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今週の1枚(2003.06.30)


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Essay 111:著作権について



 写真は、Rose Bay。日曜の朝のフェリー乗り場にてシドニーハーバーを望む(遠くに見えてる船がフェリー)


 昔むかし、時代がまだ「昭和」だった頃からパソコン通信をやってました。個人的にはワープロ通信ですが、別に内容は一緒です。インターネットのイの字もなかった黎明期の頃ですね。そこでフォーラムとかSIGとか呼ばれる同好の士のエリアが沢山あり、掲示板機能が発達した会議室という場所があり、多くの人々が好きずきに話をしていました。まあ、今のインターネットの掲示板と似たようなものです。

 そこではネット独特のモメごとが起きるのですが、ほぼ定期的にモメるのは「著作権」話でした。著作権といっても、本格的にそれを勉強していたり、精度の高い議論をしている場合はマレで、大体が自分の悪口を書かれて悔しいから、反撃するための理論武装として著作権を持ち出すという程度のレベルでした。「>○○○、、、、、と言っている馬鹿がいるが、、、」と書かれたりすると、その○○○、、、と書いた人(悪口を言われた人)が、勝手に自分の文章を引用するんじゃねえ、著作権違反だという話になって、これは私的利用だからいいんだとか、引用は著作権の例外として認められているんだとか、半可通同士が聞きかじりの著作権知識を振り回して、議論がグチャグチャになってしまうという。本質は「悪口言われて悔しい」ですから、そう素直に書けばいいんだけど、それだとカッコわるいので理論武装しましょうってことですね。だから、冷静に見てれば、「なんでここで著作権が出てくるの?」というような感じなんですけど、面と向かって違法とか言われると、「え、そうなの?」と皆も戸惑ってしまうという。

 ただ、この傾向はインターネットの掲示板なんか見てても未だにやってたりします。もう十年一日のごとく、人間のやるこたあ進歩しないのね、という感じで、おそらくあと100年たってもやってることでしょう。

 ネットというのは、ある意味匿名の社会ですから、下手をすれば愉快犯、劇場犯、模倣犯の温床になりますし、現になってます。だいたい面と向かってろくすっぽ目も合わせられないような気の小さな奴が、日ごろの鬱憤晴らしなのか、ネットになると大胆にドぎついことを書く傾向があったりします。僕もフォーラムの旗振役の一人でしたので、そーゆー通称「困ったちゃん」がはびこるようになると場が退廃するから、それなりの防衛策は講じてました。もう身分を明確に明かした奴でないと入れないようにしたり、あまりにひどいケースはもう刑事告訴したり裁判起こすぞという雰囲気にしてました。これはまあそういう雰囲気、緊張感がみなぎっていればいいだけで、実際にやったことは一度もないですが、現職の弁護士がそう言ってニラミをきかしてるというのは、それなりに効果はあります。、ああ、あと、モメてるなとなったら、もう直接職場に電話したりしましたし、相手の職場や自宅を訪ねて話をしにいったこともあります。画面越しにグチャグチャやってたってラチ開かないですからね。白兵戦でキメてきた方が話早いです。

 つまり、ここは現実社会と違うネット空間だから何をやっても許されるという甘ったれた誤解を叩き潰せばいいだけです。自分の言動にはキッチリ自分で責任を取ってくださいね、そんなの大人だったら当たり前でしょう?という、当たり前の世間のルールを徹底してるだけです。それさえ徹底すればぐっと気持のいい、建設的な空間になります。場のパワーを集約して、前に向かせたら相当のことができます。皆でお金をだしあってマンションの一室を借りて拠点にしたり、新商品を開発して本当に売り出してみたり、株式会社を作ってみたり、かなりのことが出来ました。著作権に関しても、もう興味があるなら徹底的にやりましょかということで、自分でシリーズで講座開いて書いてたりしました。ただ、そうやって「聞きかじりのいいとこ取り」が出来なくなると、誰もそんなこと言い出したりはしなくなります。これも、議論が愚劣に脱線することを防ぐための防衛措置の一つですよね。



 話は著作権に戻りますが、最近つくづく思うのですが、著作権って本当に要るのかな?要るとしてもこういう形式でいいんかな?と。

 「21世紀中に著作権は消滅するだろう、消滅した方がいいんじゃないか」ということを、いつかこっちの新聞で外国の学者さんが論じているのを読みました。一見、そんなバカな、これからますます重要になるんじゃないの?消滅なんかするわけないでしょうという気になるのですが、(詳細は忘却しましたが)記事を読んでみたら「なるほど」という部分もありました。

 所論は、要するに著作権、著作権と騒いでみても、実効性なんか無いんじゃないの?ということです。確かに東南アジアの方なんか、著作権なんかあってなきがごとしで海賊版がバンバン出てますし、ネットでも、ナップスターとかWinMXなどで、世界中のホームパソコンのハードディスクとネットワークでつなぐことで、他人のパソコンのハードディスクからあらゆるコンテンツをダウンロードできます。もうアルバムだろうが、TV番組だろうが、映画だろうが。デジタルという形の情報形式に変換できたら、ネットで転送できないものはないですからね。DVDのコピーも、コピー防止信号はスマートリッパーあたりのソフトを使って信号を各層に分離してしまえば出来ます。

 もちろんこれらの行為は違法です。違法ですけど、「違法」っつって宣言したところで実効性なんか殆どないでしょう。見せしめのように日本でも何人か逮捕されてますけど、これも氷山の一角でしょう?それに逮捕する側も、殺人などの凶悪犯に比べてみれば小さな事件に過ぎないし、逮捕させている日本政府もどれだけ熱心なのかわからんです。

 著作権というのは、作家や音楽家などクリエーターの人々がせっかくの労作をパクられないように保護するための権利です。それは僕も必要だと思います。しかし、今、裁判とか交渉とかになってるのは大体著作権ビジネスの世界ですし、巨額の利益が絡んで国家間の交渉になってるのもコンピューターのプログラムとか映画とかそういったものでしょ。それって突き詰めていって結局誰が得をするのというと、アメリカのマイクロソフトとハリウッドとか、そういった著作権の網をかぶせて世界を地引網的に支配しましょうというアメリカの国益でしょ?だから、海賊天国の中国の政府に、アメリカ政府が、もっとビシバシ取り締まってくださいよと言ってたり、日本政府も右に習えでやってるという。

 それに、文学や音楽の商業的権利になると、版権とかCD原版権とかそういう形になってて、それら美味しい部分は、出版やデビュー契約にあたって、本来のクリエーターから出版社なりレコード会社に移ってしまってたりします。言葉悪く言えば、アーティスト達は、市井の海賊版とか撮ったり買ったりしてる人々に搾取されるよりも先に、出版社などに搾取されているのではないの?古くは、ピンクレディーが一日18時間働かされて数億円儲けていても彼女達の収入はわずか月給百万円だけだったとかね。そーゆーのがイヤだから、昔から海外のロックミュージシャンは自分で会社を作って権利管理をしようとしますよね。ビートルズのアップルレコード、レッドツェッペリンのスワンソングとか、ストーンズとか。だから、地道に頑張ってるクリエーターの権利を守るのは大事なことなんだけど、実際にやられてるのは大企業のソフィスティケイトされたビジネスである、と。

 だから、著作権という法制度は、一方でそういった国際ビジネス戦略の武器に堕落し(あえて堕落という言葉を使います)、他方ではインターネットの掲示板のクソみたいな喧嘩の理論武装に使われているという。「なんだかなあ」という気もするわけです。なんというのか、著作権が可哀想というか、なんかそういった「悪用」(これもあえて悪用という言葉を使いますが)ばっかされてるだけじゃん?と。本当にこんな法的システムって要るの?って。



 著作権の理念というのは、例えばファーブル昆虫記みたいにさ、市井の真面目な研究者が長年かかってまとめあげた労作を、調子のいい第三者にパクられて、無念の涙を流すことの無いようにしましょうってことでしょ。その理念には僕ももろ手をあげてグリコ状態で同意します。でもさ、それが著作権という法的システムになってしまったら、結局は、システムを上手に利用できる頭の切れる奴がトクをするんですよね。今月の家賃の支払いに困っていたファーブルさんが、最初に「この著作に関する全ての権利を10万円で譲り渡す」とかいう契約にサインしちゃったら、それで終わりって部分もあるのですよね(まあ、譲渡不能の著作者人格権とかもあるけど)。

 だから、あんまり保護に役に立ってないんじゃないの?って気もするのですね。大体、クリエーターやアーティストなんか、コムロ的に世事やマネジメントに熟練してるわけじゃない。むしろそういうのが苦手な人間が多いですし、世事にかかわってたら、やっぱりコムロ的なクォリティになりかねないし。



 著作権に関して、DVDにはリージョンコードというものがあります。海外旅行のお土産にDVDを現地で買ったはいいけど、日本に持って帰っても再生できないという厄介なアレです。世界を6つのエリアに分けて、それぞれ地域(リージョン) に番号を振り、そのエリアで発売されるDVDはそのエリアでしか再生を許さない(そのエリアで発売されるDVDプレーヤーでないと再生されない)ように、DVDに暗号コード(リージョンコード)を埋め込んでおくわけですね。北米がリージョン1、日本はリージョン2、オーストラリアはリージョン4です。

 なんでこんな厄介なものを作ったのかといえば、アメリカの映画会社の利益保護でしょう。映画はよく世界に先駆けてアメリカで上映され、以下世界各国に配給されて上映されます。ところが、アメリカで先行して発売された映画のDVDを、まだ封切りされてないエリアでも再生できてしまったら、皆DVDを見て映画館まで足を運ばなくなるから、そういうことをさせないように、DVDを地域限定に封じ込めましょうということですね。

 「よくやるよなー」と思います。これでトクをするのはごくごく私的な一部の企業だけじゃないですか。自分らの儲けを守るために、法律を動かし、技術を動かし、世界中の人々に迷惑をかけるという。せっかく世界統一規格のDVDという技術を生み出しながら、一部の欲ボケした連中のために、くだらない制限を掛けられる。これって、日本からオーストラリアに移住する人にとっては深刻ですよ。だって日本で買い集めた日本のDVDがぜーんぶオーストラリアではリージョンが違うから再生できなくなっちゃうってことです。だから日本のDVDプレーヤーまで持ってきて、変圧器かけて100Vに降電して再生しなきゃいけないという。面倒臭くてたまらんです。

 大体、上映時期をズラすのも、DVDの並行発売をするのも、ぜんぶアンタらの商売でしょうが。自分の商売のやり方が自己矛盾を起こして損をするというのは世間でもよくあることです。商品を沢山売るためにバーゲンを打ちますが、そうするとお客さんがバーゲン時期まで買うのを辛抱してしまって普通の時期には売れなくなって、さてどうしたものか、みたいなものです。それを解消するために、バーゲンにはやはり二線級の売れ残り商品をもっていったりするけど、ただしあんまりそればっかりだったらバーゲンの魅力がなくなるから、そこのさじ加減が難しいでしょうが、いずれにせよ、そんなことは自分のところで悩みながら解決するべき問題です。

 自分で勝手に上映時期をズラして、自分で勝手にDVDの並行販売をして、それがカチ合うとかいうなら、上映時期をズラさないとか、DVDの販売を遅らせるとか、いくらでも手はあるでしょう。それを、世界統一規格に制限を加え、各国政府に圧力を加え、世界中のメーカーや技術陣に圧力を加え、一般消費者に多大な迷惑を押し付けてでも、自分らの利益を守ろうとするようなものでしょう。バーゲンでいえば、バーゲン以外の時期に買ったお客さんでなければバーゲンに参加できないというルールを作るだけならまだしも、それを国会に圧力をかけてバーゲン法という法律を成立させ、違反した消費者には厳罰で臨む、というようなものでしょう。ふざけんな!って思いますよ。

 それに、上映時期だけを考えるならば、上映が終わったらもうリージョンコードの意味はなくなるのだから解除すればいいわけでしょ。上映予定時期だけプロテクトが掛るようにタイムプログラムをDVDに埋め込んでおけばいいでしょ、なにも未来永劫リージョンで縛る必要もないのに、数年前にとっくに公開が終わったものであっても未来永劫拘束されつづけるという。

 それに、リージョンフリーになってアメリカのDVDが日本で見られたところで、別にクリエーター・著作者の利益は損なわれないでしょう?それどころか、彼らには世界で一本でも多く売れればそれだけ印税が入るのだから逆に利益になるでしょう。だから、リージョンコードなんかクリエーターの保護でもなんでもなく、それを右から左に流して儲けている「流通業者」のためだけのシステムでしょう。

 グローバル・ビジネス・ステラテジーとかいっても、やってることはそんなことなわけ?世界最高レベルの頭脳が億単位の給料貰いながら、英知を結集してやってることってこんなことなの?人類ってもしかしてアホ?という気がします。こんなのが「ビジネス」だというなら、人間、ビジネスなんかやらんでいいです。人間腐るぞ。



 ところで、このくだらないリージョンコードに関しては、リージョン信号を無視するDVDプレーヤーがあります。マルチリージョンプレーヤーです。実は、これ、オーストラリアで普通に販売されてます。僕も詳しくは知らないけど、昔は地元のメーカーが出してるだけだったけど、今ではメジャーメーカーもマルチリージョンになってる機種がそこそこあると思います。ただ、カドが立つから、大々的に宣伝はしてないだけで。店頭で店員さんに聞いてみたらいいですよ。ウチにあるDVDプレーヤーもマルチリージョンですから日本のDVDでも再生できます。

 あとパソコンで再生する分には、パソコンの方がはるかに自由度が高いから、いろいろカスタマイズしてリージョンをはずすことが出来ると言われてます。他にもソニーのプレステ2で再生できるとかいっとき日本で話題になったと思います。

 その他、リージョンコードは著作権の内容に入らないとか、リージョンコードを解除しても違法ではない等の世界的なニュースはちほら耳にした記憶がありますが、今あらたまって探すとなかなか見つかりませんでした。リージョンコードに関する日本の解説をみると、どこでも「著作権保護のために」と書いてありますが、本当に著作権保護のためなのかどうか、もう一度ゆっくり考えてみてもいいと思います。だって、リージョンコードそのものは明らかに著作物の「内容」ではないでしょう?著作物の流通利用の一形態、頒布権とか上映権とかを守るための防衛のための措置でしかないでしょう。



 ところで、リージョンコードではなくDVDのコピー防止を解除するソフトを作ったとのことで、ハリウッドのメジャー会社から訴えられていたノルウェーの19歳の青年がいます。今年(2003年)の1月、オスロの裁判所は、彼を勝訴させてます。詳しくは、CNNとかABCニュースにかかれてますが、以下にCNNのニュースを転載します。原文は、http://www.cnn.com/2003/TECH/01/07/dvd.johansen/にあります。



    Teen cleared in landmark DVD case
    Tuesday, January 7, 2003 Posted: 8:28 AM EST (1328 GMT)

    OSLO, Norway -- A Norwegian teenager has been cleared of DVD piracy charges in a landmark trial brought by major Hollywood studios.

    The Oslo court said Jon Johansen, known in Norway as "DVD Jon," had not broken the law when he helped unlock a code and distribute a computer program enabling DVD films to be copied.

    "Johansen is found not guilty," Judge Irene Sogn told the court. She said prosecutors could appeal against the unanimous verdict. Johansen said after the ruling that he would celebrate by "watching DVD films on unlicensed players." Prosecutors had asked for a 90-day suspended jail term for Johansen, 19, who developed the program when he was 15.

    The teenager has become a symbol for hackers worldwide who say making software such as Johansen's -- called DeCSS -- is an act of intellectual freedom rather than theft. DeCSS defeats the copyright protection system known as Contents Scramble System (CSS), which the entertainment industry uses to protect films distributed on DVDs. Johansen created and published DeCSS so that he would be able to view DVDs on his Linux computer. He said the program meant the film industry no longer had a monopoly on making DVD players.

    The prosecution was brought after a complaint was field by the Motion Picture Association (MPA), which represents the major Hollywood studios. The studios argued unauthorised copying was copyright theft and undermined a market for DVDs and videos worth $20 billion a year in North America alone.

    But Johansen argued his code was necessary to watch movies he already owned, on his Linux-based computer, for which DVD software had not yet been written. He said since he owned the DVDs, he should be able to view them as he liked, preferably on his own computer.

    The court, citing consumer laws which protect consumers' fair use of their own property, agreed. The court ruled there was "no evidence" that Johansen or others used the decryption code called DeCSS for illegal purposes. Nor was there any evidence that Johansen intended to contribute to illegal copying. The court also ruled that it is not illegal to use the DeCSS code to watch DVD films obtained by legal means.

    In the United States, Johansen's case raised concerns among Internet users of what they see as a constitutional right to freedom of expression. A battle is raging in the U.S. over a 1998 copyright law that bans software like DeCSS.
    Even though Johansen's software is now outdated, it was the first to give the so-called source codes, or instructions, for how to decipher DVD codes.

    -- CNN Norge's Morten Overbye contributed to this report



 かいつまんで内容を言うと、このヨハンセン君というノルウェーの青年は、15歳のときにDVDコピー防止を無効化するプログラムを自分で作ったのですね。で、それを売って儲けたのではなく、自分の持ってるDVDを自分のパソコンのハードディスクに入れたくても、コピー防止がかかってるからコピーできない、それが鬱陶しいから自分でそれを解除するプログラムを作ったということですね。15歳のときに。このプログラム、ハリウッドの連中からしたら脅威です。なんせ、コピープロテクトを撃破してしまうのですから。だから、ノルウェーの検察当局に告発して刑事裁判を起こすように働きかけて、今回の裁判(刑事裁判)が行われたと。

 判決の内容は、陪審員全員一致で無罪。ところで、この記事には書いてないけど、ノルウェーはこのコピー防止無効化を違法とする法律がないそうで、だからこそ純粋に良いことか悪いのかの判断が出るので余計に世界の注目を浴びてました。無罪の理由は、彼は適法にDVDを購入したオーナーであり、オーナーはどういう方法でその著作物(DVD)を楽しもうがそれは本人の自由というのが大原則だということですね。DVDプレーヤーで見ようが、自分のPCのハードディスクに落として保存しようが、そんなのは所有者の勝手であり、それを制限することは出来ない、と。

 アメリカはこれらの行為を違法とする著作権法改正が既になされているので、似たようなケースで有罪になってますが、アメリカ本土でもこのノルウェー判決は、一部の(関心ある消費者の”大部分”だと思うが)人々から大喝采を浴びたそうです。このヨハンセン君の事件、敗訴したハリウッド側が控訴して、この夏以降また審理が開始されるそうです。





 こういったDVDにまつわる、コピー防止やら、リージョンコードやらの「小ざかしい悪知恵」(敢えてそう言います)ですが、いっくら躍起になってハリウッドメディアが頑張って圧力かけまくっても、ダメだと思います。ある程度事柄が理解できる世界中の人達にとってみれば、メディア業界のゴリ押しに過ぎないことが丸分かりですし、いくら違法だなんだと締め付けようとも逮捕覚悟でフリーソフトを出してくる確信犯の連中は幾らでもいるでしょう。人道的にも犯罪以外のなにものでもないハッキング行為と違って、ヨハンセン君のコメントのように「僕らは知的所有権の泥棒ではない。知的所有権に当然認められるべき自由を与えようとしているのだ」という大義があるから、こういった人々の抵抗は止むことは無いでしょう。なお、そのあたりの商業資本に歪曲されない本当の意味での知的所有権を考えようという、IP Justiceという草の根団体があります。http://www.westbaseproductions.com/ipjustice/index.htmにHPがありますので、興味のある人はどうぞ。

 それに、そういった先進諸国の”高尚な”議論とは別に、中国をはじめ東南アジア、さらに世界のほかのエリアからしたら、著作権なんか鼻もひっかけないでしょう。著作権なんか全然知らない、知ろうとしない、知ってたところで屁とも思わない、逮捕されても、殺されてもそれでもやる、という逞しいエリアが沢山あります。大体が、日本の戦後の闇市みたいなマーケットだったりするところも沢山あるわけで、そこでは、日本人みたいにお行儀よく言うこと聞いてませんからね。食うためにはカッパライも辞せずというエリアの火事場のバカパワーみたいのに押されたら、ハリウッドの高級弁護士諸君がメタルフレームを光らせながら何か言っても、誰も聞いてないでしょう。全員で赤信号を渡られてしまったらもうどうしようもない。そもそも信号なんか誰も見てないんだから。政府当局に圧力を加えても、「はいはい、やっときますね」であしらわれるだけでしょうし、政府高官軍部を抱き込んだところで、戦車がゴゴゴと出てきてクーデターで終わりとか。



 一方、日本の著作権法も年々改正が進み、もう僕も読むのもウンザリという感じです。もともと著作権は「権利の束」といわれるくらいいろんな権利がバンドルされてるものですが、最近の改正でも、「送信可能化権」とかいう予備行為まで範囲に含めていて、ますます曖昧になっていきます。

 昔、著作権権法をちょっとかじった時につくづく思いましたが、著作権って範囲が広すぎるのですね。それは保護の対象が「人間の知的・精神的作業」ということで、あまりにも広すぎるからです。それは小説とか音楽とか絵画、彫刻だったらまだわかりやすいようですが、それだって、そのへんの落書きや鼻歌だって著作物といえば著作物ですからね。流行ってる曲を、トイレに入りながら鼻歌で歌う行為も、やれ音楽著作権の無断演奏行為だとか、いや私的利用の例外だからいいのだとかさ、面倒臭くて仕方が無い。これに加えてパフォーマンスのような動作まで含めて、「このポーズは著作権」みたいになってきたら、要するに人間が動いてなんかやってる行動全てが著作物といえないこともないわけです。

 これを厳密にやってたら、本当に息が出来なくなってしまいますよ。子供の頃に人気漫画のキャラクターの似顔絵を書くのが巧い奴がいたりしますが、それを著作権者の承諾を得ずに描いたら著作権違反かどうか、自分で楽しむだけだったらOKだとしたら、じゃあ出来た作品を友達に見せるのはどう?友達に頼まれて何枚も描くのはどう?卒業文集のイラストとして挿入したらどう?流行ってる曲を自分だけで聴く分にはいいですけど、友達に頼まれてダビングするのはどう?その曲をバンドで練習して文化祭で上演するのはどう?そのときのライブをテープにとって恋人に聞かせるのはどう?それをMIDIに打ち込んで自分の携帯に着メロに利用するのも著作権違反ですか?出来がいいので友達からそのデーターちょうだいって言われてあげるのも違反ですか?

 上記の事柄はいずれも問題ないとすべきだと思います。現行著作権法がどうとかいう以前に、まずこんなことは普通の社会生活として認めるべきですよ。大体、TV番組を録画する行為自体、複製権の侵害で、でも個人利用の範囲内だったら例外的許される、だから他人に頒布したらダメとかさ、そういうルール自体が現実離れしてるじゃないですか。誰も真面目に聞いてないんじゃない?「頒布の禁止」とか言ったって、そもそもこの漢字を「はんぷ」と正しく読める人の方が少ないでしょう。

 現実にそぐわない法は、法として失格。法哲学で、たしか「法の自然死」というのがあったと思ったけど、だーれも守らないでシカトされている法は、もう法として皆に認められてないから死んだも同然ということです。はっきりいって著作権は大事だ大事だとか口を開けば皆さんいうけど、守ってないじゃん、実際。それは日本人のモラルが低いから?いーや、怒涛のパイレーツ天国の他国に比べれば日本なんか品行方正なもんだと思いますよ。モラルの問題もないとは言わないけど、そもそも著作権というシステムそれ自体が現実に適合していないんじゃないか。適合してたらもう少し守りますよ。

 僕なりに理解している著作権の本質というのは、「エンジョイするのはOK、パクるのはダメよ」というものです。そしてその判断はかなり直感的なものになるんだろうけど、要するに一般ピープルからみて「ズルい」と感じる行為はダメだということでいいんじゃないかと。でもって、なにがズルいか、ズルをすると誰が損して可哀想か、です。そういう実態からもう一回考え直したらどうかと思います。そうでないと、今の複雑がうえにも複雑になった著作権法なんかよほどの専門家でないと分からないですよ。それに、著作権法が複雑になって議論になってるわりには、実際に刑事や民事で事件として立件されてるケースなんか驚くほど少ないです。だからいっくら議論しても実益が少ないし、判例もそんなに多いわけではないから「多分こうでしょう、でも実際に訴えられるなんてことは滅多に無いでしょう」みたいな言い方しかできない。



 それにこのエッセイの著作者は僕ですが、著作者の立場で言わせて貰えば、このエッセイを誰かが勝手にまとめて出版して儲けてたら腹が立ちますし、また僕が書いてることをそのままパクってあくまで自分で書いたかのようにエラそうにやってられたらムカつきます。でも、それ以外だったら別になんとも思わないです。例えば、勝手に引用して勝手に紹介してもらって構わないし、印刷して友達に見せてもらっても全然構わないです。むしろ名誉なくらいです。

 著作者、クリエーターというのは、その本質は見せたがりだと思うのですね。表現者ってのは本来そうしたものでしょう。だから、第一次的には、より多くの人に見てもらいたいんじゃないか。発表する以上そうでしょう。だから、本来、勝手に複製して、勝手に頒布してもらっても、それは名誉であり、喜ぶべき事態でこそあれ、怒るべき筋合いではないという気もするのですよ。僕、いま、すごいことを言ってますよ。著作権の基本を否定をしてるんですから(^_^)。本来そんなもん完全自由でいいと思う。

 イケナイのは、@それで他人が儲けること、A他人が名誉を横取りすることです。だから著作権の内容というのはこの2点だけでいいんじゃないかとも思うのですね、原則的に。で、方式にしても、基本的に全面禁止にするなんてしないで原則的に全面自由にしたうえで、@儲けた他人に対しては儲けの70%くらいを無条件に引き渡せという権利、A勝手にパクった奴に対してはちゃんとその旨のクレジットを入れろと要求する権利、があればいいんじゃないのか、と。

 著作権なんか、むしろ限定的に、限定的に解釈していった方がいいと僕は思います。
 「外延をひろげれば内包は薄まる」というでしょう。あまりにも範囲を広げていくと、内容がスカスカになっていって、結局無内容になってしまうということです。著作権は今まさにそうなりつつあるように思います。あまりに複雑に、あまりに包括的にやりすぎてしまって、結局よくわからないという。むしろ外延を狭めて、内包を実質的に固めた方が実効性があるのではないかと。そうでないと、「法の自然死」になっちゃうよ、と。冒頭で述べた、「21世紀中に著作権は消滅する」という学者さんの説も、結局はこの自然死を言っているのだと思います。



 長くなったのであと2点だけ。
 ひとつは、著作権でガチガチやってるから結局商売的にも損をしてるという点です。昔のレコード2000円、今CD3000円、やっぱり高いですよ、どう考えても。これは中学生の頃からの持説ですが、高すぎる。高すぎるとどうなるかというと、CD買うとき冒険をしないです。ガチガチに内容が保証されている固いアルバムしか買わない。だから売れてるアルバムはますます売れて、売れてないアーチストは最初から聞いてもらう機会すらないという。

 CDなんか一枚500円にしましょうよ。これだったらわざわざPCで焼くよりも、綺麗な装丁な本物を買う方を選ぶ人が多いですよ。それに、安かったらそれまで聞かなかったジャンル、聞かなかったアーチストも一応聞いてみようかなという人が増えます。これは大事なことですよ。裾野が広がりますもん。

 シドニーでは、チャイナタウンあたりで日本のドラマや映画のVCD(適法の)が結構売ってます。で、安いもんだから結構買ってみたりしてますが、日本にいるときはドラマなんか馬鹿にして見てなかったですけど、今こうして見ると結構面白いもんだなと再評価したりするわけです。こうやって多くの人の目に触れていくというのは大事なことですよ。これによって、目が開かれて、俳優女優監督の名前も覚えていくわけだし、次はお金を払って買うかもしれないし、映画ができたら見に行くかもしれない。

 それにCDコピーが誰にでも気楽に出来るようになった時代に、500万枚のバケモノセラーとか出てきてるわけですし、巷でコピーをガンガンやられていたからって、売上には関係ないんじゃないかと思うのですよ。レンタルレコード屋が登場したとき、レコード業界は最初目のカタキにしましたけど、結局その後の推移でいえば売上は上がってるんじゃないですか?いまだってレンタルビデオ屋が全部消滅したら、むしろ困るのはメディア業界じゃないんですか?ガンガン頒布させた方が結局いいんじゃないんですか?

 それに一枚500円ではアーチストの生活が成り立たないという説もありますが、ミリオン売ってる連中は、CD売上収入以外でもCMとかいくらでも収入の手段はあるでしょう。それにそれ以上儲かっても税金でもってかれるだけでしょう。年収1億ある奴なんかそんなに保護してやらんでもいいんですよ。それよりも、一枚3000円だから誰も買ってくれないアーチストが、500円で皆に買われた方がいいんじゃないんですか。同じ3000円の収入でも、1人に買われるよりも、6人に買われた方がずっと意義があるのではないですか、これからの活動を考えたら。

 だから、言われるほど違法コピーによってアーチストが損するかどうか、よーく検証してみた方がいいと思います。それに違法だ違法だって喚いたって違法コピーは減りやしないでしょう?実効性無いことやってたって仕方ないでしょ。



 もう一点、これは基本的な価値観に基づくんですけど、アーチストなんか別にリッチにならなくたっていいんじゃない?ということです。僕自身アーティスティックな性向が強いから親近感は人一倍持ってますけど、だから言うってところもあるんだけど、しょせん「河原者」でしょ、河原乞食でしょ。額に汗して大地を耕して皆の食料を作ってるわけでもないわけでしょ。好きでやってるんでしょ。いわば「遊民」でしょ。適当に生活が成り立つ程度に儲かってれば、それでいいでしょう。好きなことをやれて、それで生活がなりたつなら、そんなハッピーなことは滅多にないんだから、それ以上を望むな、という。

 別にアーチストが、サラリーマンよりもエラいなんてことはないわけだしね。ビジネスマンだって、画期的な新商法を発明して儲けたって、すぐに二番煎じ、三番煎じの後発部隊に追いかけられるわけで、それこそ新商法に著作権はないのか?っていいたい気分だと思うのですよ。立ち食い蕎麦を最初に始めた人、回転寿司を考えた人、百円ショップを考えた人、みな最初に始めた創業者利益で勝負かけてるわけで、商売のアイデアという著作権みたいなものでやってるわけではないです。素晴らしいものを生み出した奴は、それが素晴らしければ素晴らしいほど、皆に真似されるものであって、それは誇りとしていればいいんじゃないかと。ひとりアーチストだけがあれこれ保護されんでもいいんじゃないかと。

 それに、画期的な演奏方法とか、曲構成の新しいパターンとか、例えばジミヘンのノイズを逆にダイナミックな音楽にしてしまう大胆な発想とか、エドワード・ヴァンヘイレンのライトハンド奏法とか、時代を変えるくらい革命的に画期的だったとしてもそれ自体は著作権の保護になりませんもんね。映画の撮り方でも、天才的な監督がその後の流れを変えたりしますけど、そういう「撮り方」みたいなものは保護の対象にならない。曖昧すぎるからです。物凄く巨大な功績あるものが保護されなくて、それに比べればどうでもいいようなものが著作権だなんだと騒ぎになってたりします。なんか一番大事なものが保護されてないじゃないって気もするのですね。

 それと、著作物の流通業者、メディアに対しては、彼らだって言い分はあろうし、彼も莫大な資本を投下して、著作物を商品としてパッケージしたり、広告打ったり、メディアミックスでタイアップで駆けずり回ったりしてるわけで、その利益保護に熱心になるのは分かります。ただし、彼らの行動が、僕らの生活をどれだけ豊かにしているのか?本当に豊かにしてくれた分に関しては、正当な利益をお払いしたいですが、過剰であるがゆえにマイナスになってる部分も大いにあると思います。

 それは例えば、タイアップとかそんなことばっかりやってるから、タイアップでないと歌が売れないとか、本末転倒の現象です。メディアミックスが盛んになって、日本の文化の質は上がりましたか?僕はむしろ下がったように思います。これは世界的な傾向だと思うけど、「すげえ!」と絶句する曲が少なくなった。絶対レベルとして下がってると思います。日本人の文化に対する感性も、お手軽でとっつきやすいパッケージばっかり食べさせられてるから逆に下がってるようにも思います。だから、メディアの人たち、皆さんが自負するほどには、僕らの生活の向上にはあんまり貢献してないんじゃないの?という気もするのですね。



 一番最後に、ホンモノの芸って複製できないです。ホンモノのライブ、演奏、演技というのは、現場に居合わせて同じ空気吸っているから、鳥肌が立つような異様な皮膚感覚が生じるわけであって、これはいくら最新鋭のデジタル機器を駆使しようとが、複製できません。というかデジタルになった時点でもう終わってるというか。いまの人間の科学力では無理です。「そこに実在する」という現象の凄まじさというのは、もうゼロか百かというくらい圧倒的だと思います。

 これをアーティスティクでスノッブな言い方だと思う人もいるでしょう。そういう人に問いたいのですが、あなたの目の前1メートルにあなたの恋人が座っている状態と、1メートル先にあるTVに恋人が笑ってる映像が映っている状態とで、全く同じだと思いますか?「人がそこにいる」ってのは、とんでもない出来事です。ましてやその人が百万人に一人の奇跡のような技を見せてつけてくれるときの凄さといったら、言語に絶する。

 その差がある限り、アートは死なないし、コピーも複製もされえない。だから幾らよく出来たCDであろうが、ニセモノっちゃニセモノなわけで、ニセモノがデジタルの力で寸分たがわずコピーできようが、どうでもいいじゃんって気もするのですね。だから、著作権もそういうライブの凄さがある領域に限っては、それほど人類と文化の関係のおいて本質的なことか?って気もするのですね。ところで、CDでは色々エフェクトかけてお化粧できて聞けるけど、ライブはメタメタというアーティストもいますが、はっきりいって、生でやってダメだったらそれは最初から「アーティスト」じゃないんじゃないかという気もします。

 その国、その社会の文化レベルが上がればあがるほど、著作権の保護の本体である「複製」なんかでは満足できなくなると思いますよ。人類全体の文化レベルが上がっていって、著作権が自然消滅するようになったら、それが一番素晴らしいでしょうけどね。




(文責・田村)

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