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そんなに簡単にわかってたまるか






オーストラリアに来てから、たいしたストレスもなく、至って呑気にやっておりますが、時には「なんだかなあ」と思うこともあります。例えば「オーストラリアでは○○です!」という、妙に断定的な、自信たっぷりな言い方に接したときなんかもそうです。

その場は、その人の語勢の強さや自信たっぷりさに、「ふ〜ん、そういうものなのか」と思うのですが、その後必ずしもそうとも言えないことや、時にはまるっきりの大嘘だったことが判明したりすると、なんでこんないい加減な話をああも自信たっぷりに言えるのかあ?と不思議になりますし、またあんな話を日本に帰った後周囲にしまくるんだろうなあと思うと気分がダークにもなります。



この類の「断言したがる人種」には当地でも何人か出会いましたし、人づてに聞いたことも多々あります。日本からきたお客さんに説明する駐在員の人やら、ガイドさんやら、状況は千差万別ですが、一つだけ共通点があるとしたら、「自分よりもオーストラリアについて無知と思われる人に対して語られる」という傾向があることです。間違ってもネイティブのオーストラリア人や自分より居住経験の長い人に向って「オーストラリアは○○だ」と主張することはないように思われます。いわば「絶対に反論されない」状況の気安さがそういう断定発言を招いているのかもしれません。

いや、べつに意見や感想を言うのは全然問題ないですし、常に正しくなければならない等というつもりも毛頭ありません。ただ一言、語尾に「〜と思う」をつけてくれたらいいだけなんですけど。さらに、どうしてオーストラリアではそうなのか理由を付けてくれたらもう言うことないんですけど。少なくとも「WHY?」と聞いたら、「いや、とにかくオーストラリアは○○なんです!○○と言ったら○○なんだあ!」とムキにならないで欲しいだけなんですけど。

僕もこうしてオーストラリアを紹介してるわけですが、大々的にホームページを開きながら今更こんなこというのはナンなのですが、自分の言ってることに100%自信がもてることなんかイッコもないです。「今のところそうとしか思えないのだけど、でも本当に本当かな?」と。ですので、文章も「〜と思われます」「〜ではないかと」など回りくどい言い方を多用する羽目になるのですが、仕方ないです。確信もてないのですから。



僕も30数年日本に住んでいましたけど、日本のこと大して知りませんもん。絶対にこうだと思ってたことが後でよく調べてみると全くの誤解だったとか、そういう経験は沢山あります。または、いい加減なイメージだけで勝手に思い込んでたりとか。例えば、僕は大阪に住んでましたが、高校卒業まで東京にいました。東京にいた頃の「大阪像・関西像」というのは今から思うと実に噴飯もので−−くいだおれ人形の下で皆してタコ焼きを食べながら銭勘定の話や品のないジョークばかり大声で言ってるデリカシーのない連中−−みたいな漫画的イメージですね。ものの10秒でも考えれば、仮に高校生であったとしてもそれが無茶苦茶であることくらい分かりそうなものなのに。挙句の果に「なんか関西の奴って嫌い」とか漠然と反感を抱いていたのですから、アホです。

このようにネイティブという最強の立場に立っていても、その社会のことなんか案外知らないんじゃないか。だったら、ネィティブでもない奴がたかだか数年〜数十年その土地に住んだくらいで一体なにが分かるのか?と思います。結局、いくら住もうが調べようが、すべてが明快に分かるということはありえないし、そんなもんが簡単にわかるくらいなら、数千万円の巨費を投入してマーケティングや市場調査なんかやらないでしょうし、社会科学などという学問も不要ですし、なんたらウオッチャーとかいう職業もないでしょう。基本的には社会のこと−他の連中が何考えて何やってるかなんてこと−は、そんなに簡単に分からんと思います。



オーストラリアの話に戻りますが、最初半年オーストラリアに住んで日本に一時帰国したときは、僕もオーストラリアのこと凄く分かった気でいました。だからすごいヤな奴だったと思うのですが、「オーストラリアではこうだ」と話して廻ったものでした。ところが、いよいよ永住権を取り、こちらに腰を落ち着けてからよく見て行くと、「あれ?何か思ってたのと違うな」ということが沢山出てきたわけで、当初思っていたことの半分以上は結論が逆になったりもしました。

思うに、情報が少ない方が断定はしやすいですね。オーストラリアについて一つしか情報がなくその一つが白だったら「オーストラリアは白だ」と簡単に言えます。ところが段々情報が増えてくると、「白25、緑27、黒73、赤74、、、、、、」となってきて、言うことも歯切れが悪くなっていきます。「う〜ん、そうとも言えるし、そうでないとも言えるし」と。



もしあなたがオーストラリアに遊びに来て、ガイドさんや土地の人に質問して明快な答えが返ってこなかったとしても、「住んでいながら何もしらない」などと軽侮しないでいただけると嬉しいです。冒頭の「断定君」がはびこるのも、「知らない」と言って馬鹿にされたくないという意識の裏返しじゃないか、合ってようが間違ってようが、「こうです!」と明快で歯切良く答えないとならないというプレッシャーがそうさせているんじゃないかと推察するわけです。だから、理由聞かれてもそれ以上は答えられないから、「どうしてですか」と追及をされると語気鋭く排斥する、と。なにやら都合の悪いことをインタビューされた政治家が、「わたしの言うことがそんなに信じられないのかね!」と怒り出すのと似てるような。だもんで、聞かれて「う〜ん」と考え込んだり、「わからない」と答える人は、ある意味ではそれだけ誠実に問いに答えようとしているとも言えるのかもしれません。

この基本構造は、広げていけば、あらゆる局面にあてはまるようにも思います。たとえば、法学部に入学したというだけでいきなり法律相談をもちかける親戚とか(これは結構よく聞く話ですが)。あの、ちなみに、日本の法学部学生のうち司法試験合格して専門職につくのは100人に一人くらいじゃないでしょうか。それも数年にわたって1日12時間盆暮正月返上して勉強しての話で、さらに合格しても2年研修があり、それを修了しても、さらに数年の実務経験が必要なのが実状なのに、4月に入学した人に5月に法律相談しても基本的には「ただの高校生」に変わらんのじゃないかと。

似たような話で、「海外住んでると英語ができる」という「神話」がありますが、30年住んでて全然出来ない人もいます。さっきの法律相談の話にリンクさせると、プロ級に英語が出来ると言えるくらいになるのは、大体弁護士になるくらいの労力がいるんじゃないかと思います。プロフェッショナルな水準というのは、どの業界も似たようなもんだろうし、自分の英語習得進行速度を考えると、その昔司法試験やってた頃とよく似てます。昔は六法にラインマーカーで線を引いてたのが、今回は辞書になっただけの違いで。



同時に、長いことやってりゃいいと言うもんでもないし、ネイティブの言うことが万全かというとそんなことないです。ネィティブのオーストラリア人だってオーストラリアのこと全然知らなかったりします。第二外国語として英語を習得した他国出身の先生が、ネィティブのオーストラリア人に英語を教えていることもあります。要はどれだけ正確なことを知ろうと努力したかでしょう。そういえば「日本権力構造の謎」などの著書多数の日本在住のオランダ人ジャーナリストのウォルフレンという人がいますが、あの人以上に日本の現実の社会システムに通暁してる日本人は100人に一人もいないとも思われます。少なくとも僕よりは良く知ってはるみたいです。

はたまた、毎日通勤で東京の地下鉄を利用している人が(僕も高校時代そうでした)、あの複雑極まる東京の地下鉄路線図の全てを把握しているわけではない。知ってるのはいつものルートだけで、ひとつ途中下車したらいきなり迷子になってました。シドニーでも、自分に必要な地域以外は知らなくてもほとんど問題なく暮らせます。そんなもんなんでしょう。東京タワーは知っていても、「東京タワーの所有者は?」と聞かれたら、国なのか都なのかどっかの団体なのか、僕も知りません。

「生活マニュアル」書き始めたり、本格的にAPLaCやり始めてからですね、文献漁ったり、あちこち出かけ始めたのは。相棒福島が10年物のマツダを購入するや、それを乗っ取って、約4ヵ月で7000キロばかりシドニー中を走り回りました。やってみると「ほう、こんなところがあったのか」と発見が沢山ありますし、発見を上回る速度で新たな謎も出現してきます。

「そんなに簡単にわかってたまるか」と思うことは、「分かるためにはそれ相応の努力をせんかい!」ということで、結局、自分に跳ね返ってくることでもあります。でも、やってて面白いですけど。






(96年11月15日/田村)
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