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日本ではなぜ若者がエラいのか?(その2)



(4)メディアの選好



 僕としては若い人のトレンドとか意見とかそんなに注目してるわけではありません。無駄やスカが多すぎるし。じゃあ年食った人の意見や傾向に注目してるのか?というと、そういうわけでもない。なんせ、若い人以外の世代の傾向や嗜好って、殆ど語られる機会もないし、報道されないんだもん。そういったメディアの選好ってのはあると思う。僕がメディアサイドにいて効率的な経営を考えるなら、やっぱりコギャル関係を狙うでしょうね。

 だってあのへんの人って、社会的にパワーないから、反撃される心配もないし、安心してオチョクったり馬鹿に出来るんだもん。それはもう宗教団体や企業の事を書くよりは遥かに安全。それに、いつも素頓狂なことをやるので(ほんとは言うほどやってないんだろうけど)、話題としては楽だし手頃。読んでる読者だって「コギャルおそるべし」みたいなこといいつつも、心のどっか(というか全部か)で彼女達のことを馬鹿にしてると思うんですよ。だって、どんなにシリアスを装って記事書いていても、その根底にあるのは「ほらほら、こんなケッタイな生き物がいますよ」「またこんなバカなことやって喜んでますよ〜、馬鹿ですね〜」という論調じゃん、基本的には。いい退屈しのぎであり、国民のペットみたいなもん。また、ブルセラファンの男もひきつけられるし、書く側としてはこんなにオイシイ素材はないと思います。

 そんなことより何より、こんな手抜き記事書かれて、売られて、それ買ったり見たりしてる側こそ問題だわ。面白いっちゃ面白いけど、レベルの低い面白さ。「3組の山田が授業中ウンコ漏らした」とかいって喜んでるガキレベルの面白さ。金と時間使って付き合うようなネタじゃないじゃん。どうせ嘘80%なんだろうしさ。サッチー騒動なんか、言及するだけ脱力しそうだから、もう言わない。こないだ日本に帰ったとき、たまたま「サッチー騒動についてどう思いますか」と小渕首相にインタビューしてたらしいけど、こんなん一国の首相に聞く方も聞く方だけど、答える方も答える方だし、またそれを報道する方も報道する方で、見る方も見る方、、、「だ、だ、大丈夫か?!」てな感じでしたけど。

 それに40代、50代の感性鋭い人達の趣味とか傾向なんて、もう一括りにできるわきゃないし、流行なんてもんに乗らない人達だろうから記事の書きようがないんでしょうね。「最近江戸中期の掛け軸に凝ってるんですよ」とか「マヤ文明の遺跡にハマっちゃいましてね」なんて語られても、取材する側が消化できないだろうし、読者も消化できないだろうし。そこらへんは最初からそういうジャンルに特定した趣味系のメディアにいってしまって、一般的なメディアに馴染まんのでしょう。あったとしてもグラビアの隅っこに1ページくらい「社長の肖像」「私の履歴書」みたいなのが載るくらいでしょうか。

 ともあれ日本のメディアの傾向としては、「最近これが流行」「○○という人が増えている」とかいう具合に、一定の形式にアテはめないと気が済まないところがありますわね。一定数、数がまとまっててくれないと書いてはいけないかのように。そりゃ「社会の動き」という観点からは当然かもしれないけど、なんか無理やりアテはめてるのが多い。「静かなブームを呼んでいる」とかさ、何なのよ「静かなブーム」って?


(5)社会の「健康診断」としての若者


 メディアの話が出たので思い付いたのですが、若者に関する記事の全てがお手軽暇つぶし記事ってわけでもなくて、なかには真剣に考えるべき内容を備えたものもあります。

 それは、この社会の歪みや病理をストレートに反映しているのが若者だという観点からです。子供や若者を取り巻く環境というのは、とりもなおさず大人が作ってるわけで、その環境の影響を受けるしかない子供達がおかしくなってきたとしたら、それは即ち大人社会がおかしくなってるからだという。早い話が、子供や若者は「社会のウンコ」みたいなもので、尿検査をするみたいに「どっかおかしな点はないか」「あったとしたら何が原因か」を考えようという。

 これはこれでわかります。道徳観念が希薄な子供がいたら、それを育てた親の道徳観念が問われるでしょうし、生命に対するリアリティを持ち得ない子供がいたら、その親や社会も生きるということのリアリティを持ってないんじゃないかと。これは大いに語ってしかるべき話題ではあるでしょう。


 ただ、気がついた点が二点。

 一つは、教育問題にしてもそうですが、あそこで生じているのはウンコであり結果にすぎず、それをつつきまわして原因を究明するのは意味があったとしても、そこに原因があるのではない。ウンコの色を塗り替えたり(ああ、いくら分かりやすいとはいえビローな喩えを使ってしまった)、尿の色を着色して誤魔化したりしたって仕方がないということです。あるいは、その直前の直腸やら肛門やら(つまり学校の教師とか)だけを問擬してても駄目だろうと。

 もう一つは、「社会の病状を示すリトマス試験紙(最初からこういう奇麗な比喩にすれば良かった)」として子供や若者があるんだという発想が正しいとしても、日本の方がその種の発想が好きですね。オーストラリアでは、あんまりこの種の視点で語られたりはしません。

 なんでなんかな?と思うと、やっぱり日本人は今の日本社会が良いとは思ってない、この日本はどっか狂ってるって思ってる度合が強い。オーストラリアはどうかというと、本音の本音はわかりませんけど、でも新聞なり人々の口調をみるかぎり、「この社会ほど素晴らしい社会はない」と思ってるフシがあります。それも、世界で一番!、世界に誇るべき俺達の国、というくらい強い調子でそう思ってる。

 タクシー乗ったら、「どうだい、いい国だろう!」って運ちゃんがほがらかに笑ったりするし。新聞の投稿やスピーチを聞いてても、なぜ素晴らしいのか?の理由が結構明快です。いわく「内戦もなく、国内的にテロもなく安定した平和な国である」、いわく「人はみな平等だという意識が浸透している」、いわく「フェアゴー、マイトシップなど、公正であること、助け合うことに最大の価値を置いた国民性で、これは人間として誇るべきことである」、いわく「自然環境豊かで生活水準が高い(確かに20世紀初頭では世界で一番だった)」「世界中の国の人が住んでるのに互いに認め合い大きな喧嘩もせずにハッピーにやってる」などなどです。

 これはもうオーストラリアの神話のようなもので、本当はそうじゃなくても、事実から目を背けても「そう思いたい」と思ってるキライもあります。これは、日本でいえば「治安がいい」「日本の工業製品は世界最高」「時間は正確」、さらに本当はそうじゃないけどそう思いたいものとしては「日本人は手先が器用(ほんとか?)」「日本人は英語の文法は強いがただ会話に慣れてないだけ(これも実はウヌボレだと思う)」みたいなもんです。

 もっともオーストラリアでも、ポーリンハンソンみたいなのが出てきて馬鹿なこと煽って、またそれに同調する阿呆がいるから、子供達の間で人種的な攻撃が起きたりするのは問題だとか、そういう話は出ます。また、経済競争やリストラが進み若年失業者が増えるから、ドラッグが蔓延するんだとか。人種の問題、失業の問題、わりとテーマはハッキリしてます。ただ、トータルとして、オーストラリア社会の大きな基本路線は間違ってないと思ってると思う。問題があるとしても「こんな素晴らしい社会なのに、こんな汚点があるのは許せない」的な発想になる。

 でも日本の場合は、今の日本社会が、トータルとしてどこか大きく間違ってるんじゃないか?という意識が強い。そして「どこか大きく」という感じだから、「どこが?」と個別的に指摘しにくいし、わかりにくい。バラバラに指摘してもバラバラ過ぎるし、どこから何をどう直せばいいのかもよく判らない。「何かしらんけど、これで良いわきゃないだろう」という感じです。

 言わば、なんかダルい、気分が悪い、全然調子が良くない、きっとどっか病気にかかってるんだろうけど、それが何だか判らない、、、だから不安です。そんなときは、自分の便の具合が妙に気になったりするもんだと思います。でもって、バブルで悪酔いして「ああ、また馬鹿やっちゃったなあ」と思って「清貧の思想」なんぞを取り出して読もうとしてた矢先に、オウム事件が起こり、酒鬼薔薇が起こり、援助交際が起こり、学級崩壊が起こった。「ヤバイなあ、病気かも」と思ってたら、案の定血便が出たようなもんで、「やっぱり」感、と「まさか、ここまでヒドイとは」感があるような気がします。

 誇張して書いてますが、だから、日本の場合、どうしても若者や子供の動向に目がむいてしまうんじゃないか。こういった要素もあるんじゃなかろかと思います。



(6)若さが尊いというコンセプト



 伝統的な文化なのかもしれませんが、日本では「若さ」を愛でる傾向が強いような気がします。ちょっと射程距離を延ばして当て推量をすると、これって、日本人の処女信仰/新品信仰、もっといえば神道の「ケガレ」の発想にまでちょっとばかりリンクしてるような気がします。

 とかく日本ではブランドニュー、「マッサラ」が好まれます。庭一面に降り積もった雪、足跡ひとつないキレイな世界がイイのであって、そこを誰かが歩いて足跡つけちゃったら、「あ〜あ」ということで価値がガクンと落ちる。

 それに初物が大好きで、「初」という漢字が大好き。初雪、初鰹、初体験(^^*)。「初々しい」とか。「純白」「無垢」「手つかず」「おろしたて」なんて感覚も好き。そりゃ、西欧でもボジョレーヌーボーとか初物はありますけど、あれは農産物を祝うという労働祝祭的なニュアンスがあるよな気がする。西欧でもヴァージニティへの崇拝はあるしヴァージンロードとかとも言うし、マリア様なんか処女懐胎だし、別に処女大好きなのは日本だけじゃないけど、でもカツオや天気にまで処女性にひっかけて喜んでるのは、やっぱり違うと思います。

 何なのかな、これ。人間がいじくらない前の、マテリアルの「素」の状態を尊ぶというのは、自然本来の状態が最高でそれに人間が関わるごとに価値が下がるという、自然主義なのかしらん。日本料理も、刺身にしても、出来るだけ新鮮な素材の微妙な味わいを尊ぶ。なんでもかんでもソースぶっかけて食べちゃえという風にはいかない。

 これはもう良きにつけ悪しきにつけ文化だと思います。人の営みの価値(例えば技巧を凝らしたソースの素晴らしい出来栄え)と、自然(素材)そのものの価値とでは、後者の価値へのウェートが高い。

 この発想は転じて、中身は全く同じでも、一旦包装紙を破った物を他人に贈るのは「失礼」であるという価値観にもつながる。たとえ包装紙の破け方が数ミリ単位であろうとも、完璧に補修できたとしても、それでも「一旦手をつけた物」=「処女性がなくなったもの」はそれだけ価値が減じると思う。ここまでくるとある種宗教的な感覚だと思います。それは手付かずの自然こそが尊く、そこに何らかの人為等が重なるのを「ケガレ」のように扱う神道的な発想に近づいて来る。神道では神や仏に祈るというよりも、はら(祓)う。「清めたまえ、祓いたまえ」で榊の枝を振ってオハライをします。ロンダリング宗教。

 女性の処女性については、例えば舞妓さんから芸妓さんになり、贔屓にしてた「旦那」とやらが、5000万なにがしかの金を払って、落籍(ひか)せ、その処女を奪い、お妾さんにし、お妾さんは「お富さん」という歌で「粋な黒塀、みこしの松に〜」と歌われてるように黒い塀と松のある家に囲われる。旦那が死ぬと、正妻はお妾さんの家に行き、形見の品と幾ばくかのお金をもって、「今までご苦労さまでございました」と挨拶をし礼を尽す、、ことになってたりします、トラディショナルな形では。言ってみれば、かなり目茶苦茶な処女売買・人身売買システムが、文化であり遊びの粋として承継されてきたりします。これがJAPANだったりするわけですが、やっぱ最初の一歩は処女でないと話が始まらなかったりします(まあ、実際の姿は色々だったんだろうけど)。

 源氏物語でも、子供の頃からずっと育てて、頃合いをみはからって自分の女にしちゃうとか、その子供から大人へ移行する微妙な、何ともいえない「青い果実」な透明感が好まれたりする。文豪の書いた小説「伊豆の踊り子」でも「潮騒」でも、やはり初々しい、硬い果実のような若さが賛美されてたりする。まあ、これらの文化的下地があれば、日本がロリコン王国になるのもわからん話ではないです。

 また、新車でも一旦プレートを交付されれば実際に乗らなくても中古になって値が下がるという。だから「新古車」という英訳不能な単語があったりもしますし、交通事故の物損賠償でも「格落ち損」という不思議な賠償項目があったりしますし、判決でもちゃんと計算に含められてたりします。

 これらの日本人の趣味をつらつら見てますと、そりゃあアイドル歌手は十代でなければ駄目でしょう。今だって、宇多田ヒカルは15歳というところに意味があるのでしょう。アーティストは作品がメインであり、年齢なんかどーだっていいじゃんとは、絶対にならない。あの人同じだけの歌の巧さであっても50歳だったら、あそこまで売れてはいない。「円熟したシンガー」ということで、それなりのコラム的な扱いになってるだけでしょう。

 一方西欧ではどうかというと、日本ほど強烈に若さを賛美したりはしない。「ナイーブ」という英単語がありますが、日本では「初々しくて無垢で純粋」といういい意味で使われますが、本来の英語では「世間知らずの未熟者のドアホ」という意味だったりします。だから、ナイーブと言われたらケナされてるわけですが、このあたりに端的に、彼我の嗜好の違いが出てるんじゃないかと思います。

 嗜好でいえば、男女のセクシーさの嗜好でも、西欧は濃いのが好きですよね。男性だったら筋肉ムキムキで胸毛バリバリなのがセクシーと言われ、女性だったら出るべきところがガーンと出ているグラマーが良しとされます。もちろん個人の好みは千差万別で全部そうだと言えるものではないですが、大雑把な傾向としてはそうでしょう。マリリンモンローがアメリカ人の永遠の恋人とか言われてる頃、日本では誰なんかな、吉永小百合とか、そんなにセクシーさを強調するわけではない楚々とした人が好まれる。男だったら玉三郎とか、スベスベサラサラの優男が好まれる。

 西欧では、やっぱステーキ王国というか、血がしたたるようなギトギトしたステーキ何ポンド、それにこってりしたソースをかけて、デザートにアイスクリームをてんこ盛りというのが王道パターンなのでしょう。生まれてから死ぬまでほとんどそればっかり食べてる人々と、刺身に漬物でお茶漬け食べてる人々とでは、それは好みも違うでしょうという気がします。

 このあたりの日本人の趣味嗜好というのが、西欧以上に、日本では若い人をキラキラ眩しい存在に見せている背景要因になってるような気がします。


(7)若くなくなるとどうしてダメになるのか?



 これが一番の問題だと思います。

 一つには、経験の蓄積や年輪よりも、天然の初々しさを重んじ、「フレッシュが一番」とばかりに人間を生鮮食料品のように見立てがちな趣味嗜好があるのでしょう。とにかく、年とったら「新鮮じゃないから駄目」という。非常に残酷で、非常にわかりやすい話です。「鬼も十八、番茶も出鼻」というくらい、若いということに価値を置く。

 ただこの「新鮮趣味」ってのは、逆に言えばある意味ジジ臭い趣味でもあると思います。もう濃いのは疲れるし、くどいし、消化するエネルギーないわ、だからなにか軽いものを、そうねパリパリしたサラダでも貰おうかという感じ。あるいは、「ああ、若いってのはいいもんだなあ、ほら、この肌の張り具合」とかいって撫で回してる、回春嗜好の爺さん嗜好というか。

 若い人間は若いことに価値をおかない。20歳の男の子が18歳のガールフレンドに「やっぱり若いコはいいよ」とか、あんまり言わない。自分が若いときは、若さなんか空気みたいなもんで限りなく無価値に思える。それに人間の心理として、若さという、時が経てば絶対に失われる物なんかにアンデンティティを構築したりしないでしょう。だから若さを愛でるという心境は、同時に自分は若くないんだ、なにか大切なものを失ってしまったんだという意識の裏返しだと思います。さらにいえば、若さを失ったとき、それを上回る価値を構築できていないんじゃないかという事にもつながると思います。

 また、前に述べたように、非常にクールに引いて見た場合、若い人の感性だけがトンガってるわけでもない。若い人にウケてるモノがあったとしても、それを最初に作ったのはもっと年上の人だし。例えばエヴァンゲリオンを作った庵野秀明氏は僕と同じ年だったりしますし、小室哲也氏だって似たような年まわりでしょう。だから、若い人だけが格別クリエィティブだとも思わないし、特にここんとこ世界的に見てても、ビートルズやピストルズが出てきたときのような「なんじゃ、こりゃ!?」という脳天グサリの衝撃は少ない。

 にも関わらず相変わらず注目されるというのは、相対的に若くなくなったら(単純に年齢だけで定義すれば20代中ば以降になったら)、ごく一部の人を除いて一般に感性が鈍磨してくるという傾向があるということでしょう。同じ世代の奴が作ったのに、それを発見して評価するのは若い人で、それで人気になったから同世代の奴が後追いしてる。だから、相対的に若い人の感性が浮かびあがってくるという。じゃ、なんで?ということになります。

 これも複数の仮説がすぐに思い浮かびますが、まず一つは社会に出ちゃった後は、生き方そのものがクリエイティブじゃなくなること。若い人は詰め込み教育で気の毒だとか言いますが、若くない人の気の毒さに比べたらまだまだクリエィティブで楽しい。受験戦争だ就職戦線だとかいっても、一旦会社なり家庭に入っちゃったらそれすら無いもん。あとは転職なりの孤独な作業をすることになる。

 会社入っても3年たったら強制的に転職させられ、3年目は転職準備のために仕事量は半分でいいぞ、、なんてことになったら、忙しないけど楽しいかもしれません。そうなれば、3年後の自分をいつも考え、「これでいいんだろうか」「俺は一体何がしたいのか」で悩むようになります。自分の周囲が不安定になってくると、落ち着かなくなりますが、同時に神経は研ぎ澄まされるようになるし、それが感性の鋭さにつながるのではないかと思います。結婚しても3年たったら自動的に婚姻が失効し(離婚させられ)、継続したいときだけ特別の延長届が必要とかいう話になったら、3年後を考えて心中期する人もいるでしょう。

 もちろん現実は違います。いくら自発的/非自発的転職が盛んになったといっても「盛んになった」とニュースになるくらいですから、逆に言えばメインストリームはまだまだ長期スパンでありましょう。大卒23歳で会社に入って、あとは定年まで40年ほど同じ所に勤める。長い長いタイムトンネルを抜けたらもう老人と呼ばれているという。結婚だって基本的には死ぬまで、子供が生まれたらこれは死ぬまで(以上)のお付き合いになります。

 それまで3年か4年たったら、「総とっかえ」のように一気に周囲の風景が変わっていたのが、いきなり40年〜死ぬまでスパンのものに取り囲まれるわけです。環境は当然のように心理の影響を与えますから、やっぱり落ち着きます。あんまりドキドキしなくなります。同時に周囲にアンテナ張り巡らし、「何かになりたい」「どこかへ行かなきゃ」なんて意欲も段々低下していくでしょう。だって何処にも行けないんだもん。

 そんなこんなで相対的に感度が鈍ってくる、何を見ても聞いても「それがどうした」と内面に響かなくなるってことはあるでしょう。我が身を省みても、やっぱりオーストラリアに行くんだ!なんて妄想じみた事が頭に浮かんできてから、思春期のときかそれ以上に音楽に対する感度が良くなりましたから。前にも一度書いたと思いますが、こちらに来る時期と相前後して心理状態が非常に高校の頃に似通って来るんですね。どーゆー感じかというと、なんせ羅針盤が無いから、自分の直感で右だの左だのを決めなきゃいけない。その場合、自分の感度を砥ぐヤスリになったのが、音楽だったり本だったり、やや浮世離れしたモノだったわけです。癒しや懐メロとして聞くのではなく、あるんだか無いんだかわかんない心の琴線とやらにヒットするかどうか見て、ヒットしたことによってそこに琴線があることを自分で再確認する、そんな感じでした。

 あ、ちょっと思い付いたけど、逆にいえば学生時代の悶々というのは後々すごく役に立つ、と言うよりも、後々の原型になっていくのかもしれません。だからティーネィジャーの頃は多少ムチャでもいいからストレートにしておいた方がいいと思う。あの頃に妙に妥協しちゃったり妙に大人びたりしてると、その後の人生の転機においても又おなじパターンを踏襲しちゃうリスクがあるんじゃないか。あんまり真剣に検討してないフラッシュアイディアですけど、人間ってその人のなりの原型/鋳型みたいのを幾つかもってて、結局その鋳型を使って似たようなことを繰り返すだけって気もしますから、鋳型だけはイイモン作っておいた方がいいなと思います。「ここ一番で勝負弱い」とか「切り出せないまま恋を逃す」とか「言っちゃイケナイことをつい言ってしまって全壊」とか、妙な癖がつくと後で直すの大変だから。

 第二の仮説としては、「大人」の理想像の喪失。

 単純に考えても、40代の方が20代よりも長く生きてるんだから経験も豊富で、精神的にも技量的にも完成度が高くなってる筈で、だから40代の方が20代よりも「カッコいい」となっても不思議ではありません。

 実際、西欧の映画でも沈着冷静なヒーローはあんまり若くない。西部劇見てても、アクション映画見てても、まあ年齢はよく分からんまでも、そんなにハタチそこそこのような人物が主人公になることはない。これは、西欧に限らず、中東だってアフリカだってアジアだって、似たようなもんだと思います(よう知らんけど)。日本だって、昔は、歌舞伎でも講談でも、渋い中年が主役張ったりします(忠臣蔵の大石内蔵助、勧進帳の弁慶にせよ)。東映任侠映画もそうでした。 若者が登場するときは、どっちかというと頭の足りない奴、馬鹿なんだけどその純粋さがいいよね、的な扱われ方だったと思います。また、職人世界では、やっぱり大工の棟梁とか、板前さんとか、一定の年齢いった人間が一番凄くて、一番カッコよかったりします。

 今だって基本的な構造は、実はそんなに変わってないと思うのですけど、ただ、ここ20〜30年、「平均的な日本人」として思い浮かべる人物像が、「都市部に生活する給与所得者」に変わってきた。早い話がサラリーマンですが、これが中心モデルになってしまったのが、ひとつには原因なのかなって気もします。

 いやサラリーマンだと年食うと駄目になるのか?というと別にそんなことはないです。この複雑な経済社会、さらにその社会を人間が動かす以上、人間が本来もってる毒素があちこちに噴出し、迷宮のように物事が進んでいくなかで、とにもかくにもやっていくには、それなりの基礎知識と、技量と、クレバーさが必要とされるでしょう。そしてそれは経験のなかで蓄積されていくでしょう。

 なのに何となくパッとしない印象があるのは何故なのか?やっぱりカッコ良さが見えにくいんだと思います。ビジネスといっても、最終的に煮詰めたところは人間関係ですし、その人間関係の芸術的なまでの調整というのは、得てして「膝詰め談判」のように密室で行なわれたりします。これ、見えないです。むしろ見えちゃいけない。板さんが、無駄のない動きで一尾の魚をサバていく熟練の技のカッコ良さのようには映らない。

 そのあたりって、ある程度責任持たされて、部下のAとBが反目しあって生産性が上がらない、新入社員のCはすぐスネる、上司のDとEが派閥つくってる、取引先の社長は怒ってる、、、という、シューティングゲームのような、雨アラレのような人間関係をかいくぐっていく経験をしないと見えてこないですわね。もっと上になれば、例えば銀行も支店長クラスになれば、当然のことながら鮫のように狙って来る暴力団など地下金融の連中からのアタックを避けないとならないし、政治絡みの配慮もせなならん。どんどん難易度が高くなってきます。

 そのへんが全然見えてないOLなんかは、ハゲだのデブだの、月の輪グマだの、ネクタイの趣味がどーの、油ギッシュがどーのという、幼稚園児並の批評性しか持ち得ないから(まあポストにつけず、お茶くみばかりやらせてる会社も悪いのですが)、そのカッコ良さが全然伝わらないってのはあると思います。で、こんな「私達こんなに馬鹿なんです」とオノレの愚劣さを暴露してるような言説なんか、犬が吠えてる程度に思ってシカトすりゃいいのに、よせばいいのに結構気にしちゃったりして、それに合わせて媚びようとするからかえってハズしてオヤジギャグの泥沼にハマるという。

 逆に、若くなくなった人にしても、「自分はカッコいいんだ」というセルフエスティームが低いですよね。とかく、日本のオッサン、オバハンはもっと己惚れていいと思う。これは筒井康隆氏のエッセイにもありましたが、そうすれば「ああ、俺みたいな色男がこんなことしちゃいけないな」と思うようになり、路上に、カーッ・ペッ!と淡も吐かないだろうし、「どうせモテないから」でやけくそセクハラもしなくなるかもしれない。オバサンだって、30代40代になって、女性としての完成度が上がったと思えばいいわけで、「若作り」なんてわざわざレベルを下げるようなことはせず(それはヒラリークリントンが焦ってボディコン着るようなもんで)、コムスメには絶対真似できない高貴な品格を意識すればいいと思うのですね。そりゃ客観的に空回りもするでしょうけど、でも自分のことを「なんたら伯爵夫人」くらいに思っていれば、電車で席の割り込みなんぞはしなくなると思うのですね。

 そして、これは相互に男性女性も悪いのですね。20代後半をすぎた女性をババー扱いするような男らなんざ、未熟なガキなんだから、それこそ犬が吠えてると思って無視してりゃいいわけです。これはもう全ての20代後半以降の女性に申し上げたいが、男はなべて青い果実が好きなわけではない。少なくとも僕はそうです。僕がそうだといっても何の力添えにもならんでしょうが、ブルセラとか何がいいのか全然わからんもんね。むしろ年齢が上がれば上がる方がいいくらいにさえ思ってます。ただし、LADYという称号に相応しいそれ相応の品格を持ってないと駄目ですから、同じ年でも落差は極端ですけど、ガキでもオバハンでもない、素敵なLADYになってくださいませ。フランスの諺だったかでも言われているように、「人妻であることは、素敵な恋をするための必要条件である」とかさ、そういう価値観もあるわけですから。

 男だって、女性側からそう言われれば、「よし」と思って多少は頑張ろうと思うのですね。とにかく、男女年齢問わず、「あきらめちゃったら」人間スサみますから。一気に太ったり、愚痴っぽくなったり魅力がなくなる、だから余計に諦める、もう悪循環ですから。地獄へのスパイラル・ダウン。中年よ、大志を抱けです。他人の事言ってる場合じゃないんだけどさ。



 しかし一方、翻って考えてみるに、20代後半からこっち、自分ははたして客観的にカッコ良くなってるのかね?というシビアな問いかけもあるわけです。若さは若さで一つの価値であり、カッコ良さの源泉であるとしても、それ以外のカッコ良さ、価値を見つけることができたのか、構築できたのかが問われなければならない。それが出来なきゃ、単に「若くなくなった人」というマイナスでしか表現できない人になっちゃう。

 じゃあ、その場合の大人のカッコ良さって何なのよ?その内実はなにか?ですが、やっぱりその中核にあるのは「実力」だと思います。板さんだって、棟梁だって、ヘタクソだったら話にならないわけです。実力あってこそのカッコよさなのでしょう。若い頃は実力なくてもまだサマになる余地はあるが、年くったらそうもいかない。

 だけど20代後半になってから、「いよいよここからが本番」という意識はあるのだろうか。全知全能を振り絞って、さらに上のステップに進むぞという気迫はあるのか。まだしも、社会に出て働いている人は、若僧扱いされたり、実力の差を思い知らされたり、油の乗り切った先輩の馬力と切れ味を見せ付けられたりして、その機会はあると思います。「50、60(歳) 鼻タレ小僧」という世界だってあるし。ただ、皆が皆その機会に恵まれるものでもない。その機会に恵まれないと、「なんであんな使えないのが上にいるんだよ」みたいな気分にもなろうし、「俺もあんなになっちゃうのかな」と意気消沈するでしょう。スゴい人に恵まれないのは不幸なことですが、半分はそんなポジションに居てしまう自分の責任でもあるでしょう。

 自分を省みても、なんか、うーん全然駄目じゃんと思いますね。来年40歳でしょう?他の国だったら首相か大臣やってても不思議でない年齢でしょ。それが出来るだけの、洞察力と、知識量と、清濁あわせて呑む度量があるのかねと自問自答したら、とてもじゃないけど心元ないです。

 かといって、絵画がわかるようになったのかとか、芸術のセンスが磨かれたのかとか、恥ずかしくない程度の古典に親しんでいるのかとか、署名くらいは毛筆で書けるようになったのかとか、その気になったら礼儀作法はバッチリなのかとか、どこに出ても見劣りしない程度に英語のスピーチができるのかとか、直感力は鋭さを増しているのかとか、男女の機微が分かるようになったのかとか、死に直面してもオタオタしないだけの胆力は備わったのか、、、もう、アレも駄目、コレも駄目ですね。「予定よりも10年遅れてます」ってなくらいに心元ない。こんなレベルで納得してたまるか畜生という感じですね。

 組織に入ってれば否応なくやらされて経験積んだり鍛えられたりするけど、特にこんな所で気侭にやってるとその機会もないから、勢い自分でいろんな課題を設定していくしかないし。大体、子供の頃、「あれは大人がやるもの」と思ってたもの、つまりはこの世の全てのことですが、それが出来ないとならない。もう世間が自分の目の高さまで下がってきましたもんね。もう言訳できないもんね。まだやらなくてもいいのは、還暦パーティーのスピーチと、孫にお年玉あげることくらいですわ。

 とかく若いときは、粗削りでもキラリと光る物があるとかいって許されてきたけど、もう許されないですもんね。余裕で100点取るというか、逆に試験問題作る側に廻らないと。

 なんてエラそうに書いてますが、僕だってこういう話題だから、話の成り行きでそう思い付いて書いてるだけの話で、常日頃からそう思ってるかというと、そんなことないです。そんなことないだけに、やっぱりちょっと考えなきゃいかんなと思ったりする今日このごろです。





1999年09月25日:田村
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