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今週の1枚(03.10.13)



ESSAY 126:「かわいそうに」って言われたくない?



 写真は Vaucluce House


 週末から風邪をひいてしまいまして、どうにも今回のエッセイの原稿どころではありません。もう大分マトモなのですが、そして今日徹夜すれば何とかなりますが、そんな帳尻合わせで書くのもなんだし、そこまでして書くのもナンだし。だから一回お休みにしようかなと思いつつも、筆の戯れのようなライトなものを寄せておきます。

 よく、毎週毎週あんなに長いのを書けますね?と言われることがありますが、書いてる側としては長さそれ自体はそれほど苦痛ではないです。むしろ読んでおられる方が苦痛なのではないかと思います(^_^)。大変なのは、ひとつのエッセイに最低一つは”サムシング”がないとならないという自分に課した制約です。サムシングというのは、うまく表現できませんが、自分にとっても新発見になるようなことです。書く前に自分が意識的に知っている物事や考えだけを綴ってたら面白くないのですね。それ以外に、なにか新しい発想なり、考え方なり、ひらめきなりが書いてる途中に天から降ってくるのですが、これが降ってこないとボツです。

 こういう書き方は文章作法としては良くない方法とされていると思います。予め、書くべき内容をリストアップして、綿密に構成を決めて書きなさい、と言われるのが一般でしょう。でも、それは性格的には僕には合わないですね。法律的な文章を仕事でやるときは、さすがにそれに近いことをしますが、それとて”緻密に構成”してるかというと殆どしてませんでした。事柄の性質上、書くべき内容は自ずと決まっているから、決まってることを書くというだけです。司法試験の論文式試験においても、答案構成に時間を掛けろとか指導されてますが、僕は全然かけてませんでした。構成用紙というメモ用紙をもらうのですが、いつも単語を一個か二個書きなぐって、もうぶっつけで書き始めてました。構成なんて考えてたら書いていったほうが早いという感じなんですね。

 僕のような書き方をする人間と、緻密にリストアップする人とでは、書き方以上に人間としてのタイプが違うのかもしれません。僕のようにぶっつけで書くタイプの欠点としては、どうしても文章が冗長になることです。簡にして要を得ない。これは自分でもわかってます。だから確信犯としてやってる部分もあるのですが、簡にして要を得たくないんですね。だって、簡にして要を得た文章というのは、えてして詰まらないからです。新聞記事とか、面白いと思ったことがないです。まあ、面白がらせるために書いてるわけではないから当然なんでしょうけど。

 人間としてのタイプが違うと思うのは、僕は、結局、情報自体をそんなに重視しないのでしょうね。その代わり、その情報を語る人間そのものに興味がある。「どうしてこの人はこんなことを考えるのか」という部分の方が、語ってる内容よりも面白い。情報をつむぎ出す人間的な「ゆらぎ」が文章に表されている方が面白く、簡にして要を得る文章だとその「ゆらぎ」が削除されちゃうから詰まらないのでしょう。

 だから、僕の文章は、僕の思考の流れがわりとナマの形で出ていると思いますし、出るように書いています。肉声に近いというか、本当に直接会って話してもこう言うだろうなという。そして、ここも確信犯なのですが、多少冗長くらいに論理の運びをゆっくりめにした方が、理解しやすいだろうと。人間そんなに賢くないと思いますし、思考過程のスピードがこのくらいだったら、理解過程のスピードも似たようなものだろうと思ってます。こーなって、あーなって、こーなるという段階があったら、その通り書いたほうが分かりやすいだろう。

 そして、これはパソコン通信時代からの確信ですが、パソコンのディスプレイで見る文章は、一般の紙の文章よりも理解しにくいと思います。ディスプレイ一画面、一行に、あまりに情報を詰め込むと理解するのに時間がかかりすぎて苦痛なので、あえて同じ内容をわかりやすい比喩を一つ二つ繰り返し使うことによって冗長がうえにも冗長にして、内容的にはむしろスカスカにしてやることによって、肩が凝らずに読めるんじゃないかと思ってます。少なくとも自分自身はそうです。だから、もし、このエッセイが紙の媒体で印刷されるようになったら、それように寸を詰めて書き直す必要があると思います。





 さて、そんなわけで、いつもなんとなく「こっちの方向」くらい、東西南北のアタリをつける程度でいきなり書き出すわけですが、書いてる間に、「ほう、オレはこんなことを考えているのか」とか、「ほう、だったらこうなるじゃないか、あれ、待てよ、、」みたいな新しい発見や進展が出くることを期待しているわけです。「天から降ってくる」とか僕は表現しますが、まあ、頭の中にある色々な考えが突拍子もなく面白い結びつき方をするということなんでしょうが、そのヒラメキの飛距離があればあるほど、自分としては満足だったりします。でも、なかなか無いですよね、そんなこと。

 ところで、僕は論理的な文章を書こうと思ってはいません。左脳的に辻褄を合わせることよりも、右脳的につながっていく方が出来としてはいいと思ってますから、むしろいつも右脳重視だったりします。ただ、右脳的つながりというのは感性一発ですから、通じる人にしか通じない。だから不安になって、左脳的にフォローせざるを得ないというのが正直なところです。論理的なものが良いというよりも、最低限の安全パイというか、サービス精神というか、わりとそのあたりの実利的なところで書いてます。僕の文章が、なにがしか面白い部分があるとするならば、むしろ右脳的な部分だと思います。「まるで○○みたいに」という比喩は、右脳一発で持ってきてますからね。

 以前、右脳だけ、右脳全開バリバリのものを書いたのですが、あんなものでも一部の方からリクエストがあったりして、僕も楽しいからまた書きたいなと思ってます。ただ、これは天から降ってくるものだけで構成しますので、ハマらないときは全然ダメです。今日みたいに病み上がりで、時間に終われてたらちょっと無理かなって感じです。

 その代わり、右脳の媒介者のようなアニマを出します。これは10年前からやっている「ごっこ」みたいな戯技ですが、自分の中にある女性性です。心理学者のユングが言ったらしいのですが、誰の心にも女性性(アニマ)と男性性(アニムス)があるとか。それが正確にはどういうことを意味するのかわからないのだけど、ユング心理学の一般的特徴としてポップなわかりやすさがあるのですね。シンクロニシティ(意味のある偶然)なんかもそうですが、本当はどういうことなんだか誰も原典をあたって調べないんだけど、ネーミング一発で、「あ、それ、なんとなくわかるぞ」というポップさがありますよね。ひとの想像力を刺激するというか。現在の心理学ではユング心理学は結構否定されちゃってるらしいのですが、でも、心理学と政治学は人の数だけあると言われますし、学術的に正確なことは僕にはそんなに興味ないです。ただ、「そう考えるとなにかと見えてくる気がする」という部分が結構大事だったりします。まあ、厳密に言えば誤解なんでしょうけどね。

 アニマ/アニムスという概念も、本当のところはあるんだか無いんだかわかりませんけど、そんなことはどっちでもいいです。あるんだと仮定して、自分の心の中から女性性を抽出していって人格化していくという営みは面白いです。これも、なにが女性性で何が男性性なのかというと難しい議論になっちゃうから、そこは適当に、自分が女性(男性)的だと思うエッセンスということで、各人が勝手に思ってればいいのでしょう。自分の対性、つまり男性だったら女性性、女性だったら男性性を探して人格化すると意外な発見があって面白いです。敢えて女言葉で思ったり文章を書いたり、男言葉で書いたり。いうまでも無いけど、ホモとかレズとかセクシャルに考えたらダメですよ。誰にだってある感性を分離させて見えやすく、再発見していくための作業です。





 最近の日本社会で父性の復権だとか創造だとか語られているそうですが、それらを詳しく知るものではなく、また論評するつもりもここではないです。が、父性とか母性とかいうと、なんとなく上から与えられるもののような感じがして、僕にはちょびっと違和感があります。それは他者に対してかくありなさいという議論なわけですが、その前にまず自分としてはかくあるべきかということも大事なのではないか、一人一人がより良くなることで総体として社会が良くなるというアプローチもあるだろうと。上から、外からではなく、父性や母性を語るのも大事だとは思うけど、まずは自分の内側から、誰の心にもある男性性と女性性を再評価したらいいんじゃないかって。それはジェンダーとかセックスとかではなく、もっと原初的で直感的な人の心の美徳として。

 魅力的な男性は、かならずや魅力的な女性性を兼ね備えていると思いますし、魅力的な女性は魅力的な男性性を備えている。男性が備えているものはすべからく男性的だと言うことも可能ですが、そこまでいくとそれは言葉の問題ですし、二つの異なる、相互補完的な価値体系があって、それを人はバランスよく持っているのだと考えていった方が僕にはわかりやすく、また実り豊かものをもたらすように思います。

 究極的には人格に性別などないのかもしれません。攻撃的な人、包容的な人、強欲な人、無欲な人、、、というのは、あまり性別に関係ないようにも思えます。ただ、脳の作りという器質的なベース、自らの身体能力をも含む環境的な諸条件によって、どちらかの性向をメインの表看板として掲げるかを決めているだけなのかもしれません。

 あるいは僕らは自然に男性的に感じ、あるいは女性的に感じるものは、同じ物を右からみるか、左から見るかだけの違いかもしれないです。例えば、太陽という強力にエネルギッシュなものがありますが、太陽の力強いパワー的な部分に着目すれば男性的でもあるし、太陽が森羅万象を照らし育てる面に着目すればそれは女性的でもあるでしょう。古来、自然崇拝は民族の常ですが、民族によって太陽を男性神とみたり、女性神とみたりしていたり、そのあたりはマチマチだったと思います。

 日本の古来の神道の最高神は、天照大神(アマテラスオオミカミ)ですから、女性神たる太陽神ですよね。僕らのご先祖さん達は、太陽を見て、というか一番尊い大切なものを見て、女性的だと感じたのでしょう。「太古、女性は太陽だった」と言いますが、本当にそうかどうかは知りませんが、太陽は女性的に受け取られたんじゃないかと思います。

 日本民族として考えてみた場合、どちらかというと男性的というよりは女性的な民族だと思います。より正確にいうと、男女それぞれの要素を当然に備えつつも女性的な要素の方をより多くもっているというか、女性的な価値体系のよさをよりよく知っているということだと思います。それは例えば、自然を力任せに征服するよりは、巧みに共存する方向性に長けていたり、力による透明な優勝劣敗よりも、全体としてのハーモニーを重んじるところとか。

 だから、戦争やバクチのように男性的な勝負事をやらせると日本はヘタクソなんだと思います。勝負事というのは、あくまでもクールに、緻密に戦略を打ち立てて、したたかにこれを遂行していかないと負けます。冷静に自分を客観視して負ける喧嘩はやらず、勝てるようにもっていく。すぐに感情的になったり、戦いにあたって精神の美をたたえたりしだしたらダメです。先の大戦にせよ、昨今の右翼的な言説にせよ、したたかな男性性はあまり感じません。台所でヒステリックに皿を投げつけたり、コギャルが「北朝鮮って、チョームカつくー!」と言ってるのと変わりないというか。皿なんか投げたって相手は殺せないです。本気で闘争する気でいたら、泣いて体力を消耗するなど馬鹿なことはせず、呼吸を整え、筋肉をリラックスさせ、抱き付くふりをして隠し持った小刀で喉を切り裂くくらいのシタタカさが必要でしょう。闘争とはそういうものでしょう。だから、日本人にはあんまり向いてないなって思います。そして向いてないことは、これは誇ってもいいことだと思います。





 そういう具合に考えていくと、ここ数年、「癒し」がブームになってますし、それと歩調を合わせるように殺伐とした世相が取りざたされますが、足りないものはむしろアニマ/女性性なのかもしれません。本来誰でも持っているはずの自己治癒能力、自分自身を包容し、癒していく力、そしてそれは他人を包容し癒していく力でもありますが、それが薄らいできているのかな、と。

 それは自分自身のトホホな情けなさを自分自身で受け止める精神の柔軟性であり、他人のイケてなさを微笑みとともに(冷笑ではなく)受け止める優しさだと思います。 

 アニマはいろいろな顔を持っていると思いますが、癒し系のアニマは例えばこんな感じでしょうか。





 凝らせ、凝らせ
 落ちて来い
 天から降ってこい
 わたしの言葉に魂 宿せ

 我らは皆 古のシャーマンの血をひくはず
 身体のどこかで覚えているはず
 神を宿す受胎のスキルを

 自分の中から
 わたしの女神があらわれる。
 誰しもが宿している女神
 言葉と魂に慈愛と艶めきを与える女神







 「かわいそうに」って言って欲しい?
 それとも、死んでも言われたくないかしら?

 肩が凝っているの?
 自分の身体が荷物のように重いの?
 まだ、週の初めなのにね


 ありもしないハードルを せっせと積み上げたのはあなたよ
 わたしが叩き壊してあげる
 あなたにはどうせ壊せないでしょうから

 なによ、こんな門
 ゴテゴテと飾り立てて
 こんな門でわたしを迎えるつもり
 ひとを迎えるつもり?

 あなたが大事に集めてきたガラクタ
 わたしがこれから燃やしてあげるね
 これも要らないでしょ?
 あれも要らないでしょ?
 本当は自分でも燃やしたかったんでしょう?
 だったら自分で燃やせばよかったのに


 ちょっと待って
 それは燃やしたらいけないわ
 大事に取っておきなさい
 それはあなたがあなたであるために必要なものでしょ


 消えてなくなりたいかしら?
 身体の重みも、心の痛みもなにも感じないように
 だったら、消えちゃいなさい
 欲望と焦燥の燃えカスのような自分をアイデンティティにするのはやめちゃいなさい

 アイデンティティなんて、別に空間の一点に凝集してなくたっていいの
 誰が決めたの、そんなこと?
 空気のなかに拡散しててもいいのよ
 あなたは”なんとなく”存在しててもいいの
 無理に形にしなくてもいいの


 わたしはあなたを癒さないわ
 癒すのはあなた自身でしょ よく知ってるでしょ?
 そんな燃えカスを癒したって仕方ないでしょ
 よく知ってるでしょ?

 そうよ、本当は、あなたはなんでもよく知ってるんだわ
 なにもかもよく分かってるくせに
 あなたの透き通った視界を
 濁らせているものはなんなのかしらね

 つっかえ棒ばっかり
 これも、あれも、これも
 こんなもん無くたって本当はちゃんと立てるのに
 意地張って、無理して、虚勢はって
 年の数だけ増えていくわね
 
 流れが滞っているわね
 ここも、そこも、あそこも
 これじゃ肩も凝るはずよね
 ビーバーじゃあるまいし、なにせき止めて、溜め込んでるの?
 流してしまいなさいな


 ああ、もう、無駄なものばっかり
 あれも、これも、それも
 本当に見てられないわね


 「かわいそうに」って言われたくないんでしょ?
 でも言ってあげるわ、あなたは可哀想よ
 あれやっても、これやっても
 誤解されて、裏目に出て、割食って
 下げなくてもいい頭を下げさせられて
 当然言うべき言葉を飲み込んで
 これが可哀想じゃなかったら、なんなのよ?

 なんでこんなに可哀想になっちゃったのかしらね。
 こんな筈じゃなかったのにね
 わたし達、子供の頃から一緒だったでしょ
 こんな風になるつもりじゃなかったのにね


 ああ、もう、いつからこんなに「力」の使い方がヘタクソになったのかしらね
 子供の頃はもっと上手だったじゃない?
 「力」の使い方が不純なのよ
 もっと純粋に自分のために使えばいいのに
 もっと純粋の他人のために使えばいいのに
 どこにも居ない誰かに見られている、自分でない自分のために使うのはやめたらいいわ


 いい?
 つっかえ棒、はずすわよ
 ほら
 カタン
 いいの、恐がらなくても
 支えきれなくなったら、そのまま落ちて来なさい
 カタン
 あなたを受け止めてあげるから
 抱きとめてあげるから

 いいの
 まっすぐ落ちてきなさい
 わたしは、必ずあなたを受け止めるから

 そのまま落ちてきて
 わたしと一つになるのよ
 もとの姿に戻るのよ
 昔そうだったように

 最後のつっかえ棒
 いま、外すからね






文責:田村



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