今週の1枚(04.12.20)





ESSAY 187/英語の学習方法(その4)−スピーキング(2)


 コミュニケーションと封印解除




写真は、ショッピングセンターのクリスマスの飾りつけ(Broadway)。3階ぶち抜きのクリスマスツリーに天使が舞っています。




 英語の学習方法の第四回です。
 前回の後半にスピーキングの練習方法を書きましたが、今回はその続きです。


 スピーキング能力とは、言いたいことを口頭で伝える能力のことです。この「伝える」ということ、意思疎通を図るということを、一般にコミュニケーションといいます。しかしコミュニケーションは何も会話だけではないし(文字によっても行うし)、また言語だけによるものでもないです。まずここを押さえておかれるといいと思います。コミュニケーションとは何か?

 コミュニケーションというのは、ひらたく言えば「人と人とが理解しあうこと」ですよね。
 理解しあうのは何も言葉だけに頼る必要もない。というよりも言葉による場合の方が少ないくらいです。機会あるごとに引用してますが、僕が以前通っていた語学学校の校長さんが言ってましたが、人間のコミュニケーションのうち言語によって行われているのはわずか十数%に過ぎない、残りの80数%は圧倒的に言語以外の方法によってコミュニケーションがはかられている、と。これはそのとおりだと思います。

 言語以外のコミュニケーションってなによ?というと、それは顔の表情、ボディランゲージ、行動、はたまた”気”であったり、オーラであったりします。それはわかるが、そんなもんが80%以上を占めるのか?というと、占めると思いますよ。

 だって、考えてみて欲しいのですが、ご自宅のペットにせよ牧場の牛馬にせよ動物は言葉を持ちません。彼らなりにあるのかもしれないけど、僕ら人間のような言葉ではないです。でも、彼らとはいい友達になれますし、彼らの言いたいことも結構よくわかるでしょ。「あ、エサが欲しいんだな」「くそー、エサが欲しいときだけ愛想ふりやがって」「一緒に遊ぼうって言ってる」とか分かるでしょう。ここが全然分からなかったら、そもそも動物映画なんか成立しないですわ。そういえば先日、シドニーでジャパン・フィルム・フェスティバルというのがありまして、「Quill」という日本の盲導犬の映画を見てきましたが、やっぱり感動してしまいました。動物好きな人にはお分かりでしょうが、動物だって表情はあり、オーラはあります。「得意げな顔」「心配そうな顔」はしますし、そういった心情はときとしてダイレクトに伝わってくるでしょ?「人と人(動物)が理解しあうこと」をコミュニケーションとすれば、彼らとでもコミュニケーションは図れますし、そこには言葉は介在しません(あるとしても人間が一方的に言うだけ)。

 あるいは言葉が未発達の赤ちゃんとだってコミュニケーションは図れます。「今日はご機嫌だ/ご機嫌ナナメだ」なんてのはお母さんお父さんだったらすぐに分かるでしょう。なんで分かるの?

 僕らはつい今現在の言語能力(日本語能力)を子供の頃から持っていたかのように錯覚しますが、小学校1年くらいの日本語能力なんか知れてます。僕も断片的に覚えてますが、新聞読んでもまるで理解できなかったし、TVでニュースを聞いてもほとんど分からんかったですよ。身の回りのことは喋れても、ちょっと抽象的な話になったらもう言えない、理解できない。大体小学校1年の国語の教科書のレベル、「さいた、さいた、さくらがさいた」とかそんなもんですよ。でもね、竹馬の友といいますが、小学校低学年、あるいは幼稚園時代でも十分に人間関係は作れましたし、その頃の友達の方がよりピュアな友達だったりします。



 動物や子供だけではなく、成長した僕らの日常でも、言語は使ってるようで使ってないです。職場で、言いにくい案件を上司に持っていくとき(長期休暇が欲しいとか)、上司の顔色をうかがって、「今日は機嫌がいいかなー」「あ、今日はダメだわ」とか分かるでしょう?職場の同僚の○○さんが落ち込んでいるとか、背中がススけているとか、ズーンと沈んでいるとか、顔どころか後姿だけでもよくわかっちゃったりするでしょう?なんで分かるのよ、顔すら見てないのに。営業で走り回っていれば、得意先が「脈アリ」かどうか、語られぬ本音部分を敏感に察知する能力が必要でしょう。取調べにあたる刑事は「こいつ嘘言ってるな」というのを見抜きます。別に的中率100%とは言いませんが、分かるときは分かるでしょう。

 それどころか、本音と建前の日本社会では、語られる言語に本音が宿る場合の方がはるかに少なく、僕らが日常生活で語っている言葉は、ほとんど儀式のような言葉だったりします。「まあ、いいんですのよ、このくらいのこと、ほほほ」と笑ってられても、「あ、目が笑ってないぞ、結構怒らせちゃったぞ」とか分かるでしょ。逆に、「うーん、大変だったねえ」と同情するフリをされても、「この野郎、目が笑ってるぞ、いい気味だと思ってるんだろう」とか分かるもんです。腹芸なんかその極致で、ほとんどテレパスみたいな世界です。「いやあ、きみい、わっははははは」「いやあ、なかなか、あはははは」しか言ってないけど、それで通じる。それで通じなかったら「あいつは馬鹿だ、使えない」と言われてしまうのが日本の大人の社会ってもんでしょう。





 こうしてみていくと、「言葉」なんかいったい僕らの生活や人生にどれだけの役割があるというのでしょう。

 最も真剣に相互理解を計ろうとする人間関係、つまり恋人や、夫婦、家族を考えてみてください。言葉によって理解が深まる場合よりも、言葉によって理解が妨げられる場合の方が多くはないですか?「そんなつもりで言ったんじゃないよ」「じゃ、どんなつもりなのよ!」と、些細な言葉の切れ端に、その人の人間性や自分に対する想いの軽重を敏感に汲み取り、そして敏感すぎるがゆえに誤解し、ワヤクチャになってしまった経験は誰しもあるでしょう。一生懸命に誤解を解こうとしても「口先ばっかり」「口ではなんとでも言えるわ」と言われちゃうしね。遠距離恋愛をすれば、電話やメールでの些細な一言が気になり、悶々として自分で勝手に悪い想像を膨らませ、勝手に怒りまくったりする。「くそお、今度会ったら言ってやる」と思います。でも、実際に会ってみれば、例えば新幹線のホームで3ヶ月ぶりに会ったら、もうそんな気持なんかぶっ飛んでいます。「やあ」「やあ」と温かいものが通ったりします。

 ”オーラ”とかいうと分かりにくいのかもしれませんが、人間がそこに存在するというのはドエライことなのでしょう。人間に限らず「存在する」という現象は、恐ろしいほど膨大な情報を保有しているのでしょう。これって見過ごされてますが、メチャクチャ重要な事実だと思います。

 といって第六感とかオカルティックな話をするつもりはなく、十分に普通の五感の作用だけで分かるのだと思います。人間の知覚というのは、自分でも信じられないくらい緻密であり、信じられないくらい膨大な情報を処理できるのだということです。人間の脳味噌の情報処理能力は、最先端のコンピュターが束になっても叶わないだけの能力、とりわけパターン認識能力があるといわれているそうです。例えば、同じ人間でも喜怒哀楽で表情が変わりますが、僕らはそれでも易々と同一人物かどうか見極めることが出来る。とくに恋人や家族など親しい人間だったら一発でわかる。でもコンピュターが幾ら進化してもこれって出来ないそうです(昔に聞いた話だから今は出来るのかも知れんけど)。機械に「この人の顔の特徴」と覚えこませると、笑って表情がズレたらもう別人として認識しちゃうという。融通がきかない。人間はこの融通がきく。つまりパターンとして覚えるから、情報が変形しても同一性を認識できる。同時に、顔の表情の、ほんの数ミリ単位の顔筋の変化だけで敏感にその人の気分をうかがうことができる。

 「機嫌が悪い」とか「落ち込んでいる」「あんまり本気じゃない」なんていうのも、顔の表情だけから分かるし、「目が輝いている」なんてのも瞳孔が開いて光の反射率がほんの少し増しただけなんでしょうけど、すぐに分かる。しかも表情だけではなく、「返事をくれるレスポンスタイムが早い」「声の調子が弾んでいる=たぶん母音や子音のオンオフ/切れがいいんでしょう」という態度でもわかります。真剣に聞いてるフリをしてるのだけど「心ここにあらず」だなってのも分かる。一連の動作のパターンが、本当に真剣なときに比べてズレているからです。「落ち込んでいる」なんてのも、身体の自然な動作がいつもよりもコンマ数秒遅いとか、そんなところまで認知して判断してるのでしょう。だって、そこに何らかの違いがない限り僕らにはそれはわからない筈ですもんね。逆に言えば、これらを正確に模写/擬態できる人間が、いわゆる「役者」なのでしょう。人間の無意識的な身体の動きまで正確にトレースできるから、彼らはプロなのでしょう。はたまた「行動で示す」「行動になって現れる」ってのもあります。土砂降りの中、3時間も待っていてくれたという「行動」が何よりもその人の誠意を感じさせてくれるでしょ。


 これら「存在情報」とでもいうべきライブの情報に比べたら、言語に乗っかってる情報なんか微々たるものであり、粗雑極まりないといってもいいです。目の前にいる人間の顔を、「へのへのもへじ」「丸書いてチョン」みたいに書いてるようなものなのが言語。だって、目の前に心奪われるような美形の人が現れたとします。美形といっても、平安絵巻的に古式ゆかしい美形なのか、ラテン的に情熱的な美形なのか、ミステリアスな美形なのか、無限といえるくらいのパターンがあり、それは見れば一発でわかるのに、言葉にしていうと「すっごい美形」としか言えないという。ね、丸書いてチョンのレベルでしょうが。人生が変わるくらい素晴らしい景観を目の前にしても「すっごいいい眺め」しかいえないし、食べ物の美味しさなんか「おいしい」「まったりとした」くらいのボキャブラリしかない。実際の口中の快感の情報量に比べてみたら無きに等しい。「おふくろの味」なんてのはどうにもそれ以上言語で形容できない。昔通ってた学校に立ち寄って「懐かしい匂い」を思い出すけど、「懐かしい匂い」くらいしか言えない。愛する人を抱きしめるときの手や腕に残った感触を表現する言語は、ない。


 そして、これら一連の例を通観して分かることは、言語を介在しない方が人間関係はピュアになりやすいってことです。言語を全く介在しない動物、赤ちゃん、言語が未発達な段階での幼なじみ、、、、これらの関係はピュアでしょ。それが言語を発達させることによって、言い訳とか誤魔化しとかお世辞とか社交辞令が入ってきて、関係はどんどん汚れていく、、、とだって言えるんじゃないでしょうか?

 だったら言語って何なのよ?本当に要るの?って思っちゃいますよね。僕も本当のところは要らないんじゃないの?って気もしますねー。本質的にそんなに大事ではない事務処理には、言語というのは大切ですよ。NTTに連絡して電話設置工事の予約をしようにも、住所とか日時を伝えないと話が始まりませんから。住所や日時というのは人工的な抽象概念ですから、これは言葉によらないと分からない。でも、電話設置なんかそんなに人生において重要なの?というと、まあ諸雑務ですわ。だから、言語というのはどーでもいい部分では大活躍だけど、重要になればなるほどしょぼくれてくるのですね。僕も毎週毎週多大な言語を費やしてこれを書いてますが、「言葉なんかそんなもん」って思ってます。言葉というのは、既に僕らが知っている情報を整理するための本棚とかブックエンドとかファイルホルダーのような「整理ツール」にすぎないと思います。文章のプロ、とくに文豪レベルになると、その超絶的な技巧と感性で、僕らの感情の奥襞にあるものを的確に言語で表現してみせるけど、どこまでいっても「既に知っていることを思い出させてくれる」「整理させてくれる」以上のものではない。





 だったら英語なんか必死こいて勉強しなくたっていいんじゃないの?何のためにやるのさ?って思うでしょう。そうなんですよね、別にやらんでもいいんですよ。全然英語ができなくなって、いっくらでも豊かな人間関係は築けます。心を開いて、ピュアな気持で人と接していけば(犬や赤ちゃんがそうするように)、大丈夫です。

 しかし、なかなか大人になってしまってから、こんなに子供みたいに社会に接していけないんですよね。しょーもないプライドもあるし、カッコつけたい助平根性もあるし、保身本能もある。また、大人になれば、「どーでもいい」諸雑務が山積しますから、言語能力を使って処理していかないとならない。

 そうそう、これは余談ですが、英語というのは観光英語と生活英語とではレベルが違います。それは生活レベルになると圧倒的に諸事務が増えるからです。また、ワーホリや留学くらいだったら諸事務の量もたかが知れてますが、本気で生活するとなるとケタ違いに増えます。つまり、ちょっとの間の滞在の方が、「人と人とのピュアなふれあい」の占める割合が高く、ゆえに英語力もそれほど必要とされないけど、生活すればするほど事務割合が増え、そこでは正確な英語がより必要とされます。やれ税金だ、やれ家の修理だ、やれ病気だ出産だ育児だと増えていきますからね。そして事務レベルになるほど相手も「人のふれあい」というなごみ系のモードでいてくれないから、素早く正確な英語を要求されます。「クソ忙しいんだから要領よく喋らんかい!」てなもんです。





 こういった事務レベルはともかく、豊かな人間関係を築くためには、英語を取得する以上に、ピュアなオーラをあなたが発散することが大事だと思います。が、しかし、難儀なことに、これが日本人のもっとも苦手とする分野だったりします。だから、あなたの英語は通じなかったりします。

 何度もこのエッセイで書いてますが、日本社会での大人の付き合いというのは、「場の空気を読む」「その場で求められている自分の役割を果たす」ことで成り立っています。場の空気を読めない奴は、「このボケ」とか「しょーもないこと言いおってからに」とイジめられます。ほんとだって。日本人も生まれた時点で日本人なわけではなく、成長するに伴って「日本人になる」のでしょう。それがカルチャーってもんです。3歳くらいだったらまだ普通の人間です。「ケンイチ君、何が食べたい?」「僕、カレーライス!」って即答ですもんねー。ところが6歳くらいになって、学校に通ってホームルームとかになって「ケンイチ君、なにか意見はありますか」とか学級委員に当てられたら、のそっと立ち上がって、「いま考え中で-す」「皆がいい方でいいと思いま-す」とかボソボソ言うでしょ。「詰まらないから早く帰りたいです」とかいう本音の意見は既に封殺されています。わずか6歳で。これがカルチャーの重石というやつでしょう。

 以後、周囲の人間の思惑を的確に察知し、自分の与えられた役割を果たそうと勤めるようになるわけですが、これってピュアなオーラを発散するということからすると逆方向にいくわけです。日本社会において社会に出るということは、求められる人間像を果たすことであり、演技することであり、端的に言ってしまえば「嘘をつく」ことでもあります。そりゃ、どんな社会でもこういう傾向はあり、どこの社会でも子供が一番ピュアだって言われます。でも日本社会は、同質性文化と和の精神で、それが極限までソフィスティケートされています。セレモニアスな一連の動作で成り立つ茶道のように。嘘をつくためには本音オーラを押し殺さねばなりません。本当はお腹がすいているんだけど、そんなことは毛ほども感じさせないようにビシッと抑制する。それが大人。

 外人さんって、そこにいるだけに妙に存在感があるでしょう?これって見慣れていないだけではなく、いくら見慣れても尚存在感がある。これは、多分オーラを殺す度合いが少なかったから、自然に発散してるんじゃないでしょうか。日本人はオーラを殺してきてるから、存在を空にし、何色にでも染まるように修練している。これはこれで日本の文化の素晴らしいところだとは思いますよ。文化というのは人間の動物的な部分を極力抑制し、一つの定められた方向性に収斂させることでもありますから---といって何のこっちゃと思われるでしょうが、動物的に思うがままそこらへんの路上でいきなりウンコしたらマズイでしょ、性欲にかられるままいきなり押し倒してしまったら問題でしょ、食欲を満たすためにガツガツ食ったらはしたないわけです。食欲だったら、テーブルマナーや行儀作法があり、人間の動物性を殺し、一連のパターンに押し込め、優雅に見えるように調教するのが文化というものでしょう。性欲や男女関係でも、一定の作法があり、中世ヨーロッパでは舞踏会で優雅にダンスを申し込んだり、平安貴族は和歌を詠んで届けたりするわけです。だから日本人がオーラを殺しているとしても、それはそれだけ「文化的」といえるわけです。だから誇ってもいい。

 しかし、文化というのは、その所属する小集団内部での「ケッタイなお約束」ですから、異文化の人と接触するとこれが通用しない。日本に生まれ育ち、死んでいくだけだったら、日本文化の衣に包まれ、人生のすべてを文化の用意している様式に従えばそれでいいですけど、一歩外に出たら通用しないんだもん。そうなると文化というサプリメントはきかないので、人間本来の動物的な存在感でやっていかないとならない。海外に行くのでしたら、僕らが、4-5歳くらいから長い長い間封印してきた「人間としての生物オーラ」を解き放ってください。封印解除。感情解放です。楽しかったら楽しい顔をしなはれ、悲しかったら悲しい顔をしなはれということです。自分の生き物としての獰猛な生命力を復活させてください。

 余談ですけど、日本社会はきちんとゆりかごから墓場まで整備された生活様式や文化に優しく包まれてますから、あんまり個々人のナマな野望や欲求を表に出す必要もないし、普通にやってりゃ大抵満たされるように出来てます。しかし、今日のように時代が変わり、時代が荒れ、これまでの文化システム(これをやってりゃ一生安泰というパターン)が薄らいできたら、自然の生命力で、「うおお、俺はこれがやりたいんじゃあ!!」というパワーで自分の進路を決めねばなりません。でもそれって殺してきちゃったから、今更どうやったらいいのか分からなくなってる部分があると思います。つまり「自分でも何がしたいのか分からない病」「人生の夢が持てない、どうやって夢を持てばいいのか分からない病」ですね。生き物としての素朴な欲や感性を殺しすぎると、羅針盤が壊れた状態になるので、これはツライと思います。

 で、生命力の復活ですが、「ふっかぁつ!」と呪文を唱えたら復活するもんでもないです。徐々に慣らしていかねばならないし、おそらくは「三つ子の魂百まで」で、一生掛かっても完全解除にはいかないでしょう。それでも、意識的に解放していってください。





 さらに、日本人としての特徴が英語場面でハンデキャップになるのは、日本人が言葉に頼りすぎることだと思います。あるいは高度にソフィスティケートされたコミュニケーションしかやってこなかった点です。

 日本の一般の社会関係においては、儀礼化された言葉の交換でなりたってます。また、日本は、ほぼ単一文化単一言語単一民族という、これだけの規模の国にしては世界でも珍しい社会ですから、今までコミュニケーションをしてきた人というのは、自分と同じ言語を完璧に使える人であり自分と同じ文化、自分と同じ知識を有している人でした。「ビートたけし」っていえば殆どの日本人はそれが誰だか知ってるし、「紅白」といえば色彩のことではなく大晦日にやる紅白歌合戦であることを知っている。ほとんど頭の中身が同じ、殆ど発想も同じだから相手の行動もほぼ推測できます。推測できるから「察しの文化」が発達し、それゆえに「場の空気を読む」というテレパスさながらの行為が可能になります。

 しかし、世界の多くの国々では、程度の差こそあっても多民族国家であり、多言語国家です。オーストラリアやアメリカの新国家は移民国家だから当然としても、ヨーロッパは地続き国境ですから異民族が頻繁に往来していますし、過去の植民地政策のツケでアフリカその他の国から人がどっと流れ込んでくる。インドは公用語だけでも十数あるといいますし、中国だって北京と上海だったら話し言葉は全然違う。アフリカや海洋諸島や辺境の少数部族は一村あげて同じ言語でしょうけど、それだけに隣村にいったらもう異文化異言語です。南米は、あそこも移民(というよりもスペインやポルトガルの侵略)国家であり、今尚移民国家です。だから、世界中の人達は知ってるんでしょね、「言葉や文化の違う人と人間としてコミュニケートする方法」を。子供の頃から日常的に異文化接触をやってれば、それは上手くなりますし、オーラも殺しすぎずに上手に発散できるようになるでしょう。外人さんは身振り手振りのジェスチャーが大袈裟だといいますが、あれは「大袈裟」というよりも「上手」というべきでしょう。身振りで伝えるにしても技術が要りますし、彼らはそれを必要とされる場面があったのでしょう。そして、必要あるところに技術あり。

 日本人が海外にいくと、これまで優しく包んでくれた文化の衣が剥ぎ取られ丸裸になります。裸になってもやっていけるオーラ的なスキルは、残念ながら乏しい。そしてコミュニケーションというものを、同質社会内部の儀式的なそれと頭から思い込んでいる。だってそれしかやってきませんでしたからね。同質社会のコミュニケーションは文化に高度に様式化され、言語もまた様式化され、様式化された作法のなかでやっている。これはもう皇室も、サラリーマン社会も、暴力団や暴走族内部もキッチリそれなりの作法と言語があります。ある意味では暴力団くらい内部社会での言葉遣いや礼儀作法にやかましい社会はないくらいです。親分や兄貴分にタメ口きこうもんなら即座に半殺しにされますもんね。





 以上を整理すると、@日本人にとっては、言葉も文化も共通知識もない文字どおり”異人”とコミュニケートした経験が乏しいために、どうコミュニケートしたらいいのか分からないし、異様な緊張状態を強いられることになる、A唯一知ってるコミュニケートは高度に様式化、省略化、儀式化された洗練された言語(例えば敬語の発達)の交換なので、それをトライしようとすることになると思います。

 ちょっと考えたらわかるように、異文化コミュニケーションの超初心者なんだから、原始的・動物的なオーラコミュニケーションから入っていけばいいのに、それは封殺されてるから出来ず、逆に最高難度に洗練された言語コミュニケーションをやろうとしているわけです。だから当然のことながら失敗する。失敗するには失敗するだけの合理的な理由がある。

 ちなみに、日本人が「会話、会話」と騒ぐのは、様式化された言語に頼りきっているひとつの現れといえなくもないです。それは、同じく単一民族で、日本以上にバリバリの儒教国家である韓国の人も同様です。儒教というのは、本来的には生活様式(礼)の体系化したものですから(聖人孔子の人生洞察的名言をシミジミ味わうことではない)、やっぱり彼らも「とにかく会話」と言語に頼る傾向があるのでしょう。結果として、シドニーにある語学学校のうち、前回紹介した普遍的な教育メソッド(4スキルズ)ではなく、英会話に特化した会話中心の学校の多くは、日本人と韓国人ばかりということになるのでしょう。他の国の人々は、コミュニケーションに自信があるのでしょう、別に会話だけを重視したりはしません。というよりも、スピーキングって4スキルズの中では一番簡単なものですから、別に金払ってまで習わんでもいいわって思ってる部分もあるのでしょう。





 「様式化された言語に頼る」という傾向の果てには、様式化された日本語の英訳をしようとして自爆するというパターンになって現れます。例えば、「よろしくお願いします」という内容にドンピシャに対応する英語はありません。なぜなら、この言葉は、日本独自のカルチャーで様式化された表現だからです。大阪弁の「もうかりまっか」みたいなもんです。これって日本の発想にどっぷり漬かってると分かりにくいのですが、本来的に「よろしくお願いします」なんていう必要ないでしょう?だって、これを言うような場面は、既に話が進んでいて、AさんがBさんに何か頼みごとをして、Bさんがこれを引き受け、Aさんがこれに感謝するという場面だと思いますが、人間としてのコミュニケーションはこれで完結してるじゃないですか。「よろしくお願い」もクソも、相手はもう引き受けるって言ってるんだから、それでいいじゃないですか。それを重ねて「よろしく」と言うのは、いかにも相手が頼りないとか、どうも本気でやってくれそうもないから不安だとか、無用な念押しじゃないですか?相手に対する感謝の念は「ありがとうございます」でいいわけです。

 ホームステイ先に行って、あるいは先行して手紙で、「よろしくお願いします」と書くのも屋上屋を架するようなものでしょう。相手は引き受けるって言ってるんだからさ、もうこれ以上念を押さなくたっていいでしょう。言われなくたってよろしくやってくれるでしょう。「そんなに私のことが信用できないんですか?」って言われちゃうよ。言うんだったら、「これからの新しい生活への不安と期待でドキドキです。楽しい生活になればいいなと思ってますし、そうなれるようにそちらの文化を学びたいと思います。お会いできる日を楽しみにしてます」で別にいいわけですし、英語だったらこう書くでしょう。

 でも、日本人的には、「どうぞよろしくお願いいたします」と言いたくなるわけですし、言わないとなんか収まりが悪いような気がする。だからその感覚が独自に文化的な様式なんだと思うわけです。この様式というのは、逆に麻酔薬にもなっており、「これさえ言っておけば深く考えなくてもいい」という便利なツールでもあります。それこそが文化の本質でもあるのですけど、面倒な部分は突き詰めて考えることをしなくてもいいように、これさえ言っておけば大丈夫というマジックワードを作るのですね。「よろしく」は日本語のマジックワードですし、マジックワードは翻訳できないし、しても魔法がきかない相手には意味がない。

 このように根本的なコミュニケーションの発想から変えていかずに、日本語の慣用句を右から左に英訳して覚えようとしたって会話として成立しないし、効果も乏しいし(逆効果にすらなる)、百害あって一利なしとまでは言わないまでも、徒労に近いです。おやめなはれ。そんなことするヒマあったら、子供に戻って、オーラの出し方を思い出しなはれ。





 さてオーラも表情も乏しく、「日本人は何を考えてるのかわからない」と言われがちな我々ですが、それも無理ないのですよ。「日本人はシャイ(内気)だ」とも言いますが、「シャイ」と善解してくれてるからいいようなもんの、本当はシャイですらなく(ド厚かましいおっさん・おばはんを想起すればどこがシャイやねんって思うもんね)、ただ単に立ちすくんでるだけなんだと思います。

 なんせ異人種コミュニケーション経験が乏しく、場の空気を読んで→期待される行動を的確に察知し→高度に洗練された様式言語で喋ろう、なんて途方もない難事業に挑んでるから結局何も出来ず、異様に緊張するからもともと乏しかったオーラも完全に消えうせ、もうどうしていいのかわからなくなってデスマスクになってるだけってことでしょ。これじゃ通じないですよ。当たり前ですよ。

 日本人を知ってる英語の先生やステイ先のオーストラリア人がよく言いますが、「日本人は何を喋ってるときでも同じ表情をする」と。どういう表情をするかわかりますか?端的にいって「英語を思い出そうと必死になって苦悶している顔」です。ステイ先で出された夕食で、「これ美味しいかしら?」と聞かれても、「えーと、なんと言えばいいんだろう」と英語表現を思い出そうとするし、喋ったら喋ったで「今の表現で合ってるのだろうか」という”一人反省会”を心の中でやっている。嬉しくても、楽しくても、「えーと、なんて言うんだ?」と必死に思い出して反芻してるから苦しげな表情になる。もうこうなったら、オーラなんか煙も出ないですわ。だから通じない。

 それと、これは発音の個所でまた言いますが、英語の発音というのは声量豊かでないと正しくサウンドとして成立しません。また、口も日本語の倍以上タテヨコ上下に活発に動かさないと発音できません。声量豊か、正確には「音圧」だと思いますが、に声を出そうと思ったら腹式呼吸をしなければなりません。アナウンサーや役者さんの発声、ボーカルの発声です。腹から声を出すと、胸から出してるときよりも呼気量が増えるし強さも増し、それゆえに声帯を豊かに震わせることが出来るから、結果として半オクターブくらい声域が広がる筈です。しかし、複式呼吸というのはリラックスしないと出来ない。人間の身体というのは緊張すればするほど呼吸は浅く、胸や肩で呼吸をするようになるから、どんどん声は細く、しだいに裏返ってきたりしますよね。逆に、リラックスさせるためには腹式呼吸をするようにヨガとか各セラピーでやったりします。要するに、焦れば焦るほど、緊張すればするほど、発音としてはダメダメになっていくわけです。





 以上、長々と書いてきたことを要約します。スピーキング、会話を少しでもうまくやろうと思ったら、まず土台であるコミュニケーションの基礎体力をつけなはれ、ということです。この基礎体力は、もっぱらメンタルなものであり、子供の頃のように、原始的で生命力溢れるオーラを発散しなさいってことです。高度な言葉に頼るなと。言葉が出てこなかったら、そこにしがみつかずに言葉以外の部分を充実させなさいと。そして、そのためには物怖じせずに、心を解放して、ゆったりした気持でいなさい、と。

 まあ、ねえ、「それが出来たら苦労せんわい」って言われるかもしれませんよね。でもね、「喋れて初めてリラックスできる」というなら絶望のニワトリタマゴになっちゃいますよ。だって、リラックスしないと喋れない→リラックスするためには喋れないとならない、でやってたら悪魔のループでしょ。

 じゃあ、どうすんのさというと、外人慣れ、場慣れしなさいってことです。こっちにきて朝から晩まで外人見てたら、しまいには見慣れますし、喋っても喋っても通じないとか大恥かいたなんてのもすぐに慣れます。だから、まあ、学校いって3ヶ月もしたら、ある程度リラックスは出来るようにはなってるでしょう。日本人同士で会話の練習をするのも尊いことだとは思いますが、特に会話の特訓でなくても、四六時中、数カ国の連中に囲まれて日常的に接していれば、それはそれで”精神の寛解”が生じるわけで、それが大事なことだったりします。

 だから会話が出来るようになってから外人さんとつきあうのではなく、会話ができるようになるために付き合うんですね。順番が逆というか、これはループであり、フィードバック関係にあります。そして、この付き合うのも、結局は「量」なんですよね。一番効率的に固めて四六時中つきあってるのがいいです。


 尤も、こう書くと、じゃあ日本人ゼロ環境でいきなり揉まれたらいいんだって早とちりする人がいますが、あのですね、リラックスするにしても「精神の安定」ってのが大事なんです。やっぱり通じないとか、外人ばかりに囲まれているというのは、相当な心的負担ですからね。ほっといてもストレス過多になります。ストレスは適度に発散しないと心のガン細胞化します。ヘタすれば、英語嫌い、外人トラウマをより深々と刻印して帰国、、ってことになりかねないし、そういう残念な結果になってる人は多いと思います。

 外人ストレス、英語ストレスの特効薬は、日本語であり日本人です。適度な頻度で、気の合う日本人にあって、心ゆくまで日本語でオージーの悪口を言い合うというのは大事なことだと思います。どのくらい「日本という解毒剤」がいるかですが、これは人によってそのレシピーは違います。だから、こちらに留学したら、自分に合った生理食塩水濃度みたいな英語環境を整えるのが大事です。学校選びにせよ家探しにせよ、最終的には、最大効率で緊張(勉強)とリラックスが出来るかどうかが目的だったりします。そのためには自分がどういう適性、どういつ精神的体質なのかを知らねばなりません。人によっては全然ストレスがたまらないかもしれないし、人によってはかなり溜まるでしょう。自分の特質を知り、その上でベストなレシピーにする。やみくもに「日本人が少ない学校がいいでーす」とか言ってる場合じゃないんです。そして適性を知るには、パッチテストみたいに、英語の現場にやってきて、町をひとりぼっちで歩いてみたらいいです。「あれ、結構私ってば落ち着いてるわ」って思うかもしれないし、そういう人は日本比率を減らしたらよろし。逆に「もう恐くて恐くて死にそう」って思う人は、日本という安心剤を多めにしましょうねってことになるのだと思います。



 なんだ、ほんのサワリだけ書いたらもう終わりです。
 続きます。




文責:田村

英語の勉強方法 INDEX

(その1)−前提段階  ”量の砂漠”を越える「確信力」
(その2)−波長同調
(その3)−教授法・学校・教師/スピーキングの練習=搾り出し
(その4)−スピーキング(2) コミュニケーションと封印解除
(その5)−スピーキング(3) スピーキングを支える基礎力
(その6)−スピーキング(4) とにかくいっぺん現場で困ってみなはれ〜二つの果実
(その7)−スピーキング(5) ソリッドなサバイバル英語とグルーピング
(その8)−リーディング(その1) 新聞
(その9)−リーディング(その2) 新聞(2)
(その10)−リーディング(その3) 小説
(その11)−リーディング(その4) 精読と濫読
(その12)−リスニング(その1) リスニングが難しい理由/原音に忠実に
(その13)−リスニング(その2) パターン化しやすい口語表現/口癖のようなボカした慣用表現、長文リスニングのフレームワーク
(その14)−リスニング(その3) リエゾンとスピード
(その15)−リスニング(その4) 聴こえない音を聴くための精読的リスニングほか
(その16)−ライティング 文才と英作文能力の違い/定型性とサンプリング


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