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不器用な男達

なぜ日本男子は海外で苦労するのか



 日本人が海外に暮す場合、男性よりも女性の方が現地に溶け込み易い、あるいは単純にモテるという話を聞いたことはありませんか?これは、かなりの程度事実のようにも思います。なぜでしょう?

 同時に、こういう話を聞いたことありませんか。海外では大人よりも子供の方が溶け込みやすい、と。これも、かなりの程度本当のような気がしますし、「そうだろうな」と思われる方も多いでしょう。でも、何故でしょう?

 「何故か」とひとまず置いておいて、これらの話が事実だとすれば、その反対の事実も浮かびあがってくるでしょう。つまり、海外では「大人」の「男性」が一番苦労するよと。
 もう一つ。クラスや社会に世界中の人が集まっていた場合、日本人はどうしても遅れを取るというか、少なくとも積極的にリーダーシップを発揮して超人気者になる比率は少ないという意見はいかがでしょうか。ご賛同される方、挙手お願いしますって、本当に画面の前で手を上げなくてもいいですけど。

 ということは、「日本人の大人の男性」は、海外にいった場合、世界的にみてもかなり苦労する人種であるということになります。そうでしょうか。ご賛同の方は(以下略)。




 これらの事実を裏付けるかのような証拠を探してみましょう。留学生などクラスで現地あるいは他国の異性と恋愛関係に入る人を見てますと、どうもやはり女性の方が多いような気がします。ご夫婦で海外旅行をする場合、どちらも海外初体験だった場合(つまりキャリアが同じとして)、現地の店やレスストランにガンガン入っていけるのは、ダンナさんというよりも奥さんの方だという気がします。あるいは、町中で歩いている日本人のうち、外国人の異性と恋人のように一緒に歩いているのは、男性よりも女性の方が多いような気がしますね。一家で海外に暮らした場合、現地の仲間や言葉を早く習得するのは子供の方が早いという話はよく聞きます。日本人云々ですが、クラスでよく発言するかどうかとか、この類の話もちょこちょこ聞きます。

 あ〜、こんな記憶に頼った状況証拠を並べても証拠としては弱いのですが、キリがないのでこのへんにしておきます。ここでは、上記の各命題は、何となくそんな感じがするという具合におさめておきましょう。では、本題。「なんで?」です。





 男と女だけを比べると、単にセックスアピールがどーのとかそーゆー話にいきがちなので、ここでは大人/子供、日本人という他のファクターも混ぜてみたですが、これらを統一的に説明できる仮説はないものか。誰に頼まれたわけでもないけど、考えてみました。

 ただいまのところ僕の仮説は、「人(”生物は”でもいいけど)は環境の変化に弱く、環境の変化が激しいほど弱くなる」というシンプルな話ではないかと思っています。

 どーゆーことかというと、海外に行って日本人成人男子が弱くなるのは、日本社会は成人男子がドミネイト(優勢支配)している社会だからである。まあそう言い切っていいかどうかは一つの重要な問題ですが、ここではそれに触れないで(いいか悪いかは別問題として)、総理大臣まで含めた全所得者の男女別所得をみるとやはり男性の方が高いだろうとか、そこらへんの観点からざっくばらんに言ってしまえば、やっぱ男性社会でしょう。

 で、優勢種は優勢種として求められる技術や言動に慣れており、思考や嗜好もそれ用に型にはめられていくが、一旦優勢種として認めて貰えない環境に置かれたら最後、これまでの全てのスキル・発想、ひいては全人格の組み替えを行わねばならなくなり、そんなこと普通簡単にできないから、適応不全でヒヨワになってしまう。逆に、もとある環境で第一優勢種でない場合は、同じように優勢種として遇されない環境に置かれてもそれほど環境は変わらないから比較的ダメージは軽微ではある。

 日本で「大人の男」をやる場合、それなりに求められるスキルはあります。男性社会ということは、男は優先して仕切ることが出来るという特権があるということでありますが、仕切らねばならないという義務もあるということでしょう。「え、ボク、わかんなあい」「そんなの出来なぁい」と30過ぎの男がキャピキャピしてたって、誰も誉めてくれません。男からも女からも子供からもコケにされるのがオチです。でも、女性はこれやって許される余地もある(同性からは嫌われるようですが)。子供の場合、年が若いほど許されますね。

 だもんで、男はつらいよで、常に、カッコ良く、強く、有能で、威厳に満ちていなければならないという社会規範というか、イメージというか、十字架があったりします。要するに男なんぞカッコ付けてなんぼの存在なのですね。だから、やたら「コケン(沽券)」にこだわったり、意地はったり、もう恥かいたらその場で腹切るくらいの覚悟がいる。威厳をベースに構築した社会的人格は威厳がコケたら全壊です。存在意義がなくなる。美人であることをベースにして成立している職業の女性が大怪我をしてお岩さん状態になってしまえば、やはりダメージ大きいのと同じように。

 賢いあなたは、もう大体何をいわんとしているかお分かりになったと思います。男/女/大人/子供という社会の役割を通して、それぞれに「生きてゆく術」を身につけているのだと思います。力の強弱、権力的支配関係で優越する者はそれなりの、劣後する者にもそれなりのスキルがあると思うのです。筋力的には圧倒的に劣る人間が強大な猛獣を意のままに操るように、力が弱くたって、権力がなくたって、技術が劣ったって、それなりに「やりよう」はあるのでしょう。出来ないこと非力なことを、相手に「しようがないよ」と思わせ、「なんで出来ないんだよ」と怒られないようなレトリックや雰囲気を醸し出す「技術」というのもあります。子供は、子供なりに、自らの非力をカバーするべく色々なテクニックを持ってたりします。「ここでこういう態度を取ると大人は喜ぶ」とかね、子供って結構クールに計算してるところってあるんじゃないかな。




 さて、海外に行くと、圧倒的に弱者の位置に置かれます。なんせ言葉は分からん、道はわからん、システムはわからん、体力的にも負けると。仮免で高速道路走ってるようなもので、後ろからはドヤされ、事故の危険は無限大というシビアな環境にあったりします。こんな状態で生き延びるには、「みなさまのご理解とご協力を賜る」ことだったりします。自力でなんともならないもんね。ミジメにならないような雰囲気をキープしつつ人々の協力を仰ぐのは、レッキとした一つの「技術」です。自分は出来ないんだということを速やかに周囲に理解させつつ、「出来なくて何が悪い」「別に悪くないよね」という雰囲気を醸し出し、「でも頑張ってまあす」という明るさを撒き散らし、周囲の理解とヘルプを得るというのは、それなりのテクニックだと思う。でもって、このテクニックは女子供の方が習熟しており、大人の男はここがド下手だったりします。

 海外で道に迷ったりしても、「エクスキューズミー」と気楽に声をかけれるかどうか、わからないのに分かったふりをせずに「もう一回言ってください」を4回も5回も連発できる度胸などなど。これがあるのとないのとでは、海外における自由度は雲泥の差になります。

 ところが日本の男は、また成長してエラくなればなるほど、こういう技術がド下手になる。人に頭下げたり、権力的背景がないと何もできない奴になってしまいがち。まあ、仕方ないと言えば仕方ないです。妙に腰が低くなっても、周囲がそれを必ずしも歓迎するわけでもないですし。ほんでも「こいつ、しょうがねえなあ」とあからさまに軽蔑されるストレスを「へへへ、失敗失敗!」でクリアしちゃえる精神管理の上手な人と、「こんな屈辱は生まれてはじめてだ」でいきなり傷ついてしまう人とでは、えらい違いが出たりします。なんせ、日本にいたら一年に一回ものの大恥も、海外では連日のようにかきますし。そんなんでいちいち傷ついてたら,、もう大変。

 日本でエラそにしていた男はこれが耐えられない部分ってあると思います。「そうなんです、わたし無能なんです」ってヘラヘラするという真似ができない。別に威厳を崩さず無能やってるのは可能なんだけど、それはそれなりに心の組み立てをしなきゃいけない。で、そこが下手。というかそんな訓練したことないのでしょう。部下が自分よりも出来たり、ましてやそれが女だったら心情穏やかではないって話もよく聞くところですから。もっとも無能な上司を馬鹿にする女性も、既に男性原理社会に組み込まれているから、同じように脆くなってるわけで、「有能なワタシ」という人格が崩壊するような環境になったらやっぱりブッ壊れちゃうでしょうね。要するに本質的には男女の問題ではないということなのかもしれませんけど。

 でもって、間の悪いことに、世界の国々は、おそらくその殆どが男性優位社会だから(そうでなきゃフェミニズムが世界的潮流になりはしない)、同じ事やっても男は「出来て当たり前」みたいに遇される場面もある。無能でやってかなきゃならないのに、尚さらプレッシャーですねえ。




 ところで、世界各国を比べて見た場合、日本人にそれが顕著かというと、実はそんなに顕著じゃないと思います。インドあたりの高いカーストで王侯貴族のような生活してた男性も、やっぱり「言葉もろくに喋れないただのカラード(有色人種)」扱いされたら、そら傷つくと思います。社会に溶け込めなくてイジけちゃうんじゃないかしら。

 ただ、日本の場合は、「結果はどうあれトライすることに価値がある」というコンセンサスが弱いので、やっぱそこらへんの影響もあるのかなと思います。余談ですが、僕も司法試験やってましたて、幸運にも合格しましたが、不運にして(不運以外の理由はない)苦節10年以上頑張ってる方、あなたの親類縁者に一人くらいおられるのではないでしょうか。で、その人を評するにつき、「もう止めたらいいのにねえ」とか「うだつがあがらない」的に心持ち見下したりしてませんか?もしそうなら、お願いですからそれは止めて欲しいです。一歩間違えれば自分もそうであったということもありますし、今尚頑張ってる僕より有能で正義感篤い友のためにも、出来るならば温かく見守って欲しいです。そして何より、結果よりもチャレンジするその姿勢を称賛する文化を作ってかないと、明日はこないぜよと思うからでもあります。余談でした。




 日本の男性諸氏、特に英語に自信のない方に申し上げたいのですが、こちらに来て、誰のヘルプも得られなかったら、おそらくあなたの「社会的地位」は「3歳の幼児」並みでしかないと思います。もちろん、こちらでも社会的礼節や敬老の念もありますので、幼児並みの扱いをされることはありません。ただ、「ひとりで怖くてレストランにも入れない」「バスに乗れない」「ペンキ塗りたての表示ひとつ理解できない(英語でなんていうのかご存知ですか)」あなたは、ハッキリ言ってしまえば、まさに能力的には小児程度であろうということです。

 したがってそこを吹っ切る必要があるわけですが、やり方は人それぞれでしょうが、僕の流儀でいうなら、こらもう「ガハハ、しょーがねえなあ、俺も」と笑うしかないですね。「でけへんもん、しゃーないやん。ちょっと待ったりいや。2〜3年もありゃ追いついたるから」くらいの感じで。何よりも、無能になっちゃったり無能状態に適応出来ないのは、上記のとおりそれ相応の理由とメカニズムがあるわけだから、別に恥でもなんでもない。求められることは、環境が変化したことを速やかに、そして正確に察知して、それ用に自分の社会的技術や社会的ペルソナ(人格)を再構築することでしょう。

 でも、こういう経験っていいものです。人によっては「乞食王子」並みに激変するかもしれないけど、男らしくそれは受け入れた方がカッコいいと思います。それが受け入れられずに添乗員さんとか世話してくれる人に威張り散らしたりしてる人とかいるみたいですけど、ヒヨワな精神構造(恥かいたら死んじゃうみたいな)が露骨に見えて、そっちの方がよっぽど恥ずかしいことだと思います。堂々と恥をかきましょう。死ぬこたないです。

 そんなことを通じて体験できることは、「もう一回子供の頃から成長し直してる」という不思議な感覚です。これは多少文脈は違うけど、柏木も同じような感想を漏らしてました。無力な子供段階から、見るもの聞くもの全てが珍しい環境で、一から色々な場面に遭遇していくうちに、日本にいる頃には習い性になったテクニックで塗り込めていた「自分の本性」と否応なく直面せざるを得ませんし、そこで忘れていた自分、根っこから直した方がいい自分、沢山の自分に出会えます。オーバーホールですね、一種の。あるいは精神分析療法を実地でやってるようなものかもしれません。

 誰もあんまり言わないことでしょうが、これって海外で暮らすことの重要なメリットの一つだと思います。ただし、周囲がお膳立てしてくれたり(住まいとか用意してもらったり)、あんまり他人に頼ってたら効能薄くなっちゃいますけど。


(1997年3月15日:田村)

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