シドニー雑記帳


ピアノ




    今日はオーストラリアとは全然関係ないお話しです。

     「その昔、親に無理やりピアノを習わされて、イヤーな挫折感を味わった人、手を挙げて!」と言ったら、何割くらいの人が挙手するでしょう? 今、挙手した方、ピアノの練習はつまんない、そう思っていませんでしたか?

    いきなり私事で恐縮ですが、私はその昔、あまりにシャイだったので、親が心配してヤマハ音楽教室に入れたのがキッカケで音楽が好きになり、小学校1年の時からピアノを習っていました。練習は楽しくはなかったけど、なんだかんだで13年間続けました。今から思い起こせば、「一日一時間という練習時間をいかに潰すか」と難題にいつも知恵を絞っていたような気がします。夏は汗がベタベタで弾けないとか、冬は手がかじかんで弾けないとか、理由をつけてはサボってました。それでも13年間続けられたのは、ひとえに「先生に○をもらいたかったから」でした。幸い、私が育った田舎では、私はうまい方で通っていたので、他の子と比べて進度が早いということだけがやり甲斐でした。本当にアホだったと思います。

    高校に入学した時、「やっぱり音大に行きたいな」とふと思い、10年間教わった先生に音大の先生を紹介してもらいました。音大を目指すにはスタートが遅すぎるとは分かってはいましたが、なんとなく挑戦してみたくなったんです。

    ところが音大の先生の最初のレッスンで「あなたの指は全然なってない。ドレミファソレシドだけ毎日練習しなさい」と言われまして、爆発しました。「ほんなつまんないもん、やってられっか」と思い、さっさと音大をあきらめました。そうはいっても結論を出すまでにはずいぶん悩んだり、メソメソしたりしたのを覚えてます。挫折感だけがいつまでも後遺症のように残りました。

    それからも趣味としてピアノは続けていましたが、挫折感と連れ立って練習するのはツライもので、大学に入って実家を離れてからはピアノとも離れてしまいました。




    そんな私ですが、今、ハマってます、ピアノ。別に音大目指してるとか資格取得を目指してるわけではないけど、毎日とっても楽しく弾いてます。時間を潰すことばかり考えていたあの頃とは違って、今じゃ「あっ」という間に時間が過ぎてしまいます。仕事さえなきゃ、いつまででも弾いていたいくらい。

    この楽しさは、APLaCの柏木先生に教えてもらいました。彼女は子供時代に母親から「自分の夢を子供に託す」というパターンで強制的にスパルタ式のピアノ教育を叩き込まれ、中学時代に遂に親と喧嘩してやめ、また大学時代に自分でやりたくなって再出発したというピアノ経歴のある人です。もちろんテクニック的にも超ウマイのだが、テクニック以上にピアノを楽しむことを知ってはるわけです。

    彼女に教えてもらったのは、ピアノの本質的な楽しさです。テクニックがどうのとかいう以前の、表現する楽しさ。たとえば・・

    • 音楽は宇宙のかなたからやってくる。最初の音を出す前に、その曲をイメージしてみよう。
    • どの曲にも創作者の想いがある。どんな想いを表現したかったのか、考えてみよう。
    • ピアノの練習は1日1時間程度で十分。その代り、空いてる時間に頭の中で音楽をイメージしてみよう。そのイメージが自分の中でしっくり来た時、うまく弾けるようになるよ。
    • ひとつひとつの音を丁寧に聴いてみよう。出来るだけゆっくり練習すると、ひとつひとつの音にまで神経が行き届くようになるよ。

    そう言われて「そうかぁ。。」と思いつつ、やってみると、確かに違う。今までとはピアノの楽しさが違う。音が生き生きしてくるし、自分の中で音楽と対話しているような躍動感が感じられて、とても新鮮です。

    また、彼女から教わったテクニックの習得方法としては、

    • 出来ない部分は「これ以上ゆっくり弾けない!」ってほどゆっくり練習する。特に早いパッセージはすべての音がムラなく粒が揃って聞えるようになるまで練習する。
    • 身体全体の力を抜いて、リラックスした状態で弾く。どこかに余計な力が入っていると、うまくいかない。
    • 「手の形は卵をつかむように、指はたてて」というが、あれは一つの弾き方にすぎない。指を寝かせて弾くことによって、やわらかい音を作ることもできるし、いろいろな弾き方があっていいはず。
    • 練習曲を律義に練習するより、好きな曲を感情をこめて練習する方が早くうまくなる。
    • 1小節の中にも微妙なリズムのズレがある。メトロノームのようにキチンキチンと弾くだけでは味もそっけもない曲になってしまうが、この微妙なずれを演出することで、音楽に躍動感が出てくる。

    といったようなことで、私にとってはひとつひとつが目からウロコが落ちる思いでした。

    私がピアノを習った頃の常識では、指を寝かせて弾くなんてトンデモナイことでしたし、楽しい曲よりハノンやツェルニーなどの練習曲に力を入れて練習するように!というのが掟でした。また、イメージ云々などということより、とにかく軍隊のように繰り返し練習することでしか上達は望めないという考え方がありました。当時の「好きな曲」といえば歌謡曲とかポップス、フォークだったのに、「そーゆーのを弾くと、崩れるから」と禁止されていました。

    あの頃の常識とは全く逆のことばかり。でも、確かにその方が効率的にうまくなるし、やってて楽しい。

    日本のクラッシック音楽の世界では、権威主義的な人々が上の方で仕切っているのか、理不尽な常識が出回っていて、それによって数々の才能を潰しているような気がします。音楽の表現はもっと自由であるべきなのに、なぜそう「○○でなければならない」的な掟が出回るのか。たぶん、日本のクラシックを西洋から最初に取り入れた人々が日本国内で築いた地位を守るために作った形骸化した掟ばかりなんじゃないかと。実際、柏木さんにこのようなことを教えてくれた先生たちは、比較的最近ジュリアード音楽院などに留学して帰国したばかりの先生だったそうです。

    おかげで10年間のブランクもこの数ヶ月でだいぶ戻ってきました。今、弾いているのは、小学校、中学の頃に弾いたモーツァルトやベートーベン、ショパンやシューマンのソナタですが、昔よりもずっと豊かに表現できるようになったと思います。当時はただただ○が欲しくて練習していたから、一旦○もらえば二度と譜面を見ることもなかったけど、今では毎日でも同じ曲を弾きたくなります。

    しかし、未だかつて完璧に弾けた!と思ったことはなく、いつもどこかが不満。でもその不満な部分をどのように変えたらいいのかを考えるのが楽しく、またそれを思い付いた時がまた喜びでもあります。

    そういえば、小学生1年生の時に、こんな詩を書いたのを覚えています。

      ピアノは不思議だ。
      私がイヤイヤ弾くと、変な音が出る。
      私が楽しく弾くと、いい音が出る。
      私の気持ちを分かっているみたい。
      まるで生き物のようだ。

    この頃には、子供の感性でピアノの醍醐味を察知していたのでしょう。ずっと忘れていたこの感覚を今になって取り戻しています。ピアノを弾いていると、自分とピアノとの対話が次第に深まっていき、自分も知らなかったような自分に出会える瞬間があります。

    ついでに最近、フルートも練習しています。中学から高校にかけて頑張っていたフルートですが、こちらもだいぶ御無沙汰。ピアノとは違い、肺活量がだいぶ減ってしまってるので、吹いてて文字どおり「苦しい」ので、昔のように長時間は練習できませんが、自分の音を探すのがイイですね。

    こんな貴重な経験が出来たのは、柏木先生のおかげであり、またシドニーに暮らしているからこそでもあると思っています。東京に暮らしていたら、物理的な要因だけではなく、ここまでの精神的な余裕は持てなかったかもしれない、と。シドニーに暮らしていること、そしてピアノを弾くことによって、自分の中のなにかをリハビリしているような感覚があります。何をリハビリしてるのかは、いまだ見えないのですが。

    なんか、ピアノでもフルートでもそうなのですが、出てくる音ひとつをとっても、全体の音楽をとっても、「自分らしさ」がにじみ出てきませんか? 愛しくもあり、またみっともなくて恥ずかしくもある、不完全ながらもかわいい自分、みたいな。楽器を弾いていると、音を育てている=自分を育てているような感じがします。

    こんな喜びをなぜもっと昔から体得しなかったのだろう?勿体ないことをした、という思いと、なんだかんだ言っても今楽しめる素養を身につけておいてよかった、という気持ちとがうごめいています。少なくとも安くはない月謝を払い続けてくれた親には感謝です。

    ボケ予防には指先を動かすこと、と言いますが、老後の趣味はコレに決まり!と、今からピアノを一日じゅう好きなだけ弾ける、楽しい老後生活を想像して、ニヤけています。ピアノってよく子供の情操教育にいい、なんて言いますけど、子供にとってピアノが情操を表現するものだということは理解しがたいかもしれませんよ。音楽は大人になってからやった方がずっと豊かに表現できるもんです。まあ、ピアノに限って言えば、ある程度楽しめるようになるまでの道のりが異様に長いから、あの退屈なバイエルなんぞを大人がやろうとしても無理なので、素直な子供の時分に叩き込んじゃった方が楽というメリットはあるかもしれないが。

    ところで、ピアノ弾きからすると、電気ピアノ類(シンセ、キーボード、エレクトーン等)は弾いても全然楽しくないのですが、これはどういうことなんでしょうね? 電気楽器にはそれはそれで楽しみ方があるようですが、私には理解できない。エレクトーンもその昔、先生になれるレベルくらいまではやったのですが、弾いてて楽しくなかった。音が機械的で生の躍動感が掴めないというか、人間と同様に天気や気候やこっちの機嫌を反映する生ピアノの方がコミュニケーションのしがいがあるというか。なんか知らないけどピアノには、長いこと付き合ってると、こっちの影響で性格形成までされていくかのような、動物相手にしているような楽しさがありますね。これを言うと、エレキギター派の田村と激論になってしまうのですが(^^*)。

    ちなみにオーストラリアでは日本のようにピアノを習うことはコモンではないので、「エリーゼのために」の一節でも弾いたりしたら、けっこうそれだけで拍手喝采モノです。ピアノは「特別な人がやるもの」と思われているみたいですね。確かに新品のピアノは高いから、庶民にとっては高嶺の花なのはわかるのだが、中古品なら3万円くらいから入手できるんで、そんなに高級品ではないのだが。(ウチのボロピアノは70歳だが7万円で購入、柏木さんちの中古ピアノは1ヵ月85ドルでレンタルしている。)

    留学であれ、移住であれ、これからオーストラリアに来ようと思ってる方は、昔弾いた曲の一節でも練習して覚えてくるといいかもしれません。友だちつくりのキッカケにはなるんじゃないかな。

    (1997年9月7日:福島)

★→シドニー雑記帳のトップに戻る
★→APLaCのトップに戻る