シドニー雑記帳





瞬発力と持久力/「考えない」パワー





     あまり季節感のないシドニーでも、だんだん暑くなってきていることくらいは分かります。「だんだん」というより、ある日突然ムチャクチャ暑くなったと思ったら、いきなり肌寒くなる。もう日毎の温度差がバッラバラだもんだから、年間の季節の移り変わりが中々実感できない。段取よく移行してくれないわけです。泣いたと思ったらすぐケラケラ笑いだし、次の瞬間ズンと落ち込むような人を相手に酒飲んでるようなもので、「お前、いったい何なんだよ!?」と言いたくなるという。



     え〜、ところで、アジア発の金融パニックのあおりを食って、日本もトリプル安とか大変なことになってますが、日本現地の実感はどうなっているのでありましょうか?

     雑記帳の別館として「Studio ZERO」というのを作りました。これは、その昔パソコン通信の異業種交流フォーラムで自分らがやっていた会議室の過去のログをリサイクルUPしてるものですが、そのZEROで「銀行がなんで潰れないのか不思議でならない」と書いたことがあります。今から5年ほど前の話でしょうか。その頃は、仕事柄、倒産処理や債務整理などで、銀行さん相手にバンバン踏み倒しまくっていたわけです。短い期間で僕がやっただけでも100億以上は踏み倒してたのではないかな。日本全国津々浦々で似たような事態になってる筈だから、これだけ不良債権(当時は特にそういう名称も一般的ではなかったけど)があれば、なんぼ銀行といえどもぶっ潰れる筈で、それが全然その気配もない。だから不思議で仕方なかった。

     でも、最近は「ちゃんと」潰れたりしてますので、少しはマトモな世の中になったのかな?という気もしますが、それでも全然潰れ足りない。「こんなもんじゃないでしょう?」というのが実感です。地価下落にしても同じ。もっと下がらなければ嘘ではなかろーか。

     もっといえば、金融に限らず、日本の中に張り巡らされてるあれやこれやの制度疲労を起こしているシステム全体、ひいては日本それ自体、「なんで潰れないのか不思議」だと思ったりもしてました。年金システムも、悪く言えば「強制加入のねずみ講」とも言えるんじゃないかとか、保険なんかも一種の賭博じゃないかとか。あれから5年、なんだかんだ言って基本的にはまだ潰れてないですね。こっちきてから、最初は「ああ、もう、早いとこブッ潰れて次のステージに行けばいいのに」とイライラしてましたが、最近は待ちくたびれて「ほお、意外と持つもんだな」と感心してたりします。




     しかし、これだけゆっくりと物事が推移すると、たいがい意欲もやる気も腐ってくるのではないかと、それが心配です。自民政権が倒れて細川政権になったときは、「ちょっとは新しい世の中になりそうだ」と僕も含めて皆さん期待した筈だし、それなりに張り詰めるものもあったと思います。しかし、その後、ズルズルと自民党が復活し、なんだかんだダラダラやりだしたあたりから、もう根気も続かなくなってしまう。テンションが下がってしまう。誰かが「これでは、いかん!!」と声を上げても、夏の午睡のようなポワワンとしたムードに、だんだんテンションが続かず、尻すぼみになってしまう。で、二度目にやるときは、「ああ、またか」と新鮮味もないから、いきなりダラダラしてしまう。野党再編成なんかそうですね。

     抜本的、超大改革が必要だ!というのは、誰でも言ってるし、どの本にも書いてありますが、いざ「やる」となると、なかなか進まない。「わかってるけど、別に今日やらんでも」ということで、日毎だらだらと進んでしまう。

     この感覚、何かに似てるなあと思ったら、子供の頃、夏休みも終盤に入って、全然やってない宿題を「ああ、そろそろやんなきゃなあ」と気にしつつも、エンジンもなにもかからず、ひたすらダラ〜〜としている、はや残暑になりかけた夏の午後という感じ。あるいは、貰った手紙の返事を書かねばと思いつつ、日々過ぎていく感じ。はたまた、大掃除をしなきゃと思いつつ中々やらない感じ。『「いつかやろう」の「いつか」は永遠に来ない』と言いますが、そうなのでしょう。ホームページの更新なんかもそうだったりして。




     何かをするのは「瞬発力」というものが必要なのでしょう。

     あまり深いこと考えずに、勢いでやっちゃわないと出来ない。タイミングが狂っちゃうと、走り幅跳びの助走の歩幅が狂って飛べなくなっちゃうように、何も出来なくなるのでしょう。

     そういえば、その昔、(たまにですけど)街角や飲み屋で女の子に声をかけたりしたこともありましたが(成功率は恐ろしく低かったけどゼロというわけでもない)、あれも、あんまり考えてしまうと声かけられなくなってしまうのですよね。最初は別に変わったことを言うわけでもなく、「あの〜」とか「こんにちわ〜」とかその辺の何の変哲もない言葉なのですが、これ、「どうしようかな、なんかガード堅そうかな、無理かな、でも意外とわからないもんだし、でも、でも、でも」とか考えすぎると、何にも言えなくなっちゃう。仮に言えたところで、異様に緊張してしまって、妙に不自然な「あの〜」になってしまって、気持ち悪がられるのが落ちという。

     こんなのは頭カラッポにしてやらないとナチュラルにならない。もう声かけるのが当然、回覧板を隣の家に持ってくときに「こんにちわ〜」と言うように、しごく当たり前の気持でやらないとアカンかったりします。

     同じように危機的状況が慢性化してしまうと、何をするにつけてもキッカケというかタイミングがつかみにくくなってしまうのでしょう。日銀が金利上げるタイミングをつかみそこなって、そのままドツボにはまってるように。




     海外に行こう、留学しよう!とかいうのも似たようなものなのでしょう。入念に準備して、、、とかやってると、意外と時機を失するような気もします。いきなり誰かからチケット手渡されて、「ほら、出発は来週だからね!」とかやられた方が、何も考えるヒマもなく、「わ〜〜」と叫んでいるうちに、気が付いたら現地に居ましたとなって実現しやすいのかもしれません。

     自分の身の回りの環境を自分でヴァージョンアップしていくのは、かなり大変なことです。就職、転職、結婚、離婚、、、パワー使います。でも本当に大事なのはタイミングという気もします。キッカケさえ掴めたら、あとはスルスルと絵巻物でも見ているように勝手に事態が転がっていってくれるから、案外パワーも必要ないのかもしれない。問題は、その最初の一歩でしょう。

     この一歩を刻むのは、意思の力とかそういうものではないと思います。そんな「持久力」系統の事柄ではなく、もっと「瞬発力」系統のものだと思います。でもそっちの方が実ははるかに難しい。



     「こんなことをしていても駄目だ」と思いつつも、なかなか退職出来ないでシンドイ仕事を続けているという状況があったとします。しんどいことを続けていると、辛抱強くてエラいのだと価値観がありますが、必ずしも常にそうでもないんじゃなかろか。我慢してる方が実は全然簡単だったりする場合も結構あるんじゃないか。我慢の量が極大までいったとしても、例えば過労死するまで我慢していたとしても、それでもなお、悲惨な現状を継続してしまうという。巷間言われる「ゆで蛙」というのも、この文脈にあてはまるのでしょう。

     いじめとか、理不尽な苦痛を押し付けられ続けても、反抗できない。場合によってはほんの一言いうだけで状況はガラっと変わるだろうというようなときでさえ、その一言が言えずに、黙々と我慢し続けてしまう。授業中、トイレをガマンしていてもう死にそうになっているのに、手を上げて先生に許可を求めるその一言がいえずに、ひたすら悶絶しながら我慢しているような感じ。

     結局、そのときは、いくらシンドイ思いをしようが、その状況を堪え忍んでいる方が、現状を変えるアクションをすることよりも簡単に思えるのでしょう。どう考えても、不遇な状況を我慢しつづける忍耐エネルギーよりは、ほんのちょっとのアクションをすることの方が遥かに簡単だったとしても、それでも尚、それをするのはもっと大変なことのように感じられてしまう。

     で、いざ勇気をふりしぼってその一言を言って(「先生、トイレ行っていいですか」と)、以下事態がどんどん進んでいって、全く違う状況に身をおいたとき、振り返ってみれば、「なんで、あんな簡単なことができず、馬鹿みたいに我慢してたんだろ」「もっと早くやればよかった」と我ながら不思議に思えたりもする。




     これって一体なんなんだろう?と思ってしまいます。

     やっぱり人間のパワーには二種類あって、ひとつは辛抱・忍耐などの「持久力系のパワー」。これはこれでとても大切なパワーです。しかし、それだけでは物事は進展しない。起承転結でいえば「転」が来ない。物事、どっかでピヨ〜ンと飛躍せねばならず、その跳躍は、「我慢」とかいう現状維持の持久パワーとは全く別系統の「瞬発力パワー」だという気がします。

     じゃあこの瞬発力パワーというものの実体は何なのか?これは興味深いところです。陳腐な表現で言えば、「決断力」とかそういう言葉になってしまうのでしょうが、そう表現したところで実体が明らかになるわけではない。じゃあ、決断力の実体は何なの?となるだけ。





     思うのですけど、「考えない力」とかいう類のものではなかろうか。ナンパするとき、「無視されたらミジメだろうな」「馬鹿だと思われるだろうな」とかいう、ある意味では至極まっとーなシュミレーションを、敢えてバッサリ切って捨てる力のようなもの。当然考えてしまうような事を、寸前で踏みとどまって頭カラッポにしておけるようなもの。「考えないパワー」です。

     これが出来ると人生楽になるんでしょうねえ。こんなこと書きながらも、自分でも全然出来ないわけですけど、ギアチェンジするように、要所要所でスコーンと頭と状況を切り替えていけたら、もっと人生のフットワークは軽くなるだろうに。

     あ、言うまでもないですけど、頭カラッポにするというのと、単なる思慮浅薄というのとは違うでしょう。本当に何にも考えてなかったら、やっぱりマズイわけだし、成功率も低くなる。考えるには考えるのだけど、いざアクションの段になったら、思考は行動の足手まといとして置き去りに出来ることなのでしょう。要するに「あれこれ考えた挙句、「やる」と決めたらもう後は考えないようにする」という、ごく単純なことに過ぎないのでしょう。




     何度も言いますが、それが出来たら苦労はいらないのですよね。しかし、いきなりそれは出来ないにしても、それに類するテクニックのようなものはあるのではないでしょうか。

     例えば、「何がなんでも締め切りを作る」とか。あまり必然性のないようなことであっても、場合によってはメチャクチャな理由であっても、強引に締め切りを作る。例えば、海外留学ならば、「来年の私の誕生日には絶対オーストラリアで過ごすんだ!」と勝手に決めてしまうとか、「出発は満月の夜に決めている」とか。そこだけは根拠不明のままビシッと決めて、ボルトを溶接するように固定してしまう。一つ決まれば、あとは芋蔓式の段取だけだから、あんまり悩まないで、話はぐっと進んでいくことになる。言いにくいことでも、「スケジュール上、今日中に言わないと大変なことになる」と思えば言えるようになるでしょう。

     余談ですが、商売なんかで、「特売セールは今日だけですよ」「早くしないと売り切れますよ」「この商品は、この辺りでしか買えませんよ」というセールストークがありますが、あれなんかも、「今決めろ!」と促すことで、行動の瞬発力を生ませようとするわけでしょう。大体、訪問販売などでのクーリングオフ制度も、その場で決断を迫られたりしてゆっくり考える暇もなく無駄な買物をさせられるケースが多いから、消費者保護の見地から定められたもので、逆にいえば、締め切り作って思考の時間を制限しちゃえば、人間というのは結構簡単に決断できてしまう生き物なのでしょう。

     ということは、「明日でもいい」と思ってしまってる限り、永遠にふんぎりはつかないのかもしれません。




     橋本内閣の6大改革プラス1なんかが、ブチあげた側から骨抜きになっていく状況を見てると、「明日でもいいじゃないか」と思う人が多いのかなあと思ってしまいます。このまま行くと日本は破局を迎えるという議論が盛んですけど、うがった見方をすれば、「結局、破局までいかないと本気で変わらないだろうなあ」という意識(ないし無意識)がその底流にあるような気もします。夏休みの午後、宿題が気になりながらも、「結局、8月31日にならないとやらないだろうなあ、オレ」とか薄っすら予想しているかのように。机に向って宿題をやりはじめる苦痛を「考えないようにする」ことが出来ず、面倒臭さばかりが先に立っている、「地獄への秒読みのボヨヨン期間」。

     それに比べてシドニーの天気は、ふんぎりが早いですよ。もう瞬発力ばっかりというか。しかし、こう瞬発力ばかりだと、毎週毎週無理やり盛り上げようとしている連載マンガみたいです。そのココロは、あとで単行本で通読すると、チャカチャカ場面転換が激しすぎて、結局なんだかわからない。印象がボケてしまって、大きな流れがつかめないという。そうなんです、だから、シドニーも春夏秋冬が今ひとつピンと来ないのです。
1997年11月15日:田村

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