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Racism/人種差別



オーストラリアに来ると、あるいは「海外に行くと」と言い換えてもいいでしょうが、日本国内での「気づかい」「気配り」から解放されます。お正月を海外で暮らす人が多いのも、高度なテクニックを要求される日本的付き合いからエスケープできるというのも理由の一つだと聞きます。

ただし、海外に行ったら行ったで、また別種の「気づかい」が要求されます。そのなかには「治安」とか「自己防衛」とか色々なものがあるのでしょうが、一番大きなものは「人種差別(への配慮)」だと思います。日本にいるときは、差別しようにも(されようにも)それほど沢山異人種がいないので、あんまりピンときませんが、実は巨大でややこしい問題だったりします。僕も「ああ、そうか、ここで気をつけなきゃいけないのか」と地雷の埋まってる原野を歩いているような心境になったりもしました。


「自分と違う人達」に対して、何となく身構えてしまうのは、人間の本性であり、もっと言えば動物の本能のようなものだと思います。「自分と違う」→「今までの経験則が通じない」→「何をするのか予測できない」→「不安・警戒心」ということで、「情報が足りないもの」については、油断ないように身構えるのはある種自然な行動だと言えます。簡単に言えば、「わからないものは恐い」のでしょう。だから「女は恐い」とか、「パソコンが恐怖」とか、「法律は苦手」ということになるのでしょう。


異人種もその意味では恐怖の対象になりえます。「日本人だったら何となく通じる」だろうと思っている対人関係の安全ネットがないのですから、「突如怒り出すのではないか」「いきなり変なことおっぱじめるんじゃないか」とか、つい思いを巡らせ、身構えてしまいます。極端な話、「こいつら違うんだから、何してもいいんだ」という気分が盛り上がったりして、ガンガン奴隷売買やら、虐殺をやってしまったりします。



同じ人間をして、「こっち」と「あっち」に分けてしまうことは、後々大きな悲劇を生みます。運動会でも歌合戦でも、赤組白組に「分ける」ことによって盛り上がりますが、なんで盛り上がるかというと、競争心が芽生えたり、敵愾心が湧いてくるからでしょう。人々の間にポンと一本線をひくだけで、独特の「場」が生まれます。その場の中では、「協調」よりも「競争」がクローズアップされ、個人の思惑を超えてなにやら戦闘的なムードになっていきます。その線が太いほど、断絶は深くなり、行き着く先が戦争になるのでしょう。個人的には何の恨みもある筈もない、全くの初対面同志の人間が、ためらいなく殺し合えるほどに「競争・敵対意識増幅機能」は作動してしまうということでしょうか。

戦争ほどひどくなくても、ささやかな例は身近にいくらでもあります。会社の中の学閥、派閥、合併後の旧○○系、親戚のなかの本家筋と分家筋、キリがないでしょう。このように元々は同質の人間同志であっても線がひかれて、何かの「線」を認識しはじめると、敵対心が醸成されてしまう。ましてや、物理的生物的身体的にハッキリと違いが見える場合、あるいは習慣シキタリに差がある場合、ますますその「線」はクッキリと認識されるようになっていきます。

で、どうなるかというと、差別が始まってしまう。また、差別される側も、何か気に食わないことをされると「これってもしかして差別?」と疑心暗鬼にもなります。最初は些細なことですが、積み重なると恨みになり、さらに恨みは化石燃料のようになり数百年数千年と燃え続ける、非常にややこしいガン細胞のようなものになります。10年1日のように内戦に明け暮れてる国は沢山あります。イスラエル(というか聖地エルサレム)を巡るゴタゴタは、数え方にもよりますが、もう2000年くらい続いているのではないでしょうか。





機嫌良く暮らしていくためには、「線」をひいてはいけないのでしょう。

姿形慣習が明瞭に違っていても、クッキリと「線」があるように見えていても、「線がある」とは口が裂けても言ってはいけない。そんなものないように振る舞うこと。あるいは線を認めつつも「本質的には関係ないさ」という姿勢を取り続けること。これはかなりの修練と努力を必要とすると思います。しかし、そうしてやっていかないと、「線がある」と叫んだところで線は消えてなくなるものではないし、逆に強迫観念のように益々クッキリ見えてきて、最後には大いなるロスと悲劇が待っているという。

例えば、ある白人男性が黒人女性を傷つけた。女性の恋人の黒人男性は報復を誓い、いつの日か白人女性をレイプするかもしれない。彼の中では、その行為は「報復」ということで帳尻が合っているかもしれないけど、やられた白人女性はたまったものではない。でも、ここでなんで彼は「帳尻が合う」と思うかというと、それは彼の頭のなかには、「線」を境に「あっち(白人)」と「こっち(黒人)」が分かれており、まるでドッジボールのように「あっち側の連中」に返球すればいいという発想があるからでしょう。そうなると「あっちの連中だったら誰でもいい」という話になり、個人的なキャッチボールがいきなり全員参加のドッジボールになっちゃう。この「2人のケンカ→数千万人のケンカ」という、核爆発的な戦線拡大で、「万人が万人に対してテロリストになる」かのような、およそ解決の目処が立たない泥沼状態になっていくのでしょう。それもこれも線をひいて「あっち側」と一括りにするからだと思います。


人種・民族・宗教その他もろもろの「線」。くだらない血みどろの争いを死ぬほど繰り返してきて、辿り着いた結論は「線なんか認めたら最後、ロクなことになりゃしない」という世間智なのだと思います。石にかじりついても「平等」というラインから撤退してはならず、意地でもこれは守れ、そうでないと社会が目茶苦茶になるぞという「人間社会のオキテ」なのでしょう。これは「きれいごと」でも何でもなく、「幾ら急いでいても赤信号は守れ」というほどに、日常的でプラクティカルなルールなのだと思います。



でも、これが、なかなかピンとこなくて、ドジをこきます。

海外にいたら、特に「差別」するほどの権力も持ち得ないのですが、そんなにド典型的な話ではなく、「ゆくゆくは差別につながる道」に入り込んでしまい、周囲の非難の視線を浴びるということは、よくあると思います。

何を言ってるかというと、「差別」の子供は「偏見」であり、偏見の子供は「無知」です。無知が長じて偏見になり、やがて立派な差別になる。他民族に対して安易なイメージだけで語ったりして無知さをさらけ出していると、ただちに「差別主義者」とは言われないまでも、「差別するようなタイプの人」という目で見られがちです。また、「言い方」ひとつというのも大事なことで、発展途上国の人に対して、その国が「経済的に貧しい」かのように表現するのはアウトで、「将来にかけて成長する」という言い方にするとか(だから「後進国」が「発展途上国」と呼び名が変わったのでしょう)。

このあたりは、すごい気をつかいます。また、落ち着いて周囲が見えるようになると、皆もすごい気を遣っているのがわかるようになりました。「自分の国を1ホメたら、相手の国を2ホメる」とか。これが無知で相手の国の首都も知らないとなると、結構辛い。そういうときは、それはそれで又テクニックがあって、「あなたの国で一番美しい物はなんですか?」と聞くとか。まあ、でも、テクニックとか技術的なことよりも、どんな場合でも相手を一個の人間として尊敬すること、無理に尊敬しなくてもいいけど、「正しく理解しようとする誠意」ということでしょうか。少なくとも一面的なことでネガティブなレッテルを貼るようなことだけは避ける、と。あなただって、初対面の外国人にいきなり「日本人は鯨を食べる野蛮人ね」と言われたら、そいつと友達になろうとは思わないでしょ?僕でも、「うるせー、何とでも言え」という気になります。これが、「私には残酷なことのように思えますが、でも日本人はそれだけ鯨の美味しい食べかたを知っているのですね」と言われたら、もうちょっとこの人と話してみようか、もしかしたら分かりあえるんじゃないかという気になりませんか。そういうことだと思います。


ともあれ、神経使います。「国際人」って何のことか、未だにピンときませんが、上記のようなことをも示すのならば、それは要するに単なる「分別のある社会人」ということなのだと思います。

ところで、オーストラリアでは、ホワイト・オーストラリアン(白豪主義)を捨て、マルチカルチャリズムに180度方針転換してここまでやってきました。無論、一晩で国民全員の性格が変わるわけもなく、ここにくるまでは相当の努力を払ってきたのでしょう。その成果で、マルチカルチャリズムはオーストラリア社会に根を下ろし、その恩恵のもと、社会に受け入れられてきた世界中の移民達が、また新たな支持者となってその理念を受け継いでいく。その子供たちは、もう理念というより当たり前の環境として違和感なく咀嚼していく。そんなこんなで、これだけ多種多様な人々がこれだけ平和でのんびり暮らしてる社会は、世界でも他に類は見ないと言われています。その意味では、22世紀頃に成立するかもしれない世界連邦/世界市民への最先端をいっているとも言えます。

しかし、物事そんなにトントン拍子に進むはずもなく、また、全ての人がそこまで高い理想を実践できる筈もない。経済的に豊かなときには、鷹揚に構えて「苦しゅうない」とか言っていても、いよいよアメリカ流資本主義の流れでリストラが猛威を振るい、失業者が増えてくると、そうも言ってられない。こんなに生活が苦しいのも「あいつら」のせいだ、という恨みを持つ人も出てきます。理念理想のために頑張れと言っていた前政権が、Enough is enough!(もう沢山だ!)という有権者の反発を食らって敗北した今年3月以降、これまで腫れ物に触るように避けていた人種関係の議論が、Freedom of speech(表現の自由)の名のもとに、「解禁」のように出てきています。



その典型的な出来事が、日本でもNHKのニュース9で報道されたとおり(「日本で報道された」ことがニュースになって、こっちのニュースでやっていた)、ポーリンハンソン議員のメイデン・スピーチ(議員になって最初の処女演説)で、これまでオーストラリアでは「言っちゃイケナイこと」とされていたことを、バーン!と言ってしまったため、その後2〜3ヵ月、オーストラリアでは上へ下への大騒ぎになっています。

彼女のもともとの主張は多岐にわたり(「徴兵制復活」なんてことも言ってる)、その後の議論も必ずしも土俵がうまくかみ合ってないものも多いのですが、個人的に注目したいのは、今回のドタバタで、オーストラリア社会がまるでバリウムを飲んだみたいに分かりやすくなったなあということです。


マルチカルチャリズム社会と言われながらも、僕には全員が全員そんなに物分かりが言い筈ないんじゃないかという疑問がありました。本当は内心「けっ」と思ってる人も結構いるんじゃないかと思ってたのですが、それがこれまでよく見えなかった。それが見えるようになってきて、良かったと思ってます。見えてくれば対処のしようもあるだろうし、少なからぬ人々がそれでも本気でマルチカルチャリズムを支持しているという事実は貴重なことです。アンケート調査でハンソン支持が65%とか出てても、マルチカルチャリズムそれ自体については過半数が維持を言ってたりもします。アジア系移民を制限せよという主張についても65%賛成であっても(この数字もアテにならないが)、よくまあ65%で止まっているもんだと思ったりもします。

アジア系の顔をしてると路上で面罵されたり、殴られたりという事件も起きてますが(直接見掛けたことはないですが)、反面新聞の投書欄を読んでますと、今まで巧くやってきたことに誇りを持ってるオーストラリア人は多く、「俺達の顔に泥を塗った」とやるせない気持ちになっている人々が多数いるのもわかります。そりゃあ悔しいだろうな。また、どこかの市長が、異人種間の混血児のことを「雑種」呼ばわりしたことで、猛然たる反発が湧き起こり、「中国人とインド人の血が混じっている私の可愛い孫を侮辱するのか」とかなり真剣に怒ってる人もいます。うまく伝えられませんが、数百の投書を全部訳してここに上げたら、賛否渦巻く状況が少しはわかるのではないかとも思います。

数年来の畏友ピーター氏は、6代つづいた生っ粋のブリテッィシュ系オーストラリア人ですが、この1月に中国系の彼女と結婚します。この間、彼とメシ食ったとき、彼はこの話に言及して、"Silly debate!!"(愚劣な論争)と、温厚な彼にしては珍しく怒気を含んだ声で吐き捨てるように言いました。自分の国がこんな低次元な論争してることが悲しいのでしょう。



この問題は、こんな一片の駄文で語り尽くせるような単純な話ではありません。ハンソン議員の顛末だけでも、真面目に説明してたらかなりのページを費やさねばならないし。世論調査の読み方も結構難しそうだし。大体、大勢が反移民にシフトしてるなら、最近の選挙でのAAFI(”これ以上の移民に反対するオーストラリア人の会/Australian against further immigration”というマイナー政党)の得票率の低迷ぶりは何なのか?とか(最新の11/30の補欠選挙のときもパッとしなかったようです)。保守本流の筈のブリティッシュ系富裕白人層の方がむしろ移民歓迎の傾向にあり、単に人種の問題ではなく、国内経済的格差の問題が形を変えてるだけではないかとか。それこそ「そんなに簡単には分からん」問題のようです。だから興味深いのですが。

ここでは、この人種の問題は、常にこちらでの生活、あるいは人間関係の底流を流れている問題だということだけ言っておきたいと思います。と言っても、そんなに日々の生活で深刻な問題でもないですし(職場や立場環境によるでしょうが)、自分個人の生活だけに関して言えば、これによって受けた影響は限りなくゼロです。「そういうネタも話題に加わった」という程度でしょうか。だから「底流」なんですけど。


96年11月29日(田村)

2010年03月追記
サイト内参考リンクと解説

Pauline Hansonについて
 ポーリンハンソンが登場してドタバタやっていた頃(97年頃)の状況を書いてます。「そんなこともあったよね〜」と今となっては懐かしい。

ESSAY119/Lakemba & 新聞記事から(ハンソン収監、アン・コールター、ブータン)
 いっときのポーリンハンソンブームにすぐに終焉を迎えました。末路は哀れなもので、ついに2003年には刑務所に収監されてしまいました。ブームに沸いたのは最初の選挙だけで、あとはその場限りの勢いだけの政党で、ろくすっぽ政策もないし、言ってることもいい加減なデタラメであることが徐々に知れ渡ってきたこと、より単純には国民が「飽きた」のでしょう。次の選挙ではあえなく落選。その際、選挙法違反(政党公認の条件とされる党員人数の捏造によって政党助成金など公費支給を受けた)によって有罪判決が出て、執行猶予もつかず、いきなり刑期3年の実刑判決になりました。

ESSAY 237/新聞記事の順番とクロヌラ暴動
 2005年の暮れ、シドニーの南の静かなビーチであるクロヌラで、レバノン系など中東系の若者と、ヨーロピアン系オージーとの間で暴動まがいの乱闘騒ぎが起きました。ぱっと見た目には、日本の湘南で年中行事のように繰り広げられているサーファーVS暴走族みたいな感じですが(ビーチの縄張り争い)、人種的なものが入ってきて、さらに遠因はなにかというと、世界テロやらイラク戦争の影響も入ってきてるし、さらには僕らアジア人にはピンとこない歴史的な欧州VS中東の因縁=キリスト教VSイスラム教という聖地エルサレムの争奪戦やら十字軍やら、、、ってあたりも大きな構図、彼らの心象風景には入ってきてるのかもしれません。それはまた、ちょっと前のフランス暴動なんかと似たような構図があったりします。そのあたりの考察を少し。

ESSAY115/雅量〜tolerance
 オーストラリアの他者に対する寛容性(tolerance)の高さについての考察

ESSAY 174/a them and us mentality /「あいつら」症候群
 オーストラリアの投書に書かれていた”a them and us mentality”=「あいつら」症候群とでも命名したいのですが、「あいつらは金持ち連中で、俺らは普通の庶民さ」とばかりに、ある社会の人々をグルーピングして、「あいつら」と一括りにして物事を論じたり、判断したりしがちな心理傾向のこと。「あいつら金持ちの癖に税金たくさん貰いやがってズルイじゃないか」「補助を減らしてもあいつらは金持ちだからいいのさ」ということで、彼らvs我々という敵対的で不毛な二元構造を生み出してしまう。このように、やたら社会を二つに分けるような物の言い方や考え方は正しくないよ、それは無用な敵愾心をあおるだけであり、そこで思考停止になり、「皆がより良くなるための方法を皆で一緒に考えよう」という建設的な態度をスポイルするものだという話です。メインには日本における文筆評論活動にこの傾向が強いことを書いてます。


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