シドニー雑記帳



世界周遊旅行記 その1

− アメリカとホームステイ −





     どうもご無沙汰しておりました。予告どおり、8月より約6週間旅に出てまいりました。Round the world Ticketという世界周遊用の安チケットを利用して、まずはアメリカに飛び、ロサンゼルス→シアトル→ボストンと廻ってから、ラースの故郷デンマークに入り、最後に晩夏の日本を訪問してきました。書きたいことは山ほどあって、どこから手つけていいのか分からない状態ですが、つれづれなるままにいってみたいと思います。




     「旅、どうだった?」と聞かれるのですが、一言で言うと「あっという間でした」。6週間もあった筈なのに、本当に行く先々で時間不足でした。もっとも今回は観光旅行とは違って、知り合いや家族を訪問して歩く旅だったから余計そう感じたのでしょう。久しぶりに会う友人とはもっと話したいし、家族とはしばし一緒にいてやらなきゃなんないし。その上、私にとっては初めてのデンマーク、ラースにとっては初めての日本です。一応観光っぽい要素も取り入れたい反面、将来ここに住むとしたらという可能性を見極めたくもあります。比較的スケジュールは余裕をもってたつもりだったのですが、長旅になると予期せぬアクシデントも起こりますし、もう若くないので身体も思うように動かないしで、どうしても時間不足&消化不良になってしまうのでした。

     基本的に友人宅や家族の家を泊まり歩いたわけで、言ってみれば「ホームステイの旅」でもありました。「その国のこと知りたければ、ホームステイするのが一番」とよく言いますけど、本当にその国の人がどんな暮らししてるのか見ながら話すと、普通の観光とは違う側面から発見があったりして面白かったです。旅先の印象なんて、天候と会った人の印象くらいで決まってしまいますけど、会った人の家で過ごせれば生活を垣間見られる分だけ印象が深まるように思います。

     通算3ヶ国訪問したわけですが、一番お気楽に楽しめたのはアメリカ、一番面白かったのは意外なことに日本でした。アメリカが気楽というのは、お互い言葉に支障がないので、独立して楽しめる、対等に協力しあって旅できるという理由が大きいと思います。デンマークではデンマーク語がわからない私のためにラースは始終通訳しなければならないし、旅のプランをたてて予約を入れたりするのも彼に一任、なにか問題が起きても表向き対処できるのは彼一人ということになります。日本ではその逆。

     意外なことに、自分が世話する立場にいるより、自分が世話される立場にいる時の方がツライもんなんですね。何をするにも誰かを頼りにしなければならないってことが、こんなにうっとおしい状態だとは。両者の立場をほぼ同時期に体験して初めて分かりました。将来、デンマークか日本に住むなら、お互い言葉をある程度操れるようになってからでないと、精神的に疲れて大変だろうなと思いました。

     また、デンマークと日本ではどうしても「里帰り」的要素があるのに対して(家族や親戚との対面はやっぱ気遣うし)、アメリカでは基本的に「旅行者」として楽しめたということもあるかと思います。

     日本が面白かったのは、自分が「ガイジンの目」になってるからでしょう。これは今年の4月に帰国した相棒田村も言ってたことですが、プラス、今回はラースという「ホンモノのガイジン」がいたため、彼の反応を見たり、彼の感想を聞いたりするだけで、新たな発見があって結構楽しめたということがあります。まあ、ガイジンと一言で言っても、出身国やこれまでの旅行歴、人生経験等によって見方も違うのでしょうが、「旅行歴は結構あるヨーロッパの片田舎出身のガイジン」が日本をこんなふうに見てこんなふうに感じるのかあと、興味深かったです。

     一番印象が薄いのが何故かデンマークなのですが、これにはいくつか理由があります。異常冷夏で天気が始終悪かったこと、いきなり二人して激しい下痢に見舞われたこと(ライ麦のパンに含まれるバクテリアが原因のようでした)等。でも、やっぱりヨーロッパの一部なので、欧米豪と比べてパッと見で「ほお」と思うような分かりやすい違いがないってことが一番大きいと思います。ただ、気候風土や産業、社会システムに関しては興味深い点もあるので、おいおい紹介したいと思っています。




     さて、一番お気楽だったアメリカから、お気楽にイッてみましょう。

     まずはロサンゼルスで13年前にホームステイさせてもらった家庭を訪問しました。これについては言いたいことが沢山あるので、あとでまとめて書きます。

     それにしても、ロサンゼルスの空気は汚かった。晴天なのに空は灰色だし、すぐ側にある筈の山もぼやけてる。70年代の東京もこれほど汚くはなかったんじゃないか? 車社会の象徴のような片道6〜7車線もある巨大なハイウェイは、近未来SFアニメみたいに無機的でいて、常に混雑してる。大気汚染の元凶は分かっていても対処の仕様がないのか? 電気自家用車はまず、ロスに売るべきですね。

     それからサンディエゴにドライブついでにメキシコの国境にもちと寄りました。アメリカを一歩出た途端、いきなり貧困が目の前に顕れるわけですが、「国境って何なんだろう」とふと考えさせられました。地続きの国境がないとこで育った日本人(オーストラリアも同じだけど)にはピンと来ないのですが、絶えずドイツやロシアからの侵略に脅えてきたデンマーク人にとっては、当然のことなんでしょうね。ナチス統制下のドイツからスカンジナビアに亡命しようとデンマーク国境まで逃げて来た人々の話も聞きました。今でもトルコ、旧ユーゴ、ソマリアあたりから、ドイツを突っ切ってデンマークに違法入国する人々が後を絶たないそうです。
     気候も景色も空の色も同じなのに、一歩踏み越えるとそこに全然違う生活がある・・。国が違うんだから当たり前っていえば当たり前なのでしょうが、妙な感覚でした。


    シアトルから200km南にあるマウント・レイニア国立公園
     その後、ロスに戻ってシアトルに飛びました。シアトルには知り合いの日本人一家が一時滞在されているのでお邪魔して、観光気分で付近の国立公園をドライブしたのですが、よかったです。シアトルもコンパクトなサイズで緑豊かな住みやすそうな街という印象でしたが、これだけ近くに大自然が豊富にあるってのがすごいなあと感心しました。特に、朝のマウント・レイニアは美しかった。シアトルに行かれる方は是非行ってみてください。4000m級の山で、夏でも氷河に覆われてます。

     それからラースの仕事先であるボストンにしばらく滞在していました。特に何するということもなく、ラースのボスの贅沢なマンションで昼間からゴロゴロ寝てるだけの怠惰な生活。そうそう、港脇のロブスター屋さんで、1匹5ドル程度で生きのイイのが買えます。観光らしいことといえば、クジラウォッチングクルーズくらいかな。ハンプバック鯨とミンク鯨が、目の前でジャンプしてくれました。写真は撮り損ねたけど。

     ボストンもコンパクトサイズで美しく暮らしやすそうな街ではあります。治安はアメリカのわりにはいい方だし、気候も悪くない。古くから学生街でもあるので若者の活気もあるし、いわゆる文化の香りもある。日本人社会もちゃんと機能してるようだし(シドニーと同じくらいの規模らしい)、新鮮な魚介類も手に入る。でも、なんとなく「この街に住むんだ〜!」とポジティブな気持ちにはなれませんでした。新しい街で暮らしはじめること自体、冒険的要素があって面白くはあるのですが、シアトルもボストンも、私にとっては多かれ少なかれシドニーと同じようなもんで、「新生活をする場」としてさしたる新鮮味は感じない。シドニーの二番煎じみたいで、「ここに住め」と言われたら「ま、いっか」という程度。一言で言うと、「ここだー!」という直感が来なかったんですね。向こうに呼ばれてない、というか。

     シドニー来た時は、理由なんかないけど「これに間違いない」という自信がありましたし、なんだか向こうから呼ばれちゃってました。行ったこともない街だったのに、行く前からそんな気がしてました。そういや今まで、「呼ばれちゃってる」感覚があるかどうかで、人生決めてきてるような気がします。現世的な理屈や実現可能性よりも、「あ、呼ばれちゃった」という原始感性レベルでの判断。それに従った結果がベストかどうかは判定しようもありませんが、自分の中では一番納得いきますね。それがアメリカ、デンマークでは感じられなかったんですね、少なくとも今回は。後述しますが、かえって日本ではその兆候を感じました。





     さて、ロサンゼルスで13年前にお世話になったホストファミリーを訪問したお話しに戻ります。ファミリーといっても、当時から4人の息子たちは既に巣立っていたし、数年前にホストファザーは心臓病で逝去してしまったので、今はホストマザー(ママと呼んでる)一人だけなのですが。非常に敬虔なクリスチャンで、今でも教会の仕事をボランティアで手伝いながら、毎日聖書を読んで慎ましく暮しているおばあちゃんです。ロサンゼルスといっても、シティから車で3時間ほど東に入った、レッドランドという田舎町。ここまで来れば、大気汚染もなく、のどかな乾いた丘が広がります。

     当時はアメリカでのホームステイが流行り出した頃で、日本の旅行代理店が地元の教会組織を利用して日本人を送り込んでいました。当時のUSドルレートは1ドル250円程度だったから単純比較は出来ないけど、結構な値段しました(確か1ヶ月で50万円くらい)。その一方で、受け入れるホストファミリーは一切お金をもらっておらず、全くの善意で受け入れていたんです。あの頃はまだ旅行業界も殿様商売できたんですねえ。私がお世話になった地域では、2年連続で夏休みに日本人学生が送り込まれてきたそうですが、その後、地元のオーガナイザーが別の教会に移ってしまったので、以降外国人は受け入れていないといいます。が、今でも「いつでもウェルカム」という感じでした。田舎なので車がないと自力で移動する手段がないのがネックですが、のんびりしたロスの田舎の生活を堪能するにはうってつけです。興味のある方は、紹介しますよ。

     今回訪問してつくづく思ったのは、「ホストファミリーはこちらが覚えている以上にこちらのことを覚えていてくれ、懐かしがってくれるんだなあ」ということでした。13年も前にたった1ヵ月滞在しただけの日本人を、いまだに本当の娘のように思い、心の底から再会を喜んでいるんです。ラースのことを、彼女のお眼鏡にかなう男かどうかをチェックしてたりして(概してクリスチャンの倫理にかなった人間かどうかを見ているようでした)、結構笑えましたが。そして、「あなたの両親には一度も会ったことがないけど、すばらしい娘をシェアさせてもらったことを感謝してると伝えてちょうだい」と。

     彼女の親戚の家にも挨拶に行きましたが(当時よくお邪魔させてもらった家なので)、その家庭でも昔ホームステイさせてあげた日本人のことを、いまだに昨日のことのように目を細めて語っていました。「あの子はこの料理が好きでね」「そうそう、あの子をセスナに乗せてあげようとしたら、怖がっちゃってねえ」とか。まあ、皆さんかなりお年を召しているので、既に巣立った子供たちが幼かった頃のことを思い出すようなノリになっているのでしょうが、それにしても「よく覚えてるなあ」と関心させられました。そして「最近はとんと手紙も来なくなったなあ・・」と寂しそうに呟いてました。
     ウチのママからも「年とって目も悪くなったから、頻繁に返事は書けなくなったけど、あんたからの手紙はとても楽しみにしてるよ」と言われ、「こんなことなら、もっとマメに手紙を送るんだった」と反省しました。本当に。


    ママは小さなモーバイルハウスで一人暮らし
     そして、もう1点思ったことは、「ホストファミリーは英語が出来るようになってから再度訪問すべし」ということ。当時は私の英語力不足で聞きとれなかったこと、勘違いしていたことなどが、どんどん明らかになりました。彼女の両親や家族がポーランドからアメリカに難民として移民してきた時の話、ニューヨークのロングアイランドから子供3人抱えてキャンピングカーひとつで、見たこともないカルフォルニアまで移動して住み着いた時の話、カルフォルニアで職探しに苦労した時の話、やっと買った小さな家を自分たちで改装増築し、その家が高い値で売れた時の話、結婚後間もなく第二次大戦で徴兵にとられたご主人との間の文通恋愛時代の話等々、もう「生きたアメリカ史」の宝庫。
     私が「へえ、面白い」と喜んで聞いていると、「あんたには前に話したでしょ」と鋭い一撃を食らいましたが、当時は英語がわかんなかったんだよね。日常の「おなかすいた」程度のことは分かっても、込み入った話までは到底理解できなかったんで、今回再会して本当によかったと思いました。

     今、シドニーでもホストファミリーの紹介をやっていますが、我々が懇意にしているホストファミリーでは一度滞在した人から手紙が来ると本当に嬉しそうで、我々に見せてくれたりします。「この子はこういう子でね」「そうそう、この子が来た時は・・」と長話が始まるくらいで。シドニーはホームステイの需要が高いので、ビジネスの一環と考えてサバサバした付き合いをする家庭も結構あるのですが、その一方で外国人を受け入れること自体を楽しんでいる人達も沢山います。もちろん、人間同士のことなので、合う/合わないはありますが、「単なる下宿屋」と割り切らずに積極的にコミュニケートすれば、暖かい心の行き交いは生まれる筈です。

     英語もロクに喋れなかった当時の私が、あの1ヵ月間で肌で感じたことは、なんといっても「人って見ず知らずの外人に対して、こんなに優しくなれるんだ」ということでした。あの体験がなかったら、知り合いもいないオーストラリアへいきなり行ってみようという勇気も発想も出てこなかったかもしれませんし、外国・外人に対してもっと構えてしまったかもしれません。






     彼らに今、私たちが出来る恩返しといえば、「ホームステイっていいもんだよ」と人に伝えること、シドニーのホームステイ紹介を手伝うことぐらいですが、ゆくゆくは私たちが受入先となるためのお手伝いが出来ないものかと、帰国後ちらほら考え始めています。つまり、日本の家庭に外人を滞在させるしくみを作ることです。

     既に外人を家庭滞在させた経験のある方もおられるでしょう。が、まだまだ数が少ないし、仲介システムも十分確立していない。インターネットで検索してみたら、いくつかの地方自治体で国際交流への取り組みの一環としてホームステイ斡旋をしているようですが、私企業としてはまだ経営成り立たないでしょうね。

     東京などの大都市付近でホームステイさせようとしても、部屋が足りないから無理ということがありますが、都会をちょっと離れれば1部屋くらい空いてる家庭はたくさんある筈だと思うんですね。それに、「外国人を受け入れてみたい」と興味をお持ちの家庭も結構あるんではないかと。よく「日本人は家の中を他人に見せたがらない」と言いますけど、対象が外国人だとちょっと受入感覚も違うんじゃないかな。





     今回ラース連れて日本をまわって感じたのですが、英語をしゃべれる外人の場合、言葉の障壁ってそれほど高くないです。意外にも日本人は外来語をたくさん輸入して使っているので、私の親世代の人とでも外来語をヒントにそれなりに英語でコミュニケートできるんですね。また、言葉なんか知らなくても、身振り手振りや抑揚、表情から分かることも結構あるものですね。私もデンマークで実感したのですが、自分が知っている話なら、言葉がイッコも分からなくても会話の内容がだいたい掴めるんです。ラースも日本で同じことを言ってました。

     それに、わりと日本人って、外人に対してオープンなんですね。ラースは日本人並に(少なくとも私以上に)気ィ使いなので、他人の家にお邪魔する際には「こうしちゃ失礼なんじゃないか」とかいろいろ気にして疲れるところなのですが、今回お邪魔した家では歓迎されているということがオープンに伝わってくるのでとてもリラックスできたそうです。私から見ると、私一人の時よりもラース連れの時の方が人々は優しく、気配りしてくれるような気がしました。お世話になった家だけでなく、街を歩いていても同じように感じます。

     特に田舎の人はガイジン自体が珍しいのか、一生懸命ラースとコミュニケートしようとしてました。かえって私が一緒にいない方が人はラースに近寄りやすいようで、一人で歩いてる間に面白い体験をいろいろしたそうです。

     ウチの実家の近所を一人で歩いていたら、畳職人さんが家の外で作業をしていたので、ラースは立ち止まってその作業ぶりを見ていた。すると、家の中からおばちゃんが出てきて、何かいろいろ言う。なにやら「お茶を飲んでいけ」と言われているようなので、招かれるままに家の中にあがってお茶をいただいて、畳の縫い方まで教わって帰ってきたそうです。30分くらいいたら、近所の人たちがどんどん集まってきたので、バツが悪くなって帰ってきたとか。
     また、バスに乗っていたら高校生の女の子たちが興味深そうに話しかけてきて、日本語と英語のカタコトでなんとかコミュニケートしたそうです。で、彼女らがバスを降りたあと「バイバーイ、ガイジン!」と大声で挨拶されて恥ずかしかったと。

     こんな話聞くと、日本人もなかなかやるじゃん、と嬉しくなります。外人恐怖症なんてどこぞの話じゃ?という。ヘタに英語知らない人、ガイジンなんか見たことない人の方が、かえって構えず先入観ナシに接することが出来るのかもしれませんね。そういう田舎でホームステイしてれば、日本語も早くうまくなるでしょうし。それに、長期滞在ではなくて、移動中の1泊2泊のアコモデーションとしても、利用価値あると思うんですよね。日本のホテルはやたら高いですし。





     余談ですけど、日本のアコモで最も安価と思われるユースホステルですが、それでも1泊3000円位はとられますよね。その上、シングルの男女が寮のように別々に泊るというのを原則にしている部分があるように思います。もっと夫婦者やカップルが気楽に泊れるようになればいいのに、と。ちなみにオーストラリアのユースやバックパッカー系の宿には、大抵ファミリー用やツインルームもありますし、共同部屋でも男女分けてないとこも多いです(共同部屋でカップルが人目憚らずアクティビティしてたりして、ちょっとたまらんこともあるのですが)。

     それとこれは偏見なのかもしれませんが、いわゆるユースカルチャーといいますか、ミーティングとか歌うたいましょうとか、「みんな仲良く交流しましょう」という、ちょっと疲れるノリがあったりすることも、ユースが敬遠される所以だと思ったりもします。いや、実際に本日ただいま日本のユースのうちの何%がそうやってるのか知りませんし、もっともっと時代の流れにビビットに反応しておられるのかもしれません。だから私が時代遅れの大ボケぶっこいてる恐れもありますので、そんなに強くは言えません。
     しかし、真実がどうあれ、「ユース、うーん、ちょっとなあ」というイメージを私が抱いてしまっているのは事実です。少なくとも私が利用していた10年ほど前まではそういうノリってあったと思います。そのカルチャー色はユースによって多少違っていましたが。まあ、現時点のユースに関しては「ろくに知らんくせに」言ってるわけですが、ろくに知らん人間のイメージこそが、ものすごく決定的だと思うのですよ。私の「ろくに知らん」友達なんかもそのイメージを共有しているようだし。

     もしこのイメージが真実と違うならば、ものすごい勿体ないことです。で、真実もやっぱりそうだったら、それはそれでやっぱり勿体無いことだと思います。

     なぜかというと、ユースに代る安宿ってのは日本ではそんなに見当たらないのですよねえ。まあ、ガイジンや貧乏旅行者相手に安宿経営しても儲かりそうもないですけど。

     だからこそ、ホームステイを安宿として気軽に利用できるシステムが出来たらいいなあと思うわけです。普段着のままで迎え入れてくれる家庭で、旅の土産話(+実費)と交換に疲れを癒すことが出来たら、と。





    ラースの目線で見る満員電車内
     話を田舎でのホームステイに戻しますが、田舎で滞在する大きなメリットとして、迷子になりにくいということが挙げられます。都会じゃ一人歩きするにも、ややこしい電車システムを乗りこなすのは大変です。東京の駅にもかなりローマ字表示が増えたけど、それでもラース一人じゃチケットもまともに買えません。確かに券売機の上にはローマ字表記の料金表はあるんだけど、いざ券売機のボタンを押そうとすると日本語だらけ。細かいことですけど、JRの券売機は初乗料金のボタンには値段の代わりに駅名が漢字で書いてあるんですね。あれ、日本人にとっては便利だけど、日本語読めない人には迷惑です。

     JR大塚駅から1駅だけ乗ろうとしたラースは、130円の数字ボタンを探したけど見つからず(つまり130円分に相当する駅名が日本語で羅列してあった)、仕方なく150円のチケットを買ったそうです。買ったチケットの印字もすべて日本語なので、正しいチケットなのかどうか確認しようもありません。更に、地下鉄システムを乗りこなすのはもっと大変。もっとも東京の地下鉄なんか日本人でも普段使わない路線となると迷子になるもんね。乗り換えもややこしいし、車内アナウンスは全部日本語。ちなみに新宿駅で一度山手線が車両故障だかで止まったのですが、その時の緊急放送アナウンスがわからない人はどうやって目的地に着けたのでしょう? 駅員も日本語しか喋れないし。

     日本の都会で日本語が分からないと、身体障害者と同じです。目も耳も口も不自由なヘレンケラー状態。よく身障者の身にならないと、その不便さは分からないといいますが、ガイジンの目で見るといかに日本が不便かわかります。これじゃあ、外国人旅行者は増えないわ、と。日本語知らずに東京を動き回るのは、ほとんど暴挙と言えましょう。「日本に行ってみたい」というラースの友人も沢山いるのですが、今回の経験からラースは「言葉知らずに東京の公共交通機関を利用するのは無理」と言って勧めていません。まあ、間違ったチケット買って電車に乗っても、「ガイジンだからしょうがない」で通るというメリットはあるみたいですが。

     もっとも、外国人用の乗り放題チケットも各種あることはあるようです。いちいち料金を確認してチケットを購入しなくてもいいというメリットはデカイですね。JRの乗り放題チケットなんかかなりお買い得だし、日本行き航空券を販売している現地の旅行代理店で購入できるので、便利です。その他、大都市圏ごとに乗り放題チケットというものも発売されているようですが、第一どこへ行けば買えるのか、そもそもそんなもんがあるという一次情報からして明確になっていないようです。外国人向け観光ガイドブックには書いてあっても、いざ現地では英語情報になかなか行き当たらない。

     その点、田舎なら自分の足で町を歩けますし、公共交通機関も単純です。その上、人は親切。言葉は分からないなりにも、助けようとしてくれるといいます。田舎ではちょっと立ち止まって地図を広げただけで、誰かが近寄ってきて話し掛けるそうです(ちょっとtoo muchと彼は感じたようですが)。

     これまた余談ですが、田舎であっても今の日本にはどこにいってもコンビニがあるのがウレシイそうです。コンビニの効用ってそういうとこにもあったのね、と気付いたのですが、言葉を交わさずに欲しいものが何でも簡単に手に入るんですね。もっともほとんどの商品には日本語表記しかないので、「これが何なのか」を見極めるのはかなり至難の技のようですが。

     もっと根本的なことですが、なぜ東京ではなく、田舎がホームステイに適しているかといいますと、「東京は日本を誤解させるから」という理由が挙げられます。ちょっと大胆な物言いですが、これについては、場を改めて考えていきましょう。


    ★旅行記その2 −日本のプレゼンテーション−



1998年9月29日:福島

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