シドニー雑記帳

どこも同じ(その2)
男女平等について



承前

     「要は大体どこも同じだね」話の例です。例えば男女平等というのはどうか?と。


     日本では(殆ど死語化してますが)「戦後女と靴下は強くなった」とか言われてますが、女性が相対的に強くなったのは、日本だけでもないし、戦後からでもない。例えば「女性にも選挙権が与えられるようになった」という歴史的出来事は、日本だけのことでも、戦後に限ったことでもない。

     でも、そもそも「最初は男が投票してて後になってから女も投票するようになる」という基本パターンがまずありますよね。男女同時というのはあっても、「最初女だけが選挙やってて後になって男も認められるようになった」というパターンは殆ど、というか僕の知る限りゼロでしょう。たまたま何故か手元にある高校の政経資料集(大人になってから読むと意外と面白い)によると、一番最初に女性にも選挙権を認めたのはニュージーランド(1893年)、次にオーストラリア(1902年)、以下ドイツ(1919年)、アメリカ(1920年)、イギリス(1928年)、フランスと日本が1945年で並びます。ちなみに男女同時というは、ソ連(1936年)、インド(1949年)、中国(1953年)です。

     西欧社会の方が男女平等が進展してるといっても、だいたい今世紀になってからドタバタと制定してるだけの話で、フランスなんか日本と同じだったりします。それまでは何だかんだ言っても、女性に大きなハンデを押し付けてたのは一緒。

     ここで出てくる疑問は二つ。一つはどうして最初はどこも男性中心社会だったのか?ということ。もう一つはどうして時代が下るとそれが是正されるようになったのか(完全に平等にはなってないけど傾向としては)?です。



     思うに地球にアダムとイブしかいなかったら、別に男性中心でもなかったのでしょうが、「社会」という「人間がゴチャゴチャ群れをなしている状態」が出来てくると、どうしても男性が主役割を果たすようになる。というのは、やっぱ、人間社会というのは「協調」社会というよりは「競争」社会だと思うのですね。で、競争は原初段階においては、むき出しの「暴力」として現れるからなのではないかと。

     農耕したり牧畜したり、協調をキーノートにする社会の方が素晴らしいのは山々なのですが、人間というのはそれやってる奴ばっかりではない。ある日、向こうの山から強大な軍団が攻めてきたりする。略奪、皆殺し、生き残った者は奴隷。協調を旨に営々と積み重ねてきた社会も、身も蓋もない暴力によって一瞬にして崩壊させられちゃうわけです。このような出来事は、もう人類史上ありふれてますね。世界史なんか見てても、「栄枯盛衰」といえば美しいけど、要するに煎じ詰めれば飽きもせずに「喧嘩コンテスト」やってるだけと言えなくもない。豪族が出て、武士が出て、騎士が出て、将軍が出て、皇帝が出て、騎兵隊が出て、、、ササン朝ペルシャの時代から、三国志の時代から、最近のカンボジアのクーデターに至るまで、人間社会には必ず強大な「暴力組織」が背後にピタッとくっついている。

     で、協調主義でやってる社会は殺傷力がないから、競争主義社会を消滅させることはない。結果として何千年か経てば残ってるのは大なり小なり競争(暴力)社会だったりします。ブランキージェットシティというバンドが「悪いひとたち」という曲で「悪いひとたちがやってきて、皆を殺した。理由なんか簡単さ。そこに弱い人たちがいたから」と歌ったように、心から平和を愛する人達は、何千年も前に死に絶えてしまったのでしょう。いま生きてる僕らは全員「悪いひとたち」の末裔だったりするのでしょう。

     まあ、そこまで攻撃的になって自分らから攻めなくても、攻めてこられた場合を想定して、自衛力をつけたりもするから、結局その社会に「暴力」という要素は不可避的に入ってきてしまうわけです。ある集団が他人から侵されず成立しようと思ったら、どっかしら軍事国家化せざるを得ない面がある。アメリカなんか見てたら未だにそうだし、防衛問題なんかを論議するときにも、この発想はどうしても下敷になりますよね。また、そんな対外的問題だけでなくても、対内的な警察という暴力装置はどんな社会にもあるし、あるムラが出来ると大抵どこでも男子を中心に自警団というのが組織される。




     そうなってくると、暴力とか戦略とか、つまりは人を殺し、攻撃し、陥れるような殺伐とした分野は、女性よりも男性の方が体格的にも性質的にも向いているらしいから、どうしたって社会の重要な部分に男性が必要とされますわね。いくら炊事や園芸が上手であっても、殺されたり略奪されたら元も子もない。あるいは、必死に農業やるよりは、隣村に行って根こそぎ略奪してくるほうが「生産」という意味では簡単で合理的だったりする。結果として、その集団で重宝されるのは、「料理が上手な人」よりは「喧嘩が強い人」だったりする。

     もっとも極端なのは、戦国時代とか戦乱の時代で、その集団が生き延びるかどうかはひとえに喧嘩が強いかどうかに掛かっている。だから、一番喧嘩が強い奴をトップに据えたり、集団が有機的に戦闘態勢入れるようなシステム作りとか、出産育児も単なる「兵力補給」の一環でしかなったりとか、そういう見方になっていってしまう。いくらロマンスに殉じようとする殿様がいても、「殿!お世嗣のため、お家のためでござる。なにとぞ側室をもうけなされませ」と皆に言われちゃうという。山内一豊の妻が「戦場でお手柄をあげなされませ」と夫を激励してると言っても、言葉を代えれば「たくさん人殺ししてきてね」と言ってるだけの話だとも言えます。

     そんなこんなで社会の根本システムとして、経済的・物理的・機能的に男性優先主義になりがちだし、言ってしまえば、人類社会というのは男が主であり、男同士の争いであり、女は男の従属物というか、性欲や情愛というエンターテイメント部門と、人員補給というリクルート部門を司るだけのアプリケーションのような存在になっていってしまう。

     さらにそれを維持するために都合のいい「思想」が開発されたりもする。もともとはサバイバル技術というかメカニカルな構造だったものを「道徳」にまでに高めてというか、理屈くっつける人が出てきて、江戸時代の「女大学」「女、三界に家なし」的発想になっていってしまう。西欧にある、騎士道とかレディファーストなんて発想も、女性が従属的存在であることを前提にしたうえで、「あえてそう振る舞うことがエレガント」「男としてよりカッコいい」という一回ひねった発想に過ぎないと思います。

     というわけで、人間社会に暴力とか競争の要素がある以上、どうしたって男性社会に傾きがちなのでしょう。別の言い方すれば、人類が自然と男社会になっちゃうのは、それだけ人類が残虐でアホである証拠とも言えるのでしょう。人を殺さず、仲良くやってる奴ばっかりだったら、(洪水や山火事対策など)多少の腕力が必要とされることはあったとしても村の消防団どまりで済む筈だし、男がここまで重宝されることもなかったと思います。でも重宝されちゃってるんですよね。



     さてさて、以上述べたことを逆回転させれば、人間社会から暴力的な要素が薄まってくると話も違ってくるということになりそうです。

     実際、時代も下ってきて世の中豊かになってくると、そんなむき出しな暴力だけで世の中廻らなくなります。一回も喧嘩せずに日本は経済大国になれたりもします。そんなにムキにならんでもそこそこ生活していけるようになる。で、ゆとりが出てくると、より高次の価値や理想を意識したり実現したりしようとしてくる。衣食足りて礼節を知るですね。

     あるいは、19世紀の富国強兵だ帝国主義だ、イケイケドンドンだという軍国主義というか、要するに「暴力バブル」みたいなものだと思うのですが、それが昂じて二回も大戦争やって、国中目茶苦茶になって、さすがに世界もウンザリしたのでしょう。力だけでは世の中廻らんわということをクールに悟ったこともあるのでしょう。色々な原因があるのでしょうが、風向きが変わっていきます。

     つまり社会がますます豊かになるにつれて、競争の度合いも質も変わっていってるということでしょう。江戸時代に武士が御用済みになったように、まず暴力それ自体の価値も下がる。暴力それ自体は「犯罪」「社会の敵」というコンセンサスが出来上がっていく。どこの国でも軍人さんは昔ほど尊敬されるものでもない。また相対的に競争の価値も下がってくる。「何がなんでも立身出世」という人も相対的に減ってくる。会社一筋でバリバリやってる人は社会から喝采を浴びるというようなことも少なくなってくる。

     そこらへんの状況変化に合わせて、女性の地位や権利も変わっていったんではないかなと思います。とりあえず普通選挙を施行しましょうとか、その程度には変わっていった。もちろん理念としてそれを掲げ、頑張って活躍していた人も沢山いたわけですが、そういうことを思い付いたり、社会的に広まったりしていくのは、それなりの土壌の変化がベースにあったと思います。



     しかし、ここがややこしいところだと思うのですが、だからといって、世の中競争社会であることが変わったわけではない。競争のルールが、暴力から知力、戦略を駆使した金儲けに変わっただけの話でしょう。コンペティションが熾烈になれば、どうしたって戦争類似の状況になっていってしまう。本来「給与所得者」である筈なのに、「企業戦士」なんて戦争モードのメンタリティで語られたりするわけです。

     だから依然として、そーゆー相手を出し抜いたり、陥れたりするゲームが好きな男性が中心になってることに変わりはないです。生来的な野心家、常に人と闘ってないと落着かないという性癖の人は男性の方に多いと思います。だから男性優先というベクトルは、薄まりつつもまだ残ってる。それでも、女性からみれば、軍事国家のように肉体的攻撃力の強弱でランク付けられる社会よりは、ずっと入っていきやすくなります。



     さらにもう一つややこしい新しい変化としては、競争の質/武器が、ここにきてまた変わってきているということがあると思います。科学技術などの世の中の変化にともなって、競争する武器/技術も刻々と変わっていくということ。例えば、得意先廻りや接待という「技術」よりも、パソコンが出来るとか、デリバティブなどプロフェッショナルな特殊知識が重宝されるとか。

     実際に、それまでのビジネス社会では、学校で学んだことなんか殆ど役に立たず、必要あらば裸踊りのひとつも軽妙にこなせるような、面と向って怒鳴ったりするような、いかにタフにやっていけるかという現場能力、体力&根性勝負だったと思うのですが、だんだんとそんな泥臭い部分では勝負にならず、より高度で怜悧な技術が求められていくのかという気もします。馬力ある企業戦士の時代からトンガったテクノクラートの時代へ、みたいなものでしょうか。

     そうなってくれば、特に夜討ち朝駆けの体力営業も、腹芸もいらなくなってきて、学校でキチンと勉強しているのがそのままキャリア/即戦力になるというわけで(ほんとになるのかどうかはギモンですけど)、こうなってくると女性陣にも出番が回ってきますね。そんなこんなで、女性のキャリア指向は、オーストラリアでは男性よりも顕著だったりします(弁護士志望/法学部学生は女子の方が多い)。



     で、結局現在はどうなってるかというと、まず「競争」それ自体は残存してるでしょう。「のんびり暮らせればいいや」というマイペース派が増えてるという意味では競争の激しさは薄らいでいますが、リストラ、メガコンペティションなどの文脈では昔より熾烈になっています。一概には言いにくいのですが、「有名企業に入って粉骨砕身立身出世」というパターンは、昔ほど輝きを放たなくなってはいます。それよりは、キャリアであり、資格を身につけようとか、そういう流れになっているのではないでしょうか。多様化しつつも競争は尚もあり、且つその質も変化しているということですね。

     男女平等はどうなってるかというと、「腕力が強いから男がエライ」的なモードは極道社会などを除いてはほぼ消滅し、「ガムシャラに働くエネルギーがあるから男がエライ」的モードも相対的に薄まっていると言えると思います。そういった意味では相対的に女性の経済的立場は良くなりつつあるでしょう。まだまだ不十分ではありますが、昔に比べればマシになってると思います。



     思えばサザエさんの時代なんか簡単だったのかもしれない。あそこも典型的な「男は仕事、女は家」パターンなのですが、それがあの頃は一番合理的だったのでしょう。波平氏もマスオ氏も、当然のように残業してますが、だからといってエリートビジネスマンという感じでもなく、リストラに脅えることもなく、なんとなく呑気に働いてますが、それでも都心に一戸建を所有しているわけです。あれ、逆にサザエさんが働きに出ていたとしても、そうそう職もないだろうし、磯野家全体として見ればそんなにプラスになるものでもない。

     ほんでも今そして将来はそんなこと言ってられない。おそらく、格別なスキルがあるようには見えない、波平、マスオ両氏はリストラされてるかもしれない。それを目の当たりにしていれば、サザエさんもカツオやワカメに「高度な専門知識」を付けさせようと教育ママ化してるかもしれない。



     じゃ、この先どうなるのか?というと、ここが一番難しいです。キャリア指向、資格指向あたりが進展するのかなと言われていますが、どうかなあ?「資格ビジネス」の経験者として言うなら、技術を身につけることと、それを「換金」することとは、全然別物ですからね。資格取っただけでは全然食えないっす。それなりに泥臭い営業技術が必要。また、人間社会である以上、そして人間に喜怒哀楽の感情がつきまとう以上、「現場の修羅場」というのは無くならないだろう。例えば、「判例はこうなっています」とクールに説明しても人々は納得してくれなくて、「社長!ここはひとつ男らしくいきましょうや!」というあたりの言い方の方がはるかに説得力があるというのも事実だったりします。

     それと、資格もキャリアも、希少価値があるうちが花で、そんな皆で押しかけたら希少価値もなくなってしまう。少なくとも、全員がハッピーになれるような方法論ではないと思うのですね。教育の高度化とかいったって、全員が大学院までいけるわけじゃないでしょうし、そんなに皆で勉強ばっかりしててどうする?という気もする。

     ほんじゃどうすんの?ということになるのですが、それが分かれば苦労しません。これから先、年金も国家も会社もアテに出来ない、何ひとつ頼りになるものはないという世代としてはですね、ともあれ死ぬまで毎日なんか「芸」をやって、ほんで他人様からイクバクかの 生計の糧を戴くという基本パターンが続くだろうという基本認識がまず一つ。そのうえで、その「芸」(芸といってはなんですが、別にキャリアでも技術でも資格でも身分でも呼びたいように呼んでいただければいいのですが)は自分にとっては何なんだろ、何が市場で交換価値を持つんだろと考え続けていく、そんでとりあえず思い付いたものからやっていく、そういった感じになっていくのかなと思います。要するに、「こうすれば大丈夫」という確定パターンは「ない」ということを、ちゃんと理解することがはじめの一歩になるんじゃなかろか。考えてみれば、生きてくということはそーゆーことなんだろうし、自由というのもそーゆーことなのでしょう。




     さてさて、色々書いてきましたが、特に日本の話/オーストラリアでの話とか分けずに、ゴチャマゼにしてます。別にそれでも違和感そんなにないのですね。日本におっても、オーストラリアにいても、基本的には同じだと思ってます。同じ人間がやってんだから、そんなに大きな違いなんかないよと、話は冒頭の「どこも一緒」に戻るわけです。

     こういうのを「グローバルな視点」というのかどうかは知りませんが(多分一般に言われているのとは違うと思うけど)、早い話が「風が吹けば桶屋が儲かる」式のことを言ってるにすぎません。日本だろうがオーストラリアだろうが、風が吹けば桶屋が儲かるようなメカニズムみたいなものはある程度共通してるだろう。歴史や文化で多少のバージョンの違いはあるけど、そういう現象が起きるということは同じ。で、風というのは、それが大きなものであるほど、世界で同じ風が吹いているということ。逆に言えば、風はひとつで、それの影響を各社会がそれぞれに受けているということでしょう。そうでも無ければ、どうして揃いも揃って各国とも後から(ないし同時に)女性に選挙権認めるの?と。確率2分の1なんだから、半数は、最初に女性だけに選挙権認めて後で男性にも認めるというパターンになってても不思議じゃないでしょと思うのですが。

     どうしてそうなるの?といえば「同じ人間だから」なのでしょう。

(1997年8月25日:田村)

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