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正しい街/椎名林檎論




 タイトルでもわかるように今回は音楽系の趣味話をします。椎名林檎(敬称略)というミュージシャンについて書きます。趣味の合わない人はここでスキップしてくださいね。

 「キサラギ99/日本にて(その4)」で書いたように、今年2月の日本滞在中にはCDRでガンガンCDを焼きまくっていたのですが、一枚だけ買ったCDがあります。椎名林檎のデビューアルバム「無罪モラトリアム」です。これだけは発売ホヤホヤでレンタル屋にも出回ってないこともあって、買いました。

 今は違うでしょうが、2月に日本にいるときは、どこ歩いていても、彼女のシングル「ここでキスして」が流れていました。すごい流行ってるんだなと思ったけど、最初はこの曲そんなに好きではなかったです。名前は忘れましたが、こちらのFMなんぞを聴いてると(つまり洋楽ですが)、このテの歌い方をする女性ボーカルが結構おって、「なんだ、パクってるだけじゃん」「もろ、かぶってるじゃん」とか思ったからです。

 しかしその後、ビデオクリップを何気なく見たら、「あ、なんだ、カッコイイじゃん」と認識がガラッと変りました。じっくり聞けたというのと、あとは雰囲気。単なるスタイル真似てるだけじゃなくて、ちゃんと「自分の歌」を歌ってるという感じがしたからです。




 この人、論評するのが難しい人です。でも、ついなんか言いたくなる人でもあります。たくさんトゲトゲがあって、色んなところでひっかかります。だからこうして書いてるのですが。

 大雑把な第一印象は、音はカッコいいし面白いし楽しめるけど、今一つストレートに伝わってこない部分がある。何というか、もともと持ってる感性の部分(人柄の部分)と、才能の部分(テクニックの部分)とがあるとしたら、なまじ才能がありすぎて、それを駆使することによって人柄が隠れちゃってんじゃないかなという点でした。

 それと「売る」ということにすごく真剣に取り組んでいるなというのも強く感じました。売るためのあざといフェイクさとかギミックがある。但し、そのあざとさを、隠すのではなくわざと誇示するようにしている。そして「裏の裏は表」みたいに自分の感性の部分にくっつけてる。いろいろコーティングして屈折しまくってるのだけど、トータルとしての屈折具合を、本人がもともと持ってる屈折度に合せてるというか。これ、絶対計算してそうしてると思うのですが、だからこそ一筋縄ではいかない感じがしてひっかるんです。




 この人、デビュー時弱冠19歳だそうです。でも、この人が実際はどんな人かということは思いっきり無視します。椎名林檎と言う人が40歳でもあるいは男であっても別に関係ないです。要は出来上がった作品がカッコいいかどうかが全てですし、ミュージシャンもそれを望むでしょう。

 なんか知らんけど、「まだ十代」とか「元○○」とか「○○プロデュース」とか色んな付加価値をつけて音楽を売る傾向が日本では特に強いと思うのですが(CDにも解説がついてくるし)、そーゆーのって却ってミュージシャンに対して失礼だろうと思ったりもします。その人の生い立ちとか色んなエピソードを知って、「そう思って聴くといい曲」なんてのは本当はいい曲じゃないんじゃないか。まあ、音楽の楽しみ方なんか個人の趣味ですからどうでもいいのですけど、僕が聴くときはそこらへんの個人の実像を意図的にオミットする方です。特に一番最初に聴くときは、先入観を殺したいですし。

 ただ作品から窺われるクリエーターとしての人格はメチャクチャ興味があります。また、パブリシティとして流通している本人像も「あれも作品のうち」と思って観賞の対象にはします。でも、本人の私生活とか本当の姿なんか分かるわけないし、別に友達になるわけでもないし、その辺は考えても仕方ないだろうとキッチリ一本線を引きます。マトモな人だったら誰でも無意識的にわきまえてると思うけど、そこらへんゴッチャにしてる人とかいて、なんだかなあと思ったりするので、言うだけ野暮なんですけど一応書いておきます。

 ですので、あとで歌詞についても「この人は〜」とか書いていきますが、それは歌詞世界のおける本人であって、本人そのものではないです。だって、物凄く美しい詩を書くけど、実際の本人はえらくセコかったりとかありますもんね。作品はまぎれもなく本人を反映するけど、作品と本人は違う。早い話が今ここであなたが歌詞書いたいてみたらいいです。で、その歌詞を第三者が読んで「ふむ、こういう人なのか」と思われてもイヤでしょ。自分と正反対の世界だからこそ憧れて作品を作ることって、よくありますし。



 というわけで椎名林檎ですが、曲を聴いて浮かんでくる人間像は、難解な詩集を耽読するよな内向的な文学少女が、同時にハチャメチャで破滅的な私生活を送るという極端な二面性があるように思います。それはある意味ロックミュージシャンの王道的典型でもあるのですが、でも彼女の趣味を自由に表現してたら、どうしてもカルトに、マイナーになっていかざるを得ず、まず売れないでしょう。音的にもノイズ系が入ってたりして、決して耳触りのいい音ではないし、Jポップとしてはハードに過ぎるし。

 だからそのままインディーズの帝王になってても不思議じゃないし、普通そうなると思う。それをメジャーで通用させようとするところに、ものすごいしたたかで、でも誠実な努力を払ってると思います。それは例えば、思いっきりフリーキーで敢えて音程も無視という歌い方をしつつも、一曲に必ず耳に残るキャッチーなサビがあるところ。「一度聞いたら忘れない(それでいて新しい)メロディ」というのは、作る側にとってみたら至難の技です。嘘だと思ったら鼻歌でもいいから作ってみたらいいです。出来たと思っても無意識に誰かのパクリだったりしますから。




 それとマスコミが乗りやすいイメージ作り。「歌舞伎町の女王」という全くの虚構の世界の曲を書き、自らを渋谷系に対する「新宿系」と名乗る。このキワモノのイメージ作り。これって、Xが最初「元気がでるTV」に「恥ずかしいヘビメタ野郎」の代表みたいに見られるのを百も承知で出演して、そこを突破口に自分らの世界を打ち出して強引に売れてしまったというパターンを思い出させます。何が似てるかというと、「売るためにはカッコつけない」というナルシズムを殺す潔さ、世間を見つめる目のシビアさとクレバーさ、その代わり楽曲では少しも妥協しないという頑固さなどです。どうしたって人間だったらその逆、つまり「楽曲で妥協しつつカッコはつけるという」というパターンにいきがちだと思います。

 ちなみに人間なにか自分が本当にいいと思う世界を一心不乱に突き詰めている姿というのは、文字にすれば感動的ですが、実際のその姿というのは、感動的というより滑稽だったりします。「○○バカ」みたいなもので笑い者になりやすい。誰だって笑い者になりたくなりから、そののめり込み度を対外的に調整して、笑い者にならないよなバランスを考えます。だけど、「笑いものだろうが何だろうが少なくともそれだけ注目は集まる」という点に着目し、笑われながら注目されてる時に自分の世界をバーンと届ける。すると、笑ってるの人々の中にも理解してくれる人が出てくる。支持者が増えてくると、もう人々は笑わなくなってきます。かなり腹括らないと単に笑われて終わりというリスキーな戦略ですが、手っ取り早いといえば手っ取り早いです。精神的にそれに耐えられれば、ですが。

 椎名林檎という19歳の人の好む世界は、リアルタイムの日本からすればおっそろしくズレてると思います。「世紀末日本の十代の女の子のリアルな”今”を描写」みたいな書き方をしてる評論を読んだことありますが、僕は違うと思う。彼女の世界それ自体は、そこらへんの普通の人たちからは全然ズレまくってると思う。ただ、そういうズレた彼女がメジャーで堂々と出てくるところ、そして彼女自身がそのズレをクールに商品化しプロデュースすることが出来ているという部分−−−つまりそういった状況的なものが1999年の日本なんだと思う。

 少女のあどけなさを残す女性ボーカルが、敢えてちょっとアブないセクシャルな歌詞をひっさげて成功するというのは、山口百恵にしても中森明菜にしても王道パターンではあるのですが、椎名林檎の場合は、彼女自身がそれをプロデュースしてる点が決定的に違うと思います。それも単なるお色気戦略じゃなくて、渋谷系に対抗する「新宿系」という用語をわざわざ用意するなど、そのノリはまさに新商品発売のノリであり、それをこの人は確信犯としてやってる。さらに、それがバレることも当然の前提としてやってる。



 それを確信犯として出来るのは、「半歩先に行きつつ迎合する」というまるで電通のマーケティングのようにメチャクチャあざとい曲を書きながらも、作品それ自体をよく聞けば、この人が本来もってるズレまくった世界が何の妥協もなく展開されてるからだと思います。

 あざとさ満開の先行シングル「歌舞伎町の女王」ですが、一見スポーツ新聞のエロ記事的な印象を与えつつも、その歌詞世界はまた全然違う。「九十九里浜の祖母のもとに預けられた私は、15歳になる前に母親の住む歌舞伎町にいく」というれっきとしたストーリが語られていきます。もうこのストーリーそのものが、レトロとか古色蒼然とかいうのを通り越して、異次元世界のようです。「九十九里浜」「皺皺の祖母の手」「歓楽街」などの、コムロ系Jポップには間違っても出てこないような、大正文学のような単語がガンガン出てきます。

 そして物語は「ママは此処の女王様、生き写しのようなあたし」「15になったあたしをおいて女王は消えた/毎週金曜日に来てた男と暮すのだろう」「JR新宿駅の東口を出たら、其処はあたしの庭 大遊戯場歌舞伎町」と続きます。昭和歌謡のド演歌な感じ。

 「ほお、よくある話ね」と一瞬うなずいてしまうほど頭に入り込みやすい陳腐なプロットを踏襲してるかのようですが、よく考えたらこんな奴いねーよという。いわゆるマスコミ的な視点での「リアルな世紀末日本」とかいうなら、コギャルが携帯もって「エンジョも最近きびしいしい」とかホザいてるような状況描写になりがちと思うところ、彼女の世界は軽く50年くらいズレてます。どこがリアルタイムの日本かという。

 なんでわざわざこんな歌を作るのかといったら、やっぱりこの人は好きなんでしょうね、この雰囲気、この肌触りが。アルバム全体でいえばこの曲だけ浮いていて、100%フィクションの「作るために作った」かのような曲ですが、それでもこの人の好むフレイバーはしっかり入ってると思います。セピア色のザラザラした粒子の荒い風景写真のような、それを戦前の日本文学のフレイバーで紡ぐという世界。歌ってるのを聞く分には同じ発音なのに、わざわざ「ここ」「そこ」を「此処」「其処」と書いたり。この感触は、アルバムに収録されている他の10曲にも遺憾なく出ています。

 これ、売ろうと思ってたら、逆にこんなぶっ飛んだ曲は思い付かないと思います。最初にこういうテイストの世界が好きで曲を作って、売る段になってからそれを逆に差別化し商品として成功させようとしたという流れじゃないかと思います。




 ところで、この曲聴いてていきなりヤブニラミ的に思い付いたのですが、椎名林檎という人は「平成」を無視してる人、1999年を「平成11年」ではなく「昭和74年」と表記しようとする人だと思います。

 この人の歌詞世界、「うわ、あざといな〜」と思いつつも、どこかしら引っ掛かるものがあり、さらにスッと心に馴染んでいくものがあります。この妙な違和感と親和感って何なんだろうな〜って考えてたら、「そっか、この人”平成”を無視してるんだ」と思ったのです。

 平成になって11年になりますが、僕は未だに馴染めません。平成になってからというもの、最初はバブルでドンチャン騒ぎ、その後破裂して崩壊、さらに今日までどん詰まりの膠着状態、、という具合に、ろくなことが起きてません。平成と昭和とでどこが違うかというと、昭和はまだ足元の地面に立ってられたという感じがしますが、平成になってからというもの地面があやふやで、足がついてるんだかついてないんだか不安定な気がします。

 それは未曾有の激動期だからだとジャーナリスティックに説明する人もいるでしょうが、激動でいえば昭和の方がもっと激動です。大体戦争があったんだし、その後の高度成長でも2年間で輸出量が270% 増とか、オイルショックで原油価格がいきなり6倍とか、今の平穏に慣れて軟弱になってしまった僕らの感覚でいえば腰を抜かすような出来事がガンガン起きてます。でも昭和は激動してても、それは地面がちゃんと揺れてくれてた。しかし、平成になってからというもの、地面は見えずに頭の中だけが揺れてるような感じ。いわばすごい観念的な時代だと思う。ここ数年ずーっと漂ってるいや〜な閉塞感も、一つには観念的だからだという気がします。リアリティがないから対処のしようもない。悪夢のようなもんです。

 僕らはつい元号が変ったら時代がそっくり変ったかのような、「昭和は遠くなりにけり」的に思ってしまいがちですが、そんなのは気のせいで、時間は一定のペースで連続してます。未だに昭和天皇が存命であれば、今はまぎれもなく「昭和74年」です。これは元号だけでなく「80年代」とか「90年代」とかいう言い方にも表れています。その結果、平成になって以降、昭和時代が持っていた、泥臭くで、ザラザラしたリアリティがいつのまにかどこかに行ってしまったような気がしませんか。

 昭和だ平成だとかいうのは、言わばマスコミ的、評論家的な錯覚であって、ホントはどこにも行ってないのでしょう。確かに、人為的にある期間を区切って「○○の時代」と解説したり、「時代のキーワード」みたいな「魔法の鍵」を見つけて世の中が分かったかのような気分になりたいもんですが、そんなに簡単に分かるものではないし、そんなに簡単に変わるものでもない。でも判りたい。だから観念だけが空回りして、かくも「平成」は観念的な感じになるのかなと思います。

 で、椎名林檎という人ですけど、どういうわけかこの人だけ「平成観念病」にかかってない。昭和のままのリアリティでちゃんとモノが見えてるような気がします。それは、彼女自身が強く持ってるイマジナティブな世界がそれだけ強烈だから、「平成」というもう一つの幻想に惑わされないのかもしれません。 先程「50年くらいズレてる」と書きましたが、ズレてると思う僕らの方が錯覚してるだけなのかもしれないですね。そんなことをふと感じました。





 さて、このアルバムで一番いいと思ったのは、一曲目の「正しい街」です。どうしてこれをシングルカットにしなかったのかな?と一瞬思ったのですが、やっぱりこれシングルだったら「つかみ」がないから売れないでしょうね。つまり曲の意味とかサウンドの革新性とかじゃなくて、ボケッと聴いて「いいじゃん」と思えるようなわかりやすさが少ないということです。もっと言えば、「いい加減に聴いた人が勝手に誤解して勝手に感動するような部分」が少ない。「不注意なリスナーが誤解に基づく感動をすること」というのは大なり小なりヒット曲の要素になってると思うのですが。僕だってちらっと聴いて「いいじゃん」と思って好きになって、後でじっくり聴いて段々理解してくると、「なんだ全然違うこと言ってるわ」というのが分かり、それでまた好きになるという。そういうことってあるでしょ?これ、音楽に限らないと思いますけど。

 で、そういった一般大衆的つかみは無いけど、その代わりこの曲はサウンド的に一番カッコいいし、歌詞においてもアルバムを通じて歌われる世界の原型のようなものを示しているように思います。言わばこれがベースで後の曲はそのバリエーションのような感じ。以下この曲だけ集中的に書きます。




正しい街


あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね

不愉快な笑みを向け長い沈黙の後態度を更に悪くしたら
冷たいアスファルトに額を擦らせて期待はずれのあたしを攻めた
君が周りをなくした
あたしはそれを無視した

さよならを告げたあの日の唇が一年後
どういう気持でいまあたしにキスをしてくれたのかな


短い嘘を繋げ赤いものに替えて阻害されゆく本音を伏せた
足らない言葉よりも近い距離を好み理解できていた様に思うが
君に涙を教えた
あたしはそれも無視した

可愛い人なら捨てる程居るなんて云うくせに
どうして未だに君の横には誰一人居ないのかな


何て大それたことを夢見てしまったんだろう
あんな傲慢な類の愛を押し付けたり
都会では冬の匂いも正しくない
百地浜も君も室見川もない

もう我が儘など云えないことは分かっているから
明日の空港に最後でも来てなんてとても云えない
忠告は全て罰として現実になった
あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね



 この歌詞で見え隠れしながら語られてる「物語」ですが、とある地方都市で恋人に「傲慢な愛を押し付け」てた主人公は、恋人も捨て一人街を飛び出すが、結局昔の頃の方が「正しい」ことに気付くが、今更どうしようもなく、さらにまた空港からどこかに飛び立つのでしょう。

 この「傲慢な愛」と言われてる恋愛形態が、他の曲でもいろいろ出てきますし、それがこの人の一番言いたい世界なんだろうなと思います。じゃ「傲慢な愛」とは何なのかですが、この曲ではそこは深く言われてません(後に述べます)。だけど、若さゆえに観念的に自分の理想世界に突っ走ってしまって、現実との折り合いがつかなくてギクシャクしてしまって、なすすべもなくぶっ壊れていったんじゃないかなあというのはわかりますね。

 なんつーかな、この「どうしようもなく壊れていく」プロセスの切なさというのは、ちょっとキます。「そーゆーことってあるんだよねえ」と思ったりします。別にドンピシャ同じ経験はしたことないのですけど、若い頃(別に若くなくてもだけど)観念的に突っ走って、ツッパって、本当の「等身大の自分」と理想の「かくあるべき自分」との距離を見誤ってしまうことは、これは誰しもあると思います。

 で、そのケが濃厚にある主人公にマッチするのは、同じく理想という幻想に片足突っ込んでるような彼氏でしょう。だから恋に落ちるんだけど、その付き合いは観念的な空中戦になっちゃうんでしょう。実際、ここで出てくる彼氏というのも素直じゃないですよね。「期待はずれのあたしを攻め」るように一方的に勝手に期待して違うと怒る自己中だったり、「可愛い人なら捨てる程いる」とかうそぶきながら、でもホントは誰もいないみたいだし、お似合いといえばお似合いだったりします。

 しかし、おそらく彼の観念主義はつきあってる過程で矯正されてったんでしょう。「かくあるべし」という百メートル先に蜃気楼のように見える理想よりも、いま自分の心のなかに感じられる温もりみたいなものに正直になってきたんじゃないかな。それはギクシャクの過程で胸が切り裂かれるような切なさなどで徐々に判ってきたのでしょう。でも彼女(主人公)の方はまだディープに自分の理想世界にハマってるからそこの波長が一致しない。彼が「周りをなくし」ても「あたしはそれは無視」、彼が「涙を教え(られ)」ても「あたしはそれも無視」してしまう。

 殆ど必然的のような訪れる破局。都会に出た主人公に徐々にわかってくるのは、「都会では冬の匂いも正しくない」という、理念よりももっともっと根源的で生理的で動物的で素朴な感覚のズレ。でも、それが分かってももう今更どうしようもない。イキオイがついたまま更に突っ走って海外にでもいくのでしょう。本当は今でも好きな、そして確かに愛してくれているだろう彼に、せめて最後だけでも空港で会いたい。だけど、どの面さげてそんなこと言えるかという。そのせめぎあい。この曲のリアルタイムは日本の最後の夜。明日になれば大きな崖から飛び降り、さらに取り返しのつかない遠くにいってしまうという夜。ある意味では死刑執行前夜のような崖っぷちでの反芻と煩悶。(これ、「空港」というのが国内線かもしれないけど、文脈上それは無いでしょう)。

 切ないですよね。一言でいってしまえば、頭でっかちカップルの不器用な破局なんだけど、「もっと素直になんなよ」って言いたくなるけど、そこで素直になれないこと、わかってるんだけどどうしようもなく切ないまま進まざるを得ないこと、これは程度の差こそあれ、誰だってそんな所があると思う。自分が分裂して、一番大事なものを見殺しにしていく切なさ。家族が大事と心底思いながらも、残業残業の日々を余儀なくされていくとか。「ごめんなさい」の一言が言えなくて、自分でも不本意な方向に突き進んでしまうとか。

 「暴走する自分にひきずられていく自分」、そこらへんがモチーフだと思いますが、でも、そんなのは、観念的に目茶苦茶に突っ走る、そのメチャクチャな破滅性のなかにキラリと光る純粋さがあって、それに魅せられた人でないと、更にそれを自覚してる人でないと判らんのじゃないのか。誰もが分かるという世界ではないような気がする。書いてる僕だって今ひとつ判らんです。だから、この人、この本当のこの好きな世界をそのまま好きに描いていただけだったらメジャーで成功するとは思えないんですね。だから、そのギクシャクの過程でエキセントリックさだけを取り出して、商業的価値に結び付けたんだろうなあと思います。




 ところで、破滅の純粋性という魅惑的なコンセプトは、平家物語から太宰治から連綿と続いていると思うのですけど、このアルバムには理想の男性像として「シド・ビシャス」という固有名詞でよく出てきます。

 知ってる人は知っている、パンクロックの大元祖セックスピストルズのメンバーであり、後にドラッグ中毒になり恋人のナンシーと目茶苦茶すぎる生活を送る。どのくらいメチャクチャかといえば、母国イギリスで皆に見放されナンシーの母国アメリカに渡ったかと思ったら、その2ヶ月後ナンシーは刺殺されてしまう。犯人としてシドは逮捕。しかしドラッグ中毒のためによく覚えていない。保釈後間もなくシドは自殺未遂をおこし、今度は精神病院に収容される。数ヶ月後退院したと思ったら、いきなり麻薬のやりすぎで自宅で死亡。有名な「シド&ナンシー」カップルですけど、メチャクチャ過ぎて真相は誰も分からないという。

 ロックミュージシャンで夭逝した人、破滅していった人は沢山います。ジミヘンにせよ、シドバレットにせよ、最近ではカートコバーンにせよ、日本では尾崎豊にせよ。ただ、彼らが天才的な創作活動の狭間で破滅していき、それがゆえに伝説になったのに比べ、シドビシャスってろくすっぽ音楽活動もせず、ただもう一直線に破滅していってます。「どーしよーもない奴のどーしよーもない末路」という感じですが、見方を変えればそれだけに純粋な破滅です。そんな奴が「理想の恋人」というあたりに、この人の屈折度がよく出てるのでしょうか。

 このアルバムにも「シドと白日夢」というモロなタイトルの曲が入ってます。また、「現代のシド・ビシャスに手錠をかけられるのはあたしだけ」というフレーズも「ここでキスして」という曲に入ってます。しかし、シド・ビシャスっつっても、いまの日本のカラオケ大衆リスナーに分かるのかね?という気がしますが、これ「分かんなくてもいい」と思ってるんでしょうね。

 彼女のいう「傲慢な愛」というのはコレなんでしょう。自分の破滅的理想世界を追い求めるあまり、現実とイメージの区別が曖昧になり、自分の世界を強引に相手に押し付ける。相手を自分の破滅ヒーローにまつりあげ、その相手に自分が帰順するという夢。相手もそれに応じようとするけど、結局無理なものは無理でいずれは壊れてしまう。そりゃ「シド・ビシャスになれ」と言われたら、普通ぶっ壊れますわ。「壊れろ」と言ってるのと殆ど同じだもん。でも、ほんと、この人の歌詞はこのパターンが多い。

 そこらへんを「シドと白日夢」では、結構丁寧に説明してくれてたりします。昔は現実と理想の区別がついてたけど「此処の所描く夢のあたしはあたしだから、欲望も何も区別がつかなくなっていた。現実でも殆ど不確かだ」となってきて、「あなたの髪を切らなきゃ」「あなたはあたしでなくちゃ」という強引な自分の夢世界への引きずり込みが行なわれ、そうなってから「あなたには殺されてもいいわ」と崇拝し満足するという。

 かなわんなあこんな女と思うのですが、相手の男も大変ですよね。だもんだから、「夏に見たのは実在しない人だった/寒くなる迄知らないで愛してしまった/今ごろになってから「全部演じてた」なんて /受話器越しに泣かれたってこっちが泣きそう」(警告)という顛末にもなろうというもの。

 だから、繰り返しになりますけど、この人の心象世界をそのままストレートに音楽にして売っても、そりゃ売れないだろうと思われるわけです。いくら日本のリスナーもストライクゾーンが広がってきたといっても、シド&ナンシー伝説に思いっきり共感できる人は少ないと思います。僕だって共感できんもん。だから、もう一つの特性であるレトロ文学趣味による虚構の世界を描いて、さらにそれをスポーツ新聞的に売るという方法論が出てくるのだと思います。


 書いてるうちに終わらなくなってしまいました。


 ここから先、さらにマニアックになっていきますので、興味のある人だけ先にお進みください。




1999年 05月11日:田村

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