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東京からは日本が見えない





 既に折にふれて何度も述べてますが、僕は東京生まれの東京育ち(一部川崎)です。巣鴨の生まれで、当初の本籍は港区三田。世田谷の二子玉に住んだと思えば、下町深川に住んだり、転々としてます。

 いまバリバリに関西弁を使ったりしてるのは、全て大学以降の関西暮らしで自然と身についたもので、もともとの地はべらんめえ調だったりもします。

 これまで関東圏と関西圏とでほぼ同じくらいの期間過ごしています。まあ、研修で岐阜に1年4ヵ月暮らしたり、なんだかんだ言ってシドニー暮らしも3年になりますので、正確にいえば半端な数値になりますが、大雑把に言ってしまえば東西の文化が半分づつ注入されているようなものです。




 で、まあ、つくづく思うのですが、「日本=東京」という誤ったコンセプトが結構いろいろなところで出廻ってるなあと。

 APLaCの柏木の場合、山口の生まれで、青森の八甲田山麓で幼少期を過ごし、且つインドネシアやらシドニーやらにも暮らしたことがあるのですが、それでも人生の後半はべったりの東京暮らしでありました。で、時々僕は彼女の言葉の端を捉えて「柏木さん、それって東京の人独特の言い方ですよ」とからんで遊んでたりします。

 なにかというと、例えば「東京ローカルの地名を何の前提説明もなく使う」ということだったりします。「おいしいレストランと言えば、荻窪のね、、、」と言い出すと、「オギクボってどこですか?」と意地悪くまぜっかえしたりするわけですね(^^*)。

 いや、僕も荻窪くらい知ってますし、行ったこともあります。東京暮らしの経験のない人にも、そこそこ知られているでしょう。でも、新宿、霞ヶ関、銀座クラスの全国区からすれば、やっぱりローカルなものだと思う。ましてや「西荻」とかになれば、もう知らんでしょう。だから、スジから言えば、知らなくても当然というローカルな話題として、導入すべきではないかと。

 だって日本にいる人に「この間レイン・コウブに行ってきたのですが、、」で話を始めたら何のことか分からんでしょう?シドニーに暮らしている人同士ならともかく、普通なら「シドニーの北西、都心からほど近いところにレインコウブという緑豊かな住宅街があるんですが、先日そこに行ったとき」と言わないと分からない。というか、別に「Lane Cove」なんて固有名詞なんか取っ払って、「シドニーのとある住宅街に行って」というだけで必要十分とも言えます。

 荻窪とか三軒茶屋とか明大前とか、どう考えても全国的に著名であるべくもない地名を何の留保もなく使う人の中には、おろそしいほど日本地方の地理に無知な人がよく居るのですね。鹿児島の天文館やら、金沢の香林坊やら、名前自体が既にカッコいい地方の有名繁華街は山ほどあります。でも全然知らない。そのくせ「三鷹でね〜」とか言うという。



 「大阪の地下鉄の名前3つ言え」といっても全然言えないくせに、「都営三田線で〜」とか誰かれ構わず言う。何を隠そう、それが昔のワタクシでございました。いやあ、結局アホやってんな。東京におると知らずと井の中の蛙になるみたいです。なんか知らんけど、『ワシらは日本の中央におるんじゃ。日本人だったら東京のことちゃんと知っとけ。知らん奴が悪い』と言わんばかりの発想・態度に出たりしてしまうわけですね。意識してそう思うアホは少ないけど、無意識的にそうなってるから始末が悪い。

 大学のときの最初の下宿で、福井、大分、愛知出身の友人に恵まれたのが、この「ドアホの矯正」によかったですね。彼らの何気ない会話が、「世の中、都会と田舎しかない」もっといえば「東京とその他しかない」という愚昧な二元論的世界観をナチュラルにぶち壊してくれました。思えば、「多元生活文化研究会」の「多元性」に目覚める第一歩だったのかもしれません。

 その後も、「日本と海外」というアホみたいな二元論はシドニーに着いた途端音を立てて崩壊したりしました。また多元性へのトビラが開かれたのは、そんな地理的世界観だけではありません。例えば、僕が今まで会った人物のなかで舌を巻くほど頭がいいと思った人の一人が、僕が弁護人をやっていた覚醒剤三犯目という新地の元ホステスさんだった、という事実。これも、何かのトビラを開いてくれました(でも、そのコ、今思い出してもほんまにかしこかったです。本人は自分の頭の良さに全然気付いてなかったけど、面倒で複雑な法的概念の微妙な違いを呑み込む速さは驚異的。「CPUの演算速度」という地頭(じあたま)の性能は抜群でした。今ではオツトメも終えて元気なお母さんとなって頑張ってはるそうです)。




 毎度の通弊で話が逸れましたが、東京の話でした。

 シドニーでは、SBSという国営放送(NHK第二のようなもの)では、マルチカルチャリズムの一環で、30分づつギリシャ、香港、イタリアなどなど各国の地元のTV局のニュースをやっていますが、日本の場合は、朝6時から前日のNHKのニュースセンター9時(だっけな)が放映されます。でも、これ東京版なのですね。なんで分かるかというかと天気予報。オーストラリアに居ながら、「わあ、懐かしい日本のTVだ」と見てたら、関東地方の図が出てきて「東京都南部、今夜はくもりのち晴〜」とか言われるというのは、どこかしら妙な違和感があります。「ワタシが懐かしいのは日本であって東京地方ではないのよ」という。

 インターネットで日本の新聞サイトを見てますと、これまた東京版のようです。最近、関東地方で大雪とかいう大きな記事が出てますが、これ、東京が雪に見舞われなかったらここまで大きく取り扱われたのだろうか。インターネットで見てる限り、物凄い大事件のように報道されてますし、こちらも日本中どこもかしこも大雪に見舞われているかのように読めてしまうのですが、そうなの?関東以外の天気はどうなっているのでしょうか?例えば沖縄で雪が降った場合。これは東京の雪以上に遥かに珍事でありニュースバリューあると思うのだけど、まあ、ここまで大きくはやらないでしょうね。もしかしたら一面記事になんかならないかもしれない。



 よく言われることですが、情報を発信しているメディアの人も殆ど皆東京にいるから、「東京からみた日本」を全国に発信しているし、全国でその情報を見てるから、知らずにそういった世界観が焼き付いてしまうのではなかろうか。実際注意して見てると、「よくこんな東京ローカル情報、何の留保のせずに全国に流すなあ」と思う事たくさんあります。

 だから知らずに東京の地理にも詳しくなり、「荻窪では〜」とか言われても、「そんなローカル話知るかい、ボケ」とツッコミも入れずになんとなく「ふんふん」と聞いてしまうという。そういう態度でいるから、東京の人も知らずにつけあがってしまう、と。でも、これ、ちょっと退いて見たら、「変」だわ。首都圏人口3000万人といっても、1億2600万人の日本人口からすれば、4分の1以下のマイノリティに過ぎないわけでしょ。

 いわゆる一極集中の弊害を論じてるということになるのでしょうが、巷間よく語られる物理的な弊害よりも、こういった世界観部分の歪みというのもあるのではなかろうか。



 ここで、ちと極論を言うならば、「日本のこと」を一番知らないのは東京の人ではないか、と。地方にいると、地方独自の文化なりメンタリティがあります。また遠くから東京を眺める距離感と視線があります。同時に東京の情報というのは、結局のところメディア情報以外にほとんどないから(東京の話題はほぼ全部メディアがフォローすると言い換えてもいい)、東京のことも良く知っている。だから、必然的に複眼的というか、日本のことがステレオで捉えられるようになると思う。東京にずっとおると、これがモノラルになってしまう。

 関西圏は、独立文化圏として結構強力なものがあったりしますが、その中でもイケズの京都、スノッブ神戸、コテコテ大阪とこれまた強烈な文化圏があります。子供の頃からそこに暮らしてる人は、その文化を身体に染み込ませます。大阪だったら、土曜日は学校終わってから自宅で昼飯食べながらTVの吉本新喜劇を見て、コテコテギャグの薫陶を受けたりするとか。関西圏に限らず、福岡、仙台、札幌それぞれに強力な文化があったりするのでしょう。大分の友達に言わせると、大分県も北部と南部とで結構違うそうだし、これが大分と宮崎になると「人種が違う」というくらい違うとか。福井の奴に言わせると、福井には嶺南と嶺北があって、、、とか。

 そういった各地の文化を身につけながら、他方ではTVその他で東京文化にも接するわけで、頭の中では二つの文化が同時に鳴ってることになります。自然と、頭のなかで思い描かれる「日本」というのも、空間的・文化的な広がりが出てくると思うのですね。これに加えて、東京に対する憧憬なり反発なり、感情的なsomethingが彩りを添えます。こういった世界観が、日本人口の4分の3以上の人々によって共有されているとするならば、そっちのほうが本当の日本じゃなかろかと思うのです。

 でも、東京に住んでる人の圧倒的大多数は地方出身の人なんだから、本来的にはこの二重構造の日本像が浸透してても良さそうなのに、地方文化のマルチカルチャリズムが発達してもおかしくない筈なのに、なぜかあんまりそうならない。本来なら、方言がビシバシ飛び交ってるべきなのに、なぜか方言使ってるのは関西人のみだったりします(でもあんまり京都弁や神戸弁は聞かないような気がする)。




 いま、海外から日本を眺め、日本から発信される情報を見て思うのは、『それは「東京」であって、「日本」ではないよ』という、本質的に東京ローカルに過ぎないのに、あたかも全日本代表の顔してまかりとおっている情報が結構あるということです。

 例えば、オーストラリアに比べて日本は家が狭くて高価であると言いますが、都市圏を除けば、日本の家は結構広いし、決して高くもない。「日本は通勤地獄」とか言いますが、うろ覚えの統計数値ですが、平均通勤時間で30分超えて頑張ってるのは日本のなかでも首都圏だけだったと思います。その他の地方は、大体30分以内のおさまっていて、世界的にみても全然普通だったよな記憶があります。自然が乏しい云々というのも都市圏だけの話。いわゆる都市圏なんか、日本の国土面積の3%かそこらに過ぎないし。


 だもんで、東京ローカル話なのに、あたかもそれが日本の全てであるかのように語られているケースというのは多々あると思います。それってメンタリティとして貧乏臭い。なぜなら、そういった都市集中発想というのは、発展途上段階の、やれ富国強兵やら産業集中育成政策やらの残滓だと思うからです。そんな大都市様様でやってなアカンほど日本はもう貧しくないとは思うのですけど、違うんかな。




 なお、この「中心にいるがゆえに全体が見えないシンドローム」というのは、別に日本や東京に限ったことではないのでしょう。世界的にみても、G7にも入れて貰えず比較的「のほほん国」でやってるオーストラリアから見てると、日本のマスコミやアメリカのマスコミが流している世界観というのに、違和感を覚えたりもします。「なにリキんでんの?」と。

 だって日米とも世界1位・2位の経済大国でしょ。世界に国は200以上あるわけであって、学校でいえば、学年1番と2番の超優等生同士が「勝った/負けた」とかやってるわけで、「そらアンタらの立場からは、世界は違って見えるでしょうよ」と。圧倒的大多数の人々は、そんなこととは関係無く日々送ってたりするわけですもん。

 日本のマスコミがよく言う海外情勢というのは、結局アメリカ情勢であったり、国際関係といえば日米関係であったりします。日本とオーストラリア、オーストラリアとアメリカの関係なんか5%も出てこないし、オーストラリアとインドネシアの関係、アルジェリアとナイジェリアの関係に至ってはほぼ絶無。偏ってると思う。

 よく「日本はアメリカの属国だ」とか言う人いますけど、その意味でいえばアメリカの属国でない国なんか世界に殆どないでしょうし、むしろこれだけアメリカにタテついてる国(アメリカをカモにして稼ぎまくってる国)も少ないと思います。経済で「アメリカがクシャミをすれば日本が風邪をひく」と言われますが、ここのところのオーストラリアの新聞の経済記事を読めば『昔から「アメリカがクシャミをするとオーストラリアが風邪をひく」と言われているが、、」と書いてあったりします。これは意訳じゃなくて、本当にそのまんま書いてあります。もっといえば、日本やオーストラリアだからこそ、風邪程度でおさまっているのであって、いきなり肺炎になったり死んだりする国だって世界は沢山あると思うのです。

 国際関係に関する日本の書物などは、この手のレトリックが非常に多いように感じます。「○○なのは日本だけだ!」とかね。そういえば、この正月、福島が帰省した折に、「マイクロソフトのWord97なんて嬉しそうに使ってるのは日本だけで、世界的には全然売れてない」云々の話を聞いてきましたが、オーストラリアでも嬉しそうに使ってますよ。こないだ訪問した語学学校のラボでも「最新鋭の設備!」ということでWord97とかいれてましたし。まあ、Word97はどうでもいいんですが、世界は広いのに、どうしてすぐ「世界で日本だけ」というのが判るのでしょうか。ヨルダンではどうなっているのか、ベネズエラではどうなっているのか全然考えずに、「世界で〜」ということが言えるのか。

 これなんかも、世界観にバイアスがかかってる例だと思います。



 もう一つ、ことのついで言いますが、地理的中心云々の話だけではなく、社会的階層による偏った視点というのもあるだろうなと思います。

 例えば山一証券の破綻。路頭に投げ出された従業員の方々はお気の毒ではありますが、それにしても、新聞に続々と掲載される「○○会社、山一証券の元従業員○○人の採用計画を発表」とかいう記事。あれって一体なんなの?勤務先が破綻して路頭に投げ出された人なんか、山一に限らず日本にいっくらでもおられますわ。その再就職状況がそんな新聞ネタになるなら、山一に限らず、社員二人の小企業の場合も記事にしたらええやんと思います。

 なんでそこらへんの中小企業の場合は記事にならず、山一だと社員の再就職情報なんかが逐一記事になるのか?それは、山一のような一流企業でも倒産するのだという日本経済の厳しい現状を報道するからでしょう。そしてその社員の行く末は、これまでの日本社会の人生の羅針盤の原盤ともいえる「いい学校→いい会社=いい人生」という公式がどうなってしまっているのかを検証するという象徴的な意味もあるのでしょう。だから、報道する価値があるのだ、と。なるほど?




 しかしながら、「いい会社」云々の公式に乗ってられるのは日本の人口のほんの一部に過ぎない。だいたい大卒進学が増えたとはいってもまだまだ大多数は大学なんかいってない。ましてやいわゆる有名大学−有名企業ルートなんか、ほんとに一握りでしょ。そして、記事を書いている記者さん達も、山一以上のエリートコースを辿っているのでしょう。言うならば、「一流企業でも失業して大変なことになる」という事実は、その社会的階層に属する人々にとっては「明日は我が身」という切実さで大ニュースに感じられるのでしょう。

 実際の日本人の大多数は、そもそもその大企業に属してないし、別に入りたいとも思ってないわけです。勤め先が倒産するなんてことはありふれたことでもありますし、別にそこまで大騒ぎするほどのことでもない。こないだ自分で会社をあれこれ切り盛りしてる人と雑談しましたが、「山一の元社員が路頭に迷うとかいうけど、あんなん、僕ら高校卒業の時からずっと路頭におりますわ、路頭でアレコレ知恵しぼって商売してきてるんです」と言ってました。

 というわけで、あのあたりの報道を見てても、一流大卒の記者さん達のセンスのズレみたいなものを感じます。それはあなた方の「村」では一大事かもしれんけど、あなた方が思うほど、普通の日本人にとってはそんな大事ではないのではないか、と。少なくとも、採用に名乗りをあげた企業をいちいち報告して貰わんでもいいと思ってるんじゃないの?と。




 ただ、あの再就職情報でよくないなあと思ったのは、なんか結局「元山一」というだけで、世間が騒いでくれたり、同情してくれたり、一般の再就職よりも楽そうだったり、そんな印象を与えてしまったのではなかろうか。真実そうなのか、印象としてそうなだけなのか本当のところは良く分からんのですが、いずれにせよ「あ、やっぱり一流企業にいると潰れた後でも有利なのね」という視点をみなに植え付けたのではないか。

 これ、あんまり良くないなと思うのは、「○○さえすれば大丈夫、一番有利」という方程式でこれまで日本はやってきて、今後この方程式を塗り替えないとアカンと僕なんかは生意気にも思うのですけど、結局この方程式は維持されちゃったのかなと懸念するからです。「○○なら大丈夫」という発想は、すごい物事を単純化するから、そこで思考停止になってしまい、リスク管理という面でいえば非常に危ない。本当は、いろんなリスクを考慮しながら、会社が潰れても、自分のキャリアが古ぼけても、そのときのために今のうちにこっち方面にも力を入れておこうとか、唾つけておこうとか、色んなこと考えてやってた方がいいと思うのですけど。

 でも人間、そんな面倒臭いこと始終考えているのは大変なので、出来れば「これで安心」と思いたいでしょう。でも、この先そんなふうに世の中転がっていかないだろうなと思います。日本よりも半歩先にシビアな状況になっているオーストラリアでも、「この仕事につけば一生安泰」という仕事なんてないですもん。

 公務員なんか、政府が財政難になれば真っ先に首を切られる不安定な職業だし、財政難でなくても政権が変われば一定よりも上級職の首は全部すげかえられるし。みな、それを前提に、在職中にキャリアを積んで、そのあとどうする?を考えたりします。もちろん社会に出てから再び大学に入り直すというのも有力な選択肢ですし、大学における30才以上の女性の学生の占める比率は非常に高いし。

 首なり転職なりが当然とされる社会ですから、パワーライティングとかいって、履歴書の書き方を伝授する新ビジネスなんかも出てきてます。半歩先のオーストラリアでこれなのですから、一歩先のアメリカはもっと進んでいるのでしょう。日本も、いちいち再就職先情報まで報道したりして、いつまでもそんな古いメソッド抱え込んでる場合じゃなかろうにと、これまた生意気に思うのですけど、どんなもんでしょうか。

1997年01月16日:田村
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