なる誤植でしたって笑えないこともあるから、ほどほどにしておくべきだとは思いますが、書かれている英文を文法的に解説できるように。

 そのため、精読においては必ずしも全部読む必要はありません。通例小説などよりも新聞記事などの方が精読には向いているでしょうが、この場合、一つの記事を読みきることに意味があるわけではありません。そりゃ全文読まないと流れがつかめず、文脈もわからないから、個々の部分もよく理解できないってことはあるでしょうが、完読すること自体に意味があるわけではないです。あくまで個々の英文を教材にして、各単語の意味、使われ方、さらに文法構造を調べ、学び、復習し、マスターするというところに意味があります。

 精読は思いっきり時間がかかります。一行読むのに3時間かかってもいいですし、一行理解するのに一ヶ月かかることも、極端な話10年かかることもあるでしょう(=といっても、一つの表現を理解するため10年同じところで足踏みしていろってことじゃないですよ。宿題にしておいておいて、ちゃっちゃと先に進んでください)。でも時間がかかってもいいですし、時間をかけた方がいいです。結局、リーディングをやってるというよりは、ボキャブラリや文法の勉強をしているのですからね。また、中上級になってきたら、ライティングにリンクさせ、「いい表現だな」「なるほどこう書けばいいのか」というのがあれば、積極的にパクってください。さらに上級、超上級になってきたら、書かれている英文を自分で添削するくらいの気概で読んでください。「あー、ダメだね、こんな雑な表現じゃあ」とかいって(^_^)。





 一方濫読の場合は、「質より量」です。立ち止まらないで、わからないところはガンガン読み飛ばしてください。もう1日50ページとか100ページ、あるいはそれ以上というくらいのボリュームでぶっ飛ばしてください。 

 濫読は、前回と前々回に述べた小説が向いていると思いますし、僕も小説は濫読にしました。最初はキチキチ辞書なんか引いてましたけど、それをやってると1ページ読むのに3時間くらいかかってしまいます。それにそんなに必死になって調べてもストーリーに大きく関係しない部分も多いですし、また関係しない部分に難しい単語が集まってたりします。僕が自分で決めた濫読のオキテのその1は、「辞書をひかない」ということです。

 「辞書をひかない」というのはなかなか大胆な方法論のように聞こえるでしょうが、それなりに合理性があります。
 ひとつは、前述のとおり辞書をひいているとキリがないということです。もう遅々として進まないので読むのがイヤになってきて挫折します。小説は面白いから読むのであって、その面白さをスポイルするほど辞書をひいてはならない。二つ目は、あんまりイチイチ立ち止まって考えてしまうと、リズム感が損なわれることです。英語独特のリズム感やテンポを身体に馴染ませるのも濫読の目的の一つですから、テンポ良く、リズム感を意識しながら読んでいってください。

 3つめは、本筋に関係ないようなところに難しい単語が集中していたりする傾向があることです。例えば情景描写。「針葉樹を中心にしたいかにもゲルマン的風景の中にその建物はあった。鬱蒼とした森林は彼らの祖先の魂の奥底に人知の及ばぬ深い諦念を、まるで杉の胞子が浮遊し、着床するように植え付けていったのかもしれない」なんて描写は、まるっぽ無視してもストーリー展開にそれほど大きな問題ではないでしょう。これをいちいち「針葉樹」とか「胞子」とか「諦念」とか辞書でひいていっても大変ですし、こういう難しい単語は一回くらい辞書をひいても次に出会う機会が数年後だったりして、結局忘却の彼方にさようならだったりします。意味無いでしょ。

 そして、「どうしてもこの単語だけは知っておきたい」というものが出てくるでしょうから、それは辞書をひいてもOKです。
 「どうしても知りたい」と思えるものというのは、すなわち何度も何度も繰り返し出てくる単語でそれがわからないと気持悪くて仕方がない場合だったり、あるいはドラマの展開に決定的な部分だったりするでしょう。前者の例だと「彼は机の横に古ぼけたAがあるのを発見した。Aは年季の入った見事な細工物だった。(中略)家を出るとき、『失礼、このAはどなたのものですか』と聞いたところ、死んだ祖父のものであることがわかった」とか、何度も出てくるとこのAという物体は何やねん?と気になりますからね。そんなに気になるんだったら、辞書ひいた方がいいです。「なんだ、インク壺のことか(fount)」とか一発でスッキリしますから。後者の例だと、「事件当夜、彼は物置小屋までいってあらかじめAをBしておいたんです。そうすればBされたAはおりからの強風にあおられ時ならぬ物音を立てるのです。それを僕らは賊の侵入だと勘違いしたのです」なんて場合、トリックのネタですからどうしても知りたいですよね。多分「裏口のカンヌキをあけた」とかそんなことだろうけど、確信を得たいとか。そういう場合は辞書をひきましょう。





 さて、ここで、辞書をひかないで読んでたって何がなんだかさっぱりわからないじゃないか、それじゃ読む意味なんかないじゃないかって疑問もあろうかと思います。Don'y worry、これが結構わかっちゃうんですよ。僕も意外だったんですけどね。最初はもう辞書をひくのも倦んで、適当に、半ばヤケクソで読んでたわけです。もう主人公が生きてるのか死んでるのかすら分からない、登場人物がゾロゾロ出てきて誰が誰だかごちゃごちゃになってしまった、というかそもそも主人公が誰だったのかも曖昧になってしまうという。「こんなんで読み進んで意味あるんか?」とか思ってたのですが、不思議なことにそんなボケボケ状態であっても、最後まで読むにつれてストーリーがわかってきて、読み終えたときには結構感動してるんですよ。

 その後何冊か読んでもやっぱり同じようなパターンになるのですね。最後にはわかってるという。なんでこんなに穴だらけなのに分かるんだろう?とか思っていろいろ考えてみたのですが、それなりに理由はあるのですね。

 理由その1は小説というものの構造です。起承転結、序破急など小説には一定のパターンがあります。ものすごい前衛文学とか幻想小説でもないかぎりドラマツルギーというものがあります。多くの物語は、前半部分にひたすら登場人物の数は増え、話は広がり、関係はややこしくなります。これは日本語の小説を読んでいてもそうだと思いますが、前半はツライのですね。「あれ、こいつ誰だっけ?」ということもママあるでしょ。ところが後半になると、拡散から一転して収縮をはじめます。宇宙みたいですね。思いっきり広がりまくった物語が徐々に一点に向けて収縮を始めます。こうなると下り坂を勢い良く進むようなもので、どんどんあちこちで話の辻褄があってくるし、「ああ、そういうわけだったのか」という説明がなされます。そうなると面白くなってきます。だから前半はチンタラ進むのですが、後半になるともう一気に読めてしまうってことになるわけですね。

 次に、小説というのはうれしいことに大事なことだったら何度も繰り返して書いてくれることです。例えば、主人公が交通事故で妻をなくしたという設定があり、その最初の説明部分を読解できなくても、あとで幾らでも同じことを説明してくれます。例えば、海を見てると亡き奥さんを思い出したり、誰かに会えば「奥様はどうなさいました」「事故で死にました」「おお、これは失礼」とか話をするし、新たに登場した女性と「また、奥様のことを考えていたのね」「雨が降るとね、あの日も雨だったからね」とか 何度も何度も出てくるのですよ。だから、ちょっとやそっと読み飛ばしたとしても、フォローの機会はあるわけです。





 もう一つ、小説を読む場合のメリットがあります。
 それは、一人の作家が全部の文章を書いているということです。そんなん当たり前じゃないかと言われるでしょうが、これが結構ポイントだったりするのです。一人が書いてるから読みやすい、と。

 作家にはスタイル、文体というものがあります。それはプロの作家になればなるほどそうです。また、スタイルというほどのものではなくても、クセとか、好きな表現や単語があります。最初はそれに慣れるまでギクシャクしますが、一旦その文体や、言葉のクセに慣れてしまえば、あとは延々その繰り返しになりますから、どんどん読むのが楽になってくるのですね。

 これはプロに限らなくても、あるいは文章に限らなくてもあります。つまり普通の人の喋り言葉でも同じ傾向がある。誰しも、自分のお気に入りの言葉の使い方というのがあり、いつもいつも同じようなパターンで喋ったり、同じような単語を使ったりします。またちょっと大袈裟にいう傾向があるから割り引いて聞こうとか、とても大事なことをボソッと言う傾向があるから注意しなくちゃとかいう傾向と対策もわかります。

 ホームステイやシェアで同じ人とずっと暮らしたことのある人、それもよくお喋りしてきた人は経験あると思いますが、「この人の言う英語はほとんど分かる」「でも、人が変わると全く理解できない」という現象が生じるでしょう。これはある意味では当然のことで、僕らは仮にネィティブであったとしても、そんなに言葉の魔術師ではないし、身の回りの表現をかろうじて使いこなしているに過ぎない。ありとあらゆる表現を散りばめ、まさに「千の技を持つ男」みたいに多彩な表現に満ちてるわけではない。コギャルの「ウザい」「キモい」「ムカつく」の三位一体で森羅万象全てを表現しようとするほど凄くはないですけど、そんなにバラエティに富んだ表現力を持ってるわけじゃないです。特に話言葉だったら。ほとんどが使い慣らした口クセみたいなもので成り立ってるのでしょう。だから、しばらくしてそのクセに慣れてしまえば、あとは比較的楽です。でも、一旦人が違ってしまうと、また全くクセが違うから、いきなりゼロになってしまうようなことが起きるのでしょうね。

 小説の場合も、読み進むにつれて、この作家のクセに慣れていきます。表現のバリエーションも大体覚えてしまうから、あとになればなるほどスラスラ読めたりしますよ。

 いずれにせよ、小説というのは、一番最初のとっかかりが一番ハードです。物語は始まらないわ、クセにも慣れてないわ、話それ自体はまだ説明的なものばっかりで面白くないわですから、メゲやすいです。で、「よーし」とか勢い込んで買ってきても10ページもいかないうちに挫折するという結果になるのでしょう。そんなんで挫折するくらいだったら、特に最初は辞書もひかず、とにかくガンガンぶっ飛ばしてください。後半になったら、それも終局に近付くに連れどんどん面白くなりますよ。まあ、そもそもその小説自体がスカで完璧に理解したとしても全然面白くなかったという悲劇もあるでしょうけど、それでも自分の力で英語の、それもこんなに分厚い本を読破したという達成感で、面白くない本も無理やり面白く感じられると思いますよ(^_^)。








文責:田村

英語の勉強方法 INDEX

(その1)−前提段階  ”量の砂漠”を越える「確信力」
(その2)−波長同調
(その3)−教授法・学校・教師/スピーキングの練習=搾り出し
(その4)−スピーキング(2) コミュニケーションと封印解除
(その5)−スピーキング(3) スピーキングを支える基礎力
(その6)−スピーキング(4) とにかくいっぺん現場で困ってみなはれ〜二つの果実
(その7)−スピーキング(5) ソリッドなサバイバル英語とグルーピング
(その8)−リーディング(その1) 新聞
(その9)−リーディング(その2) 新聞(2)
(その10)−リーディング(その3) 小説
(その11)−リーディング(その4) 精読と濫読
(その12)−リスニング(その1) リスニングが難しい理由/原音に忠実に
(その13)−リスニング(その2) パターン化しやすい口語表現/口癖のようなボカした慣用表現、長文リスニングのフレームワーク
(その14)−リスニング(その3) リエゾンとスピード
(その15)−リスニング(その4) 聴こえない音を聴くための精読的リスニングほか
(その16)−ライティング 文才と英作文能力の違い/定型性とサンプリング


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