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みんなの動画館




柴田和則さん  格闘技&バンドLOVEの柴田青年のわらしべ長者物語  PART 02


 撮影日:2010年09月30日


 秋田県出身の柴田さんは、シドニー滞在5年を経て、今は格闘技団体K-1のオフィシャルライターとして活躍中です。

 今回は Part 02です。3〜5年目。
 一旦帰国したあと、再びシドニーでフリーペーパー誌の編集の仕事をし、K-1ライターになるまでと今後の豊富を語って貰いました。


日本帰国から再びシドニーに戻る経緯

「日本って日本人しかいないな〜」 & 「俺なんかに出来るわけない」がいつの間にか消えた


  2年ぶりに日本に帰国した柴田さんは、久しぶりの日本を存分に堪能します。「いいな〜、日本」とシミジミしていたのも束の間、外人と交流する機会が乏しい環境に寂しさを感じるようになります。やっぱりまだやり足りなかったのかな?と思っているときに、丁度シドニー現地のフリーペーパー(Cheers)の募集広告を見かけて応募し、採用されます。

 募集といっても、柴田さんは編集経験はゼロ。それでもためらわず応募していたという点で、本人も気づかなかった心境の変化があるように思います。それまでは「俺なんか出来るわけない」と自分で思いこんでやりもしなかったのに、シドニーの2年間で知らない間に自信と積極性が出てきた。他人からも「行動力があるな」と言われるようになる。

 もっとも柴田さんの場合、引っ込み思案の時代にコツコツとやり続けてきたからこその行動であり、結果でしょう。行動だけでコツコツ部分をおろそかにしてもダメだし、コツコツだけやって出ていくときに出ていかないと努力がムダになる。そのバランスや兼ね合いが、シドニー時代にいい具合にミックスされていったのでしょう。

3年目〜5年目 フリーペーパー編集時代

"Cheers"編集時代(その1)

Cheersは読者時代から好きだったし、スタンスが好きだった。Cheersじゃなかったら応募しなかったと思う。

 なんと編集専任の社員は自分ひとりしかいない。外注のコラムなどもあるが、ムチャクチャ責任範囲が広い。非常に多忙だけど、料理っやワイン記事から、エッチ系から、政治から、スポーツから、格闘技やロックまでやらされたし、好きにやらせて貰えた。すごく良い環境だったし、勉強になった。給料貰って研修させて貰ってるような感じ。当然多忙でもあり、編集室に寝泊まりすることもあったけど、苦にはならなかった。

 格闘技系では、アメリカのUFCがシドニー興業を打ったときに、交渉してメディアパスを貰って、取材をした。
 

"Cheers"編集時代(その2)

(続き)次の就職先になるK-1の関係者(レイ松村氏)にもコラムを依頼していたし、窪塚洋介氏や、BoysUMenにも英語でインタビューした。日本国内と違って地元日本語メディアは数が少なく、競争率が低いので、ビッグネームでもありえないくらいチャンスが得られるという、マイナーなるがゆえの機会があった。

 もともとクリエイティブで言葉が好きだったので、書いていても楽しかった。好きなことだけやって仕事になるなんて「出来るわけない」と思いこんでいたけど、出来るわけ「あった」のだ。
 

K-1オフィシャルライターへの就職と今後の抱負

ローカルの清掃会社、ユダヤ系の小学校の清掃


 K-1の世界展開と並行して、募集要項は「英語、格闘技、文章力、編集経験」という条件が掲げられ、「おお、ピッタリすぎる」と思って応募した柴田さんは、Cheers時代にもよく書いていた格闘技記事を送り、スカイプ面接を経て、採用されます。仕事は、K-1のオフシャルなメデイア部門。

 日本の格闘技業界や出版業界はハッキリ言って状況が良くないのだけど、子供の頃から好きだった格闘技なので、心中するくらいのつもりでいいと思っている。
 

 世界的にみれば格闘技は世界的に盛り上がっている。むしろアメリカに持って行かれてしまって日本が厳しいという感じになってます。でも、良くないからこそ頑張りたいし。

 海外リテラシー=海外の人達と仲良くなれる力=についても、シドニーには一通りの民族がいるし、一通りの友達は作ったし、今なら世仕事で海外に飛ばされてもやっていけると思う。初日に近所のコールズに行くのにビビっていた頃とは違う。

 あらましは以上のとおりですが、実はもう一回続きます。  話の骨格部分ではないのだけど、こぼれ話や、ここまでやってきて得たもの、どうやっていけばいいのか論など、面白くてディープな話を次回にUPします。

 ということで、→Part3に続く


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