シドニー雑記帳




「失敗権」は国民の基本的人権である





※これは冗談で2年ほど前に書いた雑文です。あまりにも冗談なのでボツにしました。しかし、あれから2年経っても悲しいかな全然が内容古くならないので、改めてUPすることにします。




     日本国憲法改正案の内容

     日本国憲法第三章第一三条「幸福追求権」に以下のとおり第二項を追加する。

       第一三条第二項:すべて国民は失敗する権利を有する。


     以下は、平成○年○月議員立法として本憲法改正案を提出した超党派議員グループ「失敗権を憲法上の権利として制定する会」代表、甲山一郎の、衆議院本会議における提案理由説明(抄)である。






     『甲山一郎でございます。憲法改正案の提案理由をご説明申し上げます。

     ここにおられる議員諸君、並びに国民の皆様におかれては、我が国における既成システムの硬直化は、もはや一刻の放置も許さぬ情勢になっていることは夙にご承知おきのことと存じます。国においては大胆な機構改革のメスを入れること、民間においては大競争時代に勝ち抜くに足りる新しい活力ある市場経済体制を構築すること、これらの課題はまことに焦眉の急のものであり、事実、いわゆるバブル崩壊後においては、ほぼ連日のように語られ、国民みな知らぬ者なしというほどの共通の認識になっております。

     しかるに、あれから10年近く。一体何が変わったというのでしょうか。
     改革、改革とお題目のように唱え、連日新聞の一面や社説を飾りながらも、その変化は非常に微々たるものでしかありません。まさに百年河清を待つがごとき状況であります。変わる変わると言われながら、その都度骨抜きにされるという繰り返しに、国民は隔靴掻痒のもどかしさを感じつつ、「どうせ何も変わるわけもない」という諦念が拭い切れないほどに広がってしまってきております。これもひとえに、歴代政府が竜頭蛇尾の改革に終始し、また本国会においても国権の最高機関として果断たる処置を行わずにきたことが最も大きな原因と言えるでしょう。私もまた国会を構成する一員として深く恥じ入るものであります。

     しかしながら、民間においても、あるいは国民の皆様においても、一体どれだけ真剣に変えようとしてきたのでありましょうか。それはマスコミにおいても同じであります。いや、私は何も政治家の責任を転嫁しようとしているのではありません。どうか最後まで聞いていただきたい。

     私が申し上げたいのは次のようなことであります。例えば、歴代政府においても、全く何もしてこなかったわけではなく、1年に1度くらいはマトモな、少なくとも構想段階においては評価しうる改革案をまとめて提出したわけでありますが、これがことごとく実りをあげておらない。何故か?皆さんが反対するからであります。「あちらを立てればこちらが立たない」と申しますが、まさしく「あちら」を立てようとすると、皆さん、とりわけマスコミの皆さんが、立たなくなった「こちら」を振りかざし糾弾なさる。それではといって「こちら」を立てようとすると「あちら」は見殺しにするのかとのお叱りをいただく。では双方うまく立つようにとすると、不徹底、骨抜き、期待外れとおっしゃる。我々にどうせよと仰せなのか。八方塞がり状態に追い込んでおいて、最後に「政治家はだらしない」「何もしない」とキツイお説教をくださる。皆様はそう言っていればメシが食えるから宜しゅうございますが、いつまでもそのようなことをしている場合ではございません。

    (拍手と野次と怒号で一時中断)




     思いますに、1億2500万余人もの人口をこの狭い国土に抱え、識字率が限りなく100%に近いほどの教育水準を維持し、総中流意識が生まれるほどに貧困層もまた少なく、犯罪発生率も低いという国は、世界的に見ても極めて稀であります。このことは日本国民として大いに誇りにして良いことではありますが、逆に申しますならば、それほどまでにこの国の社会システムは成熟してしまっていることでもあります。個々人の幸不幸の凸凹が少なくなっているこのシステムは、それなりに現在も機能し、まるで巨大な精密機械のように動いているわけであります。

     なまじこれほどまでに成功してしまったことが、皮肉なことに、今日求められる大改革を阻害してしまっているのであります。なぜならば、大きなシステム改編を行うとなれば、とりあえず現状は破壊されます。新築に近い大改築を行おうとすれば、まず旧屋の取り壊しから始めねばなりません。腐りつつもそれなりにバランスを保っていた全システムが変調をおこします。

     どういうことかと申しますならば、積年の課題である大改革を文字どおり実行いたしますならば、−例えば公共投資にせよ、農業政策にせよ、行いますならば、従来のシステムの上で生計を立てておられた多くの方々が倒産の危機に瀕することとなるでしょう。その波及効果によって、関連業界も大幅な赤字に見舞われるでしょう。また、国からの資金パイプが細ることによって日本全国に血が通わなくなるでしょう。つまりは多くの方々が明日から路頭に迷うことになると。これまで批判されているようなシステムであっても、これによって資本の還流、所得の再分配が行われ、結果として国民各層に凸凹ができるのを防いでいたという側面もあったのでありますが、それもなくなるわけであります。

     誤解していただきたくないのは、私は何も大変なことになるから改革をするなと申し上げているのではないことです。大変なことになるけど、それでもやれ、と。おそらく、この国のシステムは劇的な症状を呈し、現在このTV中継をごらんになっている、あなたも、あなたも、あなたも無傷では済まない。皆さんが営々として築き上げてきた人生設計ではありますが、すみませんが、一旦それをブチ壊させてくださいと申し上げたいのであります。どうか路頭に迷っていただきたい。あなたが路頭に迷いたくないから、ここから先に進めないでいるのです。


    (再び怒号で10分間中断)





     さて、本当に問題なのはその先のことです。大規模なシステム改革を断行にともなう旧システムは機能不全によって皆さんは路頭に投げ出されます。その後国家が皆さんを助けに参るかというと、その保証はいたしかねます。先例のないシステム改革の後どうなるかなど、まさにやってみなければわからない。可能な限り成功率を高める努力をするにしても、保障などは出来ない。あとは勝手にやってくださいと申し上げるのが、無責任のようですが、最も誠実で正直な言葉でもあります。

     そうなった場合、国民各自はどうしたらよいか。自分の足で立ち、自分の頭で考え、自ら道を切開くしかありません。ひとりひとりが新しい発想と、新しいエネルギーによってシステムを構築していくほかないのであります。パッと散ったホウセンカの種のように、大気に散らばり、大地に落ち、太陽の恵みと土中の養分を貪欲に摂取しながら、新たに根を張るしかありません。国家再生であります。

     何も全員が全員成功しなくても結構です。1000人に一人が起業に成功し、成長し、999人を採用すれば帳尻は合うわけであります。誰かが成功すれば、廻りまわってその恩恵は、税金、雇用などを通じて皆に還流されるわけでありますから、それぞれが新たな可能性を求めて散らばり、必死に探求すれば良いということになるでしょう。この際、皆で同じ事をしているのが最も危険であります。

     しかしながら、物理的なシステムは度胸一つで変えることができるにしても、心理的な土壌は一朝一夕に変えることは出来ません。我々はそこを憂慮するものであり、それこそが今回の憲法改正案である「失敗権の確立」の思想的ベースになるものであります。





     すなわち、新たな時代を乗り越えるためには、ひたすら試行錯誤に次ぐ試行錯誤しかないわけであります。これまでのように「正解」は国家のみが知っており、国家が国民を導くのだという方法論は既に完全に破綻を来しております。今や、国家としてなすべきは、皆様の試行錯誤をいかに支援するかという具合にパラダイムの大転換をしなくてはなりません。

     そこには、物的な支援策として、起業環境を整えること、既成の大幅な緩和ともに、談合など新勢力を押さえ込もうという動きに対しては、刑法改正による刑事罰の大幅な強化によって対処します。土地税制の改革に加え、3年以上有効利用されていない土地については、安価な定額賃料によって10年間の確定期限の定期借地権を設定することを義務づけ、この義務を履行した地主には固定資産税と相続税を大幅に減免することにします。これによって地上げ後ペンペン草が生えている都心の一等地は、アパート並みの賃料で新規ビジネス立地として利用できることになります。これらの政策の眼目はただ一点。試行錯誤の促進であります。

     それでもなお憂慮されますことは、メンタリティの問題であります。我が国はこれまでの持続的成長によって、「成功してあたりまえ」「成功しなければ」という意識の呪縛が非常に強くございます。何か新規な試みをするくらいならば、おとなしく皆のゆく方向へ進んでおれば、まずは大過なく一生を終えることができるとの発想があります。実際、長い目でみれば、皆が目指す道を一緒に進み、そこで抜きんでた成績を取ることが、終身で計算するならば最も経済的に安定しているのかもしれません。そのため、大企業や公務員への就職など、「安定」していることが、人生設計において最も価値あるものとみなされてきました。

     その結果、人々は失敗を恐れるようになりますし、失敗は文字どおり身も蓋もない失敗として扱われておりました。志半ばにして挫折した者に対して世間の目は冷とうございます。「よく頑張った」と健闘をねぎらうよりは、「馬鹿なことをして」と冷笑されがちであります。それゆえ、我が子を案ずる親としても、進学、就職、結婚などの人生の岐路においては、なるべくならば子供が突飛な道に進まないよう、平凡でも良いから堅実な道を歩んでほしいと願い、これを強く勧める傾向がございます。親に限らず、家作を持っている家主さんたちも、貸すんだったら堅い公務員が良いなどという話もよく聞くところであります。これまでの成長時代でありますならば、これらの姿勢も、ある意味では経済実社会に即した、当然のことともいえましょう。

     しかしながら、これから未曾有の変革を、変革というよりもそれに先立つ「破壊」を行わねばならない我々の前に立ちはだかるのは、文字どおり一寸先も見えない漆黒の闇であります。闇のなかを手探りに一歩一歩進み、成功を手中に収める。どこに成功が転がっているのか全く予想もつかない以上、全員が思い思いに進んで、言葉は悪くございますが、まさしく「下手な鉄砲も数撃てば当たる」ということだと思うのであります。

     ここで大切なことは、鉄砲は数撃たねばならないことです。皆がしり込みして散発的に撃っていたのでは中々に埒は明かないのです。それこそ弾幕を張り巡らすように撃ちまくらねばなりません。誰かが成功するのを日和見的に待っていたのでは、国民一丸となって一斉射撃のように撃ちまくっている勢いのあるアメリカその他の諸外国に遅れを取りますし、既に遅れを取って「周回遅れ」などとも言われています。もう一点大切なのは、撃つ以上は乱射しなければならず、皆が同じところを撃っていたのでは意味がないということです。あいつが右に撃つなら俺は左にという、あらゆる角度、方向へのトライこそが求められているわけであります。

     このような状況に鑑みますならば、もはやこれまでのような「安定志向」というメンタリティはまことに邪魔になってまいります。「失敗しないことが成功」という減点方式ではなく、「何もしなければゼロである」「ゼロは失敗以下である」という積極的攻撃的なメンタリティに転換せねばなりません。ここに失敗権を基本的人権として掲げる、本改正の思想的根拠があるわけです。






     もとより国民に一定の思想を強制することは憲法19条思想良心の自由に反しますし、無理やり「失敗しろ」と国家が押し付けるものでもありません。また出来るものでもありません。何度も申し上げますように、「成功しなければ」ということが、人の自然な欲求を超えて、社会的呪縛にまで高まっているこの状況を打破するためのものであります。

     なお、本憲法改正に伴って、直ちに何がどう変るというものではありません。本改正をベースにして、関連諸法規の見直し、修正は今後の課題であります。我が「失敗権を国民の基本的人権として制定する会」においても、付随する政策の協議が行なわれております。

     例えば、破産法、倒産処理法の抜本的見直しであります。これも漸次改正が進んでおりますが、破産申立のための弁護士費用、ならびに裁判所に予納する管財人報酬に関する法律扶助の充実なども課題の一つでありましょう。昨今中高年の自殺がこれほどまで高まっていること、それも金銭的困窮を理由とするものが多いこと。これは何を意味するのか?これはすなわち、たかがゼニカネのためにかけがえのない命を捨てることであり、ひらたくいえば「命より金が大事」という状況が、いま我々のこの社会のあちこちに出てきているということでもあります。人の命と生活を何よりも大切な究極価値とした筈の近代国家としては、その価値序列をまっとうする国家システムが確立していないということは、まさに国家の恥とすべきものです。

     失業保険も大改正をなすべきでしょう。不正受給を恐れるがあまり、正当なる受給者を締め出してはいないか。また、昨今の再就職期間の長期化に鑑みれば、給付期間の大幅の延長、それも月単位ではなく、3年5年単位の大幅な延長が必要でしょう。また事務の簡素化円滑化のために、自己都合と会社都合で3ヶ月の受給開始期限の差を設けているのを撤廃し即日交付すること。またこれまでの支払給与額を前提にした受給額ではなく、国民賃金センサスに基づく一律給付とすることなどが挙げられます。

     所得税、健康保険料、住民税の支払いを、無収入となった時点とともに、迅速に免除するための措置。いつまでも前年度基準をもとに、1年も2年も同額の賦課をすることは、無収入と同時に直ちに生活の困窮を招くことでもあり、まさに溺れている人の足を引っ張る行為でもあります。

     これによって人々は働かなくなるという批判もあるでしょう。しかし、我々は、人を、日本人を信じます。国家からあてがい扶持を貰って日々生きてるだけの生活に、本当に心から満足するような人間はいない、と。大切なのは、人々に夢とやる気を与える社会を作ることであり、それこそが本道であるべきでしょう。

     「働きもせず遊んでる人間を税金で養うのか?」という批判に、私は答えます、「そうだ」と。そんなものは子供のような嫉妬心と感情論に過ぎない。そんな正義を装った嫉妬という低次元のモラルで、国家百年の計が決定されて良い筈はない。刮目して大局を見るべし!「ぶらぶら遊んでるのなんか詰まらない、よし俺も何かやろう」と自然に心が浮きたつような社会を、10年かかっても、50年かかっても、100年かかっても作ること、それこそが最も大事なことではないか。

     その為に多少の無駄、多少の不合理が出ても止むを得ないのです。国民の皆さんが、「よし、俺も」で次々に飛び立っていくのを見守り援助すること、刀折れ矢尽き、武運拙く破れた人々を、今度はやさしく迎えてあげるのが国家の役割ではないのか。言うならば負傷して後方に送られた戦士のような方々に、やれ書類が不備だの、不正受給ではないかと疑ってプライドを傷つけるような対応をするのが、本当に良いことなのか。そんなセコい相互監視システムがこの日本という国家の本質なのか?日本はそんなに品格の低い国なのか?私は、日本という国が、日本人という民族が、そんな卑小な人間の集まりである筈はない、こう信じております。絶対に俺達は出来るんだ!こう確信できなければ、馬鹿馬鹿しくて国会議員などやっておられません。


     もちろん国家財政もさらに厳しくなるのは承知の上であります。早晩破綻するでしょう。そうなったらなったで腹を括ろうではありませんか。また世界銀行まで出ていって金を借りてきましょう。私が行きます。土下座してでも調達してきます。しかし、幾ら財政をやりくりしても、そのお金を使って、抜本的な、それこそ誰もが奮い立つような改革をしていかねばまるで死に金です。しかし、生き金であるならば、貯金残高に一喜一憂せず、ケチケチせずに、断乎やらねばならない。それだけのことだと思います。





     今回の憲法改正案が、国会で3分の2のご支持を戴けた暁には、いよいよ戦後初めて、というよりも日本民族として初めての国民投票が行なわれます。国民投票で過半数の支持を得られなければ憲法は改正されません。

     ここで、我々は国民の皆さんひとりひとりに問い掛けたいのです。本改正の趣旨を十分ご理解いただいた上、そのうえでどうしたらいいのか?それをお決め戴きたい。あなたとその家族の人生、我々の社会、子供達の未来、どうすれば良いのか?決めるのは、あなたです。


     御静聴ありがとうございました。』





99年07月08日:田村

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