今週の1枚(03.12.29)
ESSAY 136/ 日本帰省記 (その5)
日本帰省記の第5回目です。
日本から戻ってきてすでに1ヶ月余り、もう大分記憶も薄れてきたのですが、写真を頼りに、ランダムに日本の印象を綴っていきます。別に珍しいような写真は殆ど無いでしょう。ただ、あまりにも当たり前の日常になってることでも、改めて見ると、なるほどそうだなということを取り上げてみたいです。この、「改めて見る」というのがキモですね。改めて見ると、なるほど日本って美しいな、なるほど日本って美しくないな、なるほどこういうところで暮らしていたのか、ということですね。
まず、お店の看板ですが、オーストラリアは規制が厳しいのでそんなにドカドカ看板や広告をかかげることが出来ません。そういうところから日本にやってくると、とりあえず看板が多いなと感じます。だからといって必ずしもイヤな印象を持つわけでもなく、その看板や広告が面白かったり、感心させられたりもします。ちょうど、大阪のミナミのカニ道楽とかグリコとか派手派手しいエリアに大阪以外の人がやってきたとき、「おお!」と面白がったりするわけですが、あの感覚に似てるでしょうか。
左の写真は、たまたま通りがかった時、あんまり面白いので撮った一枚です。
「うますぎてゴメンネ!!」というベタなキャッチフレーズもイイですが、なんといっても白眉は、「昨年は儲かりすぎましたので、今年は平均29.1%値下げしました」というコピーですね。そうか、日本は不況といわれていたけど、そんなに儲かっていたのか。しかも、29.1%というリアリティがあるんだか無いんだかの数字の根拠は?また、「駐車30台OK」と豪語してるわけですけど、”何処に?”って気もしますね。くすんだショッキングピンクを大胆に取り入れるカラーセンスといい、それを繁華街ではなく普通の住宅街、しかも警察署の前でやってしまうという行動力といい、just great です。
看板というのは、よく知られているように都市景観、美観風致から好ましくないと言われるのですが、こういう具合に感動させてくれるのならいいじゃないかって気もします。それに、日本の都市景観の場合、看板を外したら美しくなるのか?といったら疑問でもあります。このお店も、看板取り外したら美しくなるのであろうか?
だからといって景観なんか考えなくていいんだってことじゃあないです。それは真剣に考えるべきなのでしょう。が、看板ひとつで片付く問題でもないんだろうなってことです。
例えば下の写真をごらんください。
これらの風景は、しごく平凡な日本の町の風景です。全国何処に行ってもこういう風景が広がっているでしょう。そして、看板も広告も何もありません。じゃあ、看板がないから美しいか、景観が取り戻せるか?というと、「うーん、、」と思います。左端の写真などは、遠景の山は東山です。景観で有名な東山三十六峰の端あたりです。本来、それなりの美観があってしかるべきエリアでもあります。でも、なんか現代の日本だとこうなっちゃう。
なにがいけないのでしょう。別にいけなくないのかもしれないけど、美観か?本来ある自然の風景と美しくハーモナイズされているか?ドイツの田園風景とか、イタリアの石畳の風景のようにジグソーパズルの風景写真にしたいような風景か?額に入れて飾りたい風景か?といわれると、あんまりジグソーパズルにはしたくないです。なんでこうなっちゃうのかな、なにを変えたらいいのかな。
変えるんだったらもう根こそぎ変えるべきなんでしょうね。
まず第一に密集し過ぎという問題があります。もっとスカスカに家が建っていて、それぞれに広大な庭があったりしたら風景もまた違うでしょう。江戸時代の武家屋敷とかお寺みたいな感じに、松の間に瓦が見え隠れするような風景だったら美しいでしょう。しかし、そうも言ってられない。現に多くの人がいるわけですから、粛清して人間減らすわけにもいかないし(^_^)。ただ、常にこのエッセイで言ってるように、日本の人口というのは極端に都市に偏在しています。もう少し国土を有効利用して、地方に分散したらいいんじゃないかと思います。そのためには、産業構造やら自治体の権限配分などにメスを入れないとならないし、現にそういう作業は行われています。だから、僕がここで付加することはないのだけど、改めて思うのは、何もこんなに密集して暮らさなくたっていいんじゃないかということです。
第二に、密集しててもそれなりに美しくあることは可能です。前述のイタリアにしても、エーゲ海の白い家々にしても、密集してるっちゃかなり密集してます。京都も祇園あたりの昔ながらに紅殼格子の並ぶエリアは密集はしてるけど、美しさは保ってます。だから、密集していたとしてもそれなりにやりようはあると思います。町全体の統合的なデザインというものが必要なのでしょうね。
特に日本の風景を現在のように変えてしまったのは、戦後の住宅需要でコンクリートとかモルタルなどの灰色系の建物が増えたり、不動産価格高騰により一戸建ての区画が細分化されてしまったことによるのでしょう。リーズナブルな価格で一戸建てを建てようと思ったら、必然的に小さな家をせせこましく建てることになり、それも安い建材費で済ませ、同時にメンテも楽なもの(例えば汚れが目立たない灰色系とか)という要求があり、結果としてこうなったのでしょう。
このような建築様式が一般化することにより、必ずしも密集しているわけではないエリアにおいても(例えば日本の農村地帯でも)、同じような鉄筋モルタル的な建物になってしまっています。昔ながらの純和風建築や、藁葺農家などは建てたくても費用が嵩むのでしょう。そんなこんなで、日本全国どこいっても、あんまり心が弾むような景観にはならなくなっている。
あのー、ここで僕は別に非難してるわけではないです。ある意味仕方のないことだと思ってます。戦争に破れ焦土となった国が、分割も植民地化もされずに存続しただけでもラッキーであり、さらに経済復興を成し遂げただけでも奇跡みたいなものです。そんなミラクルを実現しようと思ったら、それこそ「なりふり構わず」やる必要があった。町の美観が、、なんてデザイン的なことまで頭が廻らなかったでしょうし、廻ったところでやはり優先順位としては劣後せざるを得なかったでしょう。最大限努力しての結果だと思いますから、非難など出来るわけがないです。
ただし、未来永劫、この一種、緊急過渡的・発展途上的な建築様式でいいのか?というと、話は自ずと別でしょうと思うわけです。貧しい時代に生まれた者は豊かになるべく努力し、豊かな時代に生まれたものはその豊かさをより本物に深めていくべきだろうと言ってるだけです。そして、これは都市計画の問題なのでしょうし、また建築家の方々などがはるかに詳しく、また日々実践したり提言されたりしているでしょう。だから、ここにおいても僕が新たに付け加えることなどないのですが、僕ごときの門外漢においても、そういう流れがあるわけねと改めて思い、そういった努力をされている人々への理解を深めたりもするわけです。
ちなみに、最近、日本ではデザイナーズマンションとか、100平米以上ある物件が人気だとか聞いたことがありますが、「住んでいて気持いい」ということを以前よりも重視するような流れになっているのかなと思います。
話は変わって、他に気づいたのが、パチンコがやたら隆盛だったということです。
昔からこうだったかどうか記憶も怪しいのですが、ともあれアチコチに目に付きました。昔から、地方に行くと、必ずといっていいほど国道沿いに巨大&ドハデなパチンコ店があったのですが、そんな郊外まで行かなくても、ウチに近所にもボコボコ乱立し始めていました。とりあえず日本に帰ったとき、今一番元気な産業は?といえば、百円ショップでもなく(思ったほど無かった)、激安ファーストフードでもなく(吉野屋の280円並は食べました)、パチンコ屋でした。
せせこましく建ち並ぶ普通の住宅を睥睨(へいげい)するように、ドーンと巨大なパチンコビル。駐車場には警備員のオジサンまでいます。なぜ、パチンコ屋がこんなに巨大でなければならないのか?よくわからないのですが、さらに謎なのが(というか単に知らないだけなんだけど)、北斗の拳などの人気マンガの看板が掲げられていたりします。おそらくはパチンコ(パチスロ)の機種のテーマとして、こういった人気漫画のキャラとか設定が使われているのでしょうが、なんだかよく分からないワールドが展開されています。
あとですね、写真右端のように、開店前に並んでる人が凄かったですね。まあ、開店前から並んでいい席を確保するのが定石なのは昔からですが、でもコンピュータ化され、デジタル化されている昨今のパチンコでもそういうことってあるのでしょうか。あるんでしょうねえ、現に並んでるんだから。
これも昔っから開店前には並んでいたのかもしれませんが、たまたま大阪梅田を開店前に歩いたわけですが、パチンコ屋というパチンコ屋に人々がずらっと並んでまして、そういう風景を見慣れていない目には、単純に異様な光景ではありました。「な、な、なんだ?」という。
ところで平均的な日本の男性の場合、学校出てから仕事して、お金稼いで生活するわけです。これは日本でなくても何処でも同じでしょうが、そういった生活において見える風景というのは、国によって違います。
日本の場合、出張などでビジネスホテルなどに泊まるわけなのですが、リーズナブルな宿にすると部屋が狭い。僕も飲み会のための一泊だけとりましたけど、「そういえばそうだったよなー」と思い出したけど、やっぱ最初部屋に入ったときは唖然とするくらい狭かったです。下左の写真がその部屋ですが、玄関のドアから撮ってこれですからね。要するにカプセルホテルにユニットバスをくっつけたようなものです。
あまり文句は言いたくないのですが、ちょっと胸を衝かれるような狭さで、昔刑務所見学したときの独房を思い出しました。2−3畳くらいだったから、この部屋からユニットバスを取り去ったら同じくらいのスペースかもしれません。「座って半畳寝て一畳」って言うから、これで十分っちゃ十分なのかもしれないけど、これで一泊税込み6000円弱ですから、やっぱり日本においてスペースは貴重なものなのでしょう。
もっとも、単に寝るだけならこれで十分ですし、寝転がって上に設置してあるテレビを見るには非常に便利な作りになっていて、結局日本に帰っている間では、このときに一番テレビを見ました。でも、まあ、テレビでも見てないと息が詰まるということもありますが。
でもって、ちょっと外に出ると、日本という国はやたら自動販売機がずらっと並んでる国なのですね。オーストラリアでは殆ど自動販売機というものが無いです。たまにコーラ、スナック、コーヒーの販売機が建物の構内にあるけど、公衆の路上に置いてあるということは余り無いです。だから、これだけ自販機が並んでると、しかも殆ど内容が重複しててもお構いなしに並んでいると、「おおっ」って思ってしまいますね。それだけといえばそれだけなんだけど、これだけ自販機があちこちにある国というのも珍しいんじゃないかな。
そんでもって、出張先でのお父さんの楽しみは、地元の美味しいもので一杯やることと、人によってはフーゾクですよね。というわけで、フーゾクの店が所狭しと建ち並んでいたりするわけです。
すごいですよね、美観風致もへったくれもないですよね。特に右の写真なんか、建築基準法や消防法をクリアしているのでしょうか?
でも、まあ、それを嘆かわしいとか、困ったもんだとか言ってるわけでもないです。「元気があってよろしい」とは言わないまでも、これが”民間活力”というやつなのね、と思ったりしたわけです。
このあたりは大阪はキタの太融寺あたりの一角で、以前僕が働いていた西天満からほど近いところでよく通り抜けたものです。ラブホテルが多いエリアなのですが(ちなみに僕が住んでいたのは桜ノ宮で、ラブホテルで町が出来てるようなエリア)、なんかラブホテルよりも風俗系の店が増えましたな。無料案内所なんてのも出来てたし、結構夜歩いていてポンビキのおっちゃんから声をかけられました。パチンコと並んで、日本では風俗産業が昔以上に隆盛なのでしょうか?
思ったのですが、この状況というのは日本の生活パターンをある種象徴してるなって。
何がというと、まず居住エリア。部屋が狭苦しいです。だから部屋に居てても楽しくない、というか居るだけだったらなんか拘禁性ノイローゼになりそうだったりします。家ではテレビとかパソコンとかやってないと間が持たない。閉じこもってるのがたまらくなって、外に出ますよね。すると前回も述べたようにベンチに座ってゆっくりくつろげる場所が何故か少ない。だから楽しみといえば、飲みに行くとか、買物するとか、フーゾク行くとか、要するにお金を使うことばっかりなんですな。日本にいると、本当にお金がかかりますが、もうどうしようもなくお金が掛かるように出来ているのでしょう。
だから、お金お金とやたら気にすることになる。オーストラリア的な感覚でいうと、日本の人ってやたらお金を気にしますね。もちろん健全な生活感覚としてお金を気にすることは大事なのですが、それ以上に「幸せのキーポイント」みたいに思ってる節がある。貯金大好きだしさ。それと、時期的に年末ジャンボが売り出される頃だったのですが、テレビつけてもその話題ばっかりでしたよね。オーストラリアでも宝くじ(ロタリー)は盛んですけど、日本みたいに「いよいよですねー」って誰も彼もが言ってて、しかも「この発売所で買うと当たる」とかそういう話題をガンガンテレビでやってるというのは、ちょっとばかり異常じゃないか?
バクチが好きなのはどの民族もそうだし、お金は誰だって欲しいし、日本人なんかむしろ大人しい方だとも思うけど、年末ジャンボにせよ、激安ブームにせよ、パチンコにせよなんにせよ、なんか金銭というトーテムポールの周りで踊りを踊ってるような感じがします。そこには、「お金があった方がいいよね」「クジにあたったらうれしいじゃん」という素朴な部分を超えて、もっと何か切実なものを感じます。でも、同時に、「こりゃ、お金がないと本当にミジメだわ」とも思った。
なんでこんな風になっちゃったんだろう。これだけ美しい風土とカルチャーを持ちながら、セコくセコくスパイラルを描いているような気がします。だからこそ思うのですが、ココから先は豊かな時代に生まれた世代の責任だろうと。戦前戦後の悲惨な時代を生き抜いてきた世代がここまで持ってきてくれたものを、さらに発展させること。それに、全体状況がハードで、食うか飢えるかという状態にあるときは、例え過渡的で一時凌ぎの狭い部屋であっても雨露がしのげるだけで人は幸せに思う。ゴチャゴチャした景観も、それが復興の証、元気の証明のように、逞しくも頼もしく好感を持って眺めることが出来たのでしょう。だから発展してるときはこれでよかったんだと思う。
逆に時代がハードでなくなったら、逆にこれらのものが足枷になってるような気がします。外が嵐だったら狭い穴倉でさえもありがたいけど、外が晴天になってしまえば同じ穴倉を不愉快に感じるようになるのと同じく、それまでハッピーだった仕掛けも全体状況が変れば逆に段々不快に感じるようになる。それだけ贅沢になっていってるんでしょうけど、それはしょうがないよね。そんなこんなで基本的なバックグランドが貧しく不快に感じるから、あとはいかに物や消費で誤魔化すかという話になり、そうなるとお金は無くてはならない必需品になる。
というわけで、お金の話になると、もはや日本名物といってもいいでしょう、サラ金が大々的に発展するわけですね。こういう高利貸しは loan sharkという英単語があることからも英語圏にも存在します。ただ、それはシェークスピアのシャイロックみたいな個人ベースでやってる、日本でいえばマチ金かそれよりもアンダーグランドな存在であり、日本のサラ金のようにここまで大々的に表で展開しているのは少ないと思います。
でもって、びっくりしたのが、各サラ金の無人貸付機だけ集中して立ち並んでる場所があるのですね。いわゆる”むじんくん”が集ってるわけですけど、「すごいなあ」と思ってしまった。高速道路のサービスエリアなどに自動販売機だけがずらっと置いてある一角がありますが、あれも随分妙な風景だよなあ、自動販売機王国だようなあって思ってたのですが、それ以上ですね。自動販売機でお金を貸すって発想も凄いけど、さらにそれが集まってるというのはもっと凄いなと。
でも、そもそもそれだけ多くの人が借りてるって現状も凄いですね。オーストラリアは現在バブルの真っ最中で、国民一人あたりは世界最高レベルに借金まみれになっているようです。"debt ridden Aussie"なのですが、その実態は住宅や車、クレジットなどのローンです。サラ金というものがそもそも存在しないので(日本みたいにメジャーな存在ではない)、物を買うときの代金がローンになって残っているという形になります。クレジットなんかもそうです。売買などの実態的な消費行為が先にあり、その結果として借金になるという。でも、日本のサラ金は、消費行為の前に借金があります。何に使うのか分からない時点でお金を貸してくれるという。これは、ある種特異な形態だと思います。
なにか特定の物を買うわけでもないのに、先立つものとしてお金を借りたいというのは、普通に考えたら、生活経済としてはヤバいです。ローンやクレジットのほか、貯金をおろしたり、定期を解約したり、友人から借りたりという正常の手段が取れなくなってからいよいよサラ金に走るのでしょうから、いわば破綻の一歩手前というか、本来だったらここで一旦整理すべきなのでしょう。サラ金系の破産事件もそれなりに手がけてきましたが、後から振り返れば、最初にサラ金に手を出す時点で、抜本的に対処すべきだったというケースが殆どです。手を出したら、もう坂道を下り始めるといっても過言ではないと思います。
もちろん商売をやってたりするならば、運転資金やつなぎ資金は絶えず必要ですから、話は別です。でも給与生活者の場合、サラ金に手を出した時点で、本当は「何かがおかしい」のであり、早急に処置すべきです。だからサラ金が隆盛を誇ってるというのは、社会としてはあんまり喜べない。それだけ坂道転げ落ちかけてる人が多いということですからね。また、本来腹を括って生活を立て直すべき時期にそれが出来ないってことでもあります。それは一つには日本人独特の社交的見栄。貧乏なんだから質素にすればいいのにそれが出来ない。また、根性キメて立て直すことが出来ずに先送りにしてしまうメンタリティ。いずれにせよ宜しくないです。
僕の目から見たら、本来こんなに流行ってはならないサラ金が流行り、さらにはこんな自動販売機ワールドがあるなんて、なにかのブラックジョークのように見えました。
で、借金で首が廻らなくなると自己破産して再出発すればいいのだけど、ホームレスになったりする人もいる。ホームレスなんていう言葉ここ10年くらいに日本語になった新語で、その昔は「橋の下で暮らす」とかいう言い方をしてました。ふと橋を通りがかってみると、本当に橋の下に人が住んでいるようでした。多分住んでいるのでしょうね。ただ、写真の左端に映ってる人は、近所の人で特に関係ないみたいでしたけど。
さて、上記のような日本の現実もあるわけですが、やはり美しい日本もまた健在なわけです。同時存在しているわけですね。
下の写真、左端は、嵐山の渡月橋から見た川の中州に群生していたススキの原っぱ。ねえ、やっぱり奇麗ですよねえ、日本って。特に造園したわけでもなく、何もしないでほったらかしの状態の、いわば雑草みたいな感じでありながらこれでしょう?別に、何が無くてもコレで十分じゃないかって気もします。
下の写真の右二枚は、山中温泉の那谷寺の風景です。この写真で何がわかるのかというと、自然と建物等の人工物がハーモナイズしてるなーってことです。特に吊灯篭のデザイン。色といいシェイプといい質感といい、背景の自然とマッチしていて、凄くよく出てきてるなと思ったわけですね。「やれば出来るじゃん」というか、昔っから出来ていたのですよね。
こういった奇麗な風景を、これは観光地だからとか、お寺だからとか、特別に奇麗なところだからとか、それだけで片付けてはイカンのではないかと思うのですね。「これが俺の家」というくらい高望みしてもいいじゃなかろか。もちろん今日明日どうにかなる話ではないけど、せっかくきれいな自然をもってて、それを活かすカルチャーも持ってるわけです。リソースとしては保有している。無いのは、それを実行するための政治・経済・社会システムであり、もっと無いのは”意志”なのかもしれません。
さて、固い話はこのくらいにして、海外在住の日本人に、”癒しの画像”を。美しい紅葉もいいでしょうけど、こういう写真もぐっとくるのではないでしょうか?
撮影したのは、京都の台所といわれる、錦市場です。
いかにも美味しそうですねー。凝り倒した芸術のような日本料理も勿論良いのですが、この種のお惣菜系が、海外にいるとなんとも懐かしく、食べたいと思うのですね。
下の二枚も同じように、僕にはぐっと来ます。
こういう何の変哲も無い風景がイイんですよ。おそらくは日本全国で数百数千と同じような風景があると思うのですが、JRのホームの風景とか、河川敷の風景とか、僕のなかにある大事な日本の原風景になってます。
そして、一番上の大きな写真、これが僕にとっては今回のベストです。写真の出来がどうとか、技術性とか芸術性とか抜きにして、本当にリアルな日本。特に奇麗なところだけを誇張するわけでもなく、特にイケてないところにスポットをあてるわけでもなく、ニュース性にこだわるわけでもない、ありのままの感じが良く出ていて、僕は好きです。
この写真を見せて、宮城県だよといえばそう見えるし、佐賀県だといえばそうだし、徳島といっても、静岡っていっても通じるでしょう。遠くに山がぼんやり見えてて、曇り空の下、水蒸気が空間を浮遊しているかのような、優しい湿り気を帯びた風景。This is my mother country, JAPAN.
最後にオマケです。
帰路のJAL便の機内での表示ですが、なんかヘンじゃないですか?前からヘンだよなあって思ってたのですが、今回証拠写真を撮ってきました。
段々日本からシドニーに近づいていくのですが、最初に左下の画面。ケアンズとかシドニーはいいのですが、なぜ宮崎?という気もしますね。これ英語表示でも出るのですけど、MIYAZAKIとか書いてあっても知らないんじゃなかろか。それより、宮崎の位置が違うんじゃないか。白点の場所だとするなら、それって鹿児島じゃないのか?
次に右下の画面。この「サンゴ海」ってなんだ?グレートバリアリーフのことを言うなら、もっと下じゃないのか。またブリスベーンとかホーバートとかなんで音を伸ばすのだ。そして、下にある「南洋」ってなんだろう。南氷洋のことなんだろうと思うけど、、、、。
さらに続きます。左下の画面。読み方がかなりメチャクチャです。デュボはダボだし、オランジはオレンジだし、ウロンコングというキングコングみたいなのはウーロンゴンです。英語で正しく発音しても、そうです。どこからこんな読み方が出てきたのだろう。
右下も奇怪な画像で、グラフトンだけが表示されてます。そりゃグラフトンという地名はありますし、場所も正しいけど、JALの乗客として予想される普通の日本人だったらまず知らない地名だと思いますよ。それをいうなら、もう少し上まで写してゴールドコーストとか書けばもっと分かりやすいと思うのですけど。
一体これって誰が作ったんだろう?どう考えても日本人が作ったとは思えないんだけど、、、JALなんだけど。日本語をちょっと勉強した外人さんが作った観光パンフなどで、よくこの種の違和感のある日本語を見かけるのですが、そんな感じです。なかなかシュールな画面だったりして、非常に印象深いのですね。
文責:田村
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