シドニー雑記帳



「きちんとした目的意識」?




1996.12月29日



いろいろな機会で------、例えば学校の朝礼で、進学で、就職で、留学その他の海外渡航にあたって、あるいはパソコンその他の道具を買うにあたっても、「きちんと目的意識をもって」とお説教混じりに誰かが言ってるのを読んだり聞いたりします。それは正論なのかもしれないけど、自分としては「目的意識ねえ....」という違和感も感じます。いまの日本で(あるいは世界で)「きちんとした目的意識」なんか持ってる人がどれだけいるのだろうか?だいたい、自分の親を見てもそうキチンとした目的意識を持ってるようにも見えないし、自分自身も曖昧。

「パソコンを買うときに、「何の為にパソコンを買うのか」と聞かれるくらい腹の立つことはない」というエッセイを読んだことがあります。偶然なのですが、日本とオーストラリア、それぞれの人が同じようなことを書いてました。そうなんですよね。パソコンの何たるかが分からん段階で「目的」とか言われても分かる筈がないのだ。あったとしても、「目的」というよりは漠然とした「イメージ」でしょう。大体、使って初めて、「え、こんなことも出来んのか?」と、パソコンにはミもフタもない限界があるということが分かります。「パソコンの無限の可能性」というのは「無限にお金持っいてたら」の話だと思います。だもんで買う前の「目的」とかいっても広告文句に躍らされた「幻想」というべきかもしれません。「猫も杓子もインターネットと浮かれおって、きちんと目的意識を持ってパソコンに向かうべきだ」というお説は一見ごもっともですが、実体にそぐわない。「何のためにパソコンを買うのかね?」「はいっ、インターネット接続して世界中の人と友達になって、国際的視野を養おうと思っとります!」とでも答えたら良いのでしょうか?



さて、「もっと目的意識を持って」「近頃の○○は目的意識に欠けている」等と批判される場合は多々あろうかと思います。この類のお説教が登場する状況というのは、例えば次のような会話があったりする状況なのでしょう。「キミはどうして○○したいの?」「え〜、だって今流行ってるって言うしぃ」「友達みんなやってるしぃ」「一応押さえておいた方がいいしぃ」などなど。こーゆーコンニャクみたいな問答を経て、猿と話してるような気分になった挙句、反射的に「だぁーっ!」「ほんなら、皆が死んだらオノレも死ぬんか?!」と強烈にツッコミたくなる衝動を感じてしまうと思うのですね。主体性の無さ、自我の希薄さ、頼り無さを見せつけられたときのイラ立ちでなのでしょう。

周囲の動向に盲目的に追随してしまう人、半ば自動的に、皆の行く方向へキョンシーのようにピョンピョン飛んでいく人を見ると、なんかロボット見てるみたいで気持ち悪いのかもしれません。こないだ書いた「援助交際」でも、あれに拒否反応を感じる人の心情の一端には、皆がやってるから→売春してもいい、皆が持ってるから→ブランド品が必要という、化学反応のようなキョンシー状態が、なんか生身の人間として不自然すぎるというか、とりあえず生理的に気持ち悪いからなのかなとも思います。



ともあれ、「だぁーっ!」「しっかりせんかい!」という批判的な感情の延長として、「キミね、もうちょっと考えた方がいいよ」というアドバイス(お説教)のレトリックとして「きちんと目的意識をもって」という言い方が出てくるのだろうと思います。目的意識が芽生えるような「自己」というものを持っててくれということでしょう。

根っこにある感覚はとてもよく分かります。分かるんですけど、それを表現するのに「目的意識」という文脈で言ってしまうのは、不適切・不正確な場合が多々あるように思います。また目的意識を一人歩きさせると弊害も大きいと思うのですね。例えば、目的が鮮明でないと駄目だとか、そこが巧く説明できなければ何やら下らないことをやってるかのように受け取られたりとか、チャレンジ精神に水をかけたりとか。ここらへんのことをもうちょい述べます。



まず、目的意識といっても、それがあれば万事OKというわけではない。例えば、「自分は嫌がる女性を犯すのが大好きなので、生涯レイプ一筋に邁進したいと思ってます」「官僚になって甘い汁を存分に吸おうと思います」などという目的意識が、これ以上ないほどに明瞭にあったとしても、あまり誉められてた話ではないでしょう。極端な話、この世で最も目的意識を強固に持っているのは、テロリストや、過激な宗教の熱烈な信者の人々かもしれません。だから目的意識があればそれでいいというものではない。悪逆卑劣な目的でも、「ないよりマシ」とは一概に言えないでしょう。



次に、目的意識や、目的意識を生み出す自分の個性や自我というのは、実は結構いい加減なもののようにも思います。それは、どっかの団体の設立理念みたいに明瞭に文章化できるものではなく、文章化した時点でどっかしらフィクションやら「ええカッコしい」「体裁取り繕い」が入ってくるような気がします。そんなにご大層なものではなく、その実体は、「何となく面白そう」というあたりのところに落ち着くんじゃなかろか。

何を言ってるかといえば、例えば、松尾芭蕉がなんで全国行脚して句を詠んだのか?といえば、それなりにパーソナルな理由もあるでしょうが、一番本質的な答えは「なんとなく面白そうだから」やったというのが真相ではなかろうか。織田信長がなんで天下統一を目指したかといえば、「やりたかったから」なのでしょう。

そりゃ「俳句の世界を極めるため」「天下領民を安んずるため」とかレトリックはあるでしょうが、じゃなんで俳句の世界を極めたいの?と聞いたら、やっぱり「面白そうだから」という答えになってしまうように思います。要するにハマっちゃったわけでしょう。ハマっちゃうのに、明瞭な理由もないだろうし、あったとしてもそれを正確に説明しようと思ったら深層心理分析でもしなきゃわからないだろうし(少年期のトラウマがどーのとか)。

というわけで、「きちんとした目的意識」というと、「自分は将来医者となって〜」とか分かりやすい場合を念頭におきがちですが、実際にはそれが「目的」なのか「なんとなく」の単なる好みなのか、その区別は曖昧だと思うし、もしかしたら同じ事なのかもしれません。本来それほど明確ではない領域を、無理矢理「ワタシの目的は〜」という形式に立たせなくてもいいんじゃないか。必ずしも奇麗に文章化できるものばかりではないだろう。もっと言えば大きな野望であるほど、あるいは自分の内心にピタッと合うものであるほど、その表現は「なんだか分かんないけど、これがしたいんだ」という漠然とした原始的な衝動に近いものになっていくような気がします。ですので、ここでも「目的意識」とか「きちん」という型枠にそれほどこだわってもしょうがないような気がします。



さらに、物には段階があって、何にも知らない時点で、そんな先々のことまでわからない。最初のとっかかりは、何でもいいと思います。大いなる誤解で物事が始まり、やってるうちに全体が見えてきて、本当に興味をひく分野にブチ当たるというのが本当のところかと思います。その道を極めた人の回顧録読んでても、最初は意外としょーもない理由でその道に入ってますもん。近所の好きな女の子がピアノ教室行ってるから自分も行ったとか。逆に1から10まで計画どおりという人なんか実際にはいないでしょう。エラい人の話のなかにも、必ず「わたしの人生の転機が訪れた」とかいう表現が出てきますが、「転機」ということは、その時点で「計画変更」になるわけで、要するに当初の目論見なんか全然貫徹していないということでもあります。

つまり「何となく始めて」いるうちに、双六のようにコロコロ場面転換があって、気が付いてみたら現在に至るというパターンも数多くあるんじゃないか。そーゆー「行き当たりばったり」的な姿が人生の実際だとしたら、「きちんとした目的意識をもって進んでいくこと」が唯一無二の人生の基準や方針ではないでしょう。そんなもん関係なしにそれなりに実りのある人生を送ることも可能ですし、言ってしまえば「きちんとした目的意識を持っていた方がイイ場合も(たまには)ある」という程度のことではなかろうかと思うわけです。

結局のところ「目的意識」が大事なのではなく、目的意識が自然に出てくるような「自分の方針/好み」を持っていた方がいいよ、ということでしょう。行き当たりばったりであっても、要所要所で右に行くか左に行くかは自分で決めると、その決断が一応出来てたらOKなんじゃないかと思うわけです。



どうして、こんな「言葉のアヤ」みたいなフレーズにこんなにこだわるかというと、「海外に行く」という選択をしようとすると、とりわけこの目的意識論、「何の為に海外に行くの?」という問いかけが頻繁に浴びせられるように思うのです。この問いに対する僕の回答としては、パソコンの場合と同じで、「そんなもん行ってみなきゃ分からんだろうが」ということです。

実際、おそらく行く前にあなたが頭に描いておられるだろうイメージと現地の状況は全然違うだろうし、多くの場合はシャレにならないくらい英語がわからない現実にブン殴られるでしょう。現場も知らずに計画なんか建てても危なっかしいですし、あんまりそれにこだわり過ぎると現地に来てから「こんな筈じゃなかった」と文句言い続けてそんで終わりになりかねない(結構そういう話も聞きますが)。「なんの為に」と聞く人だって、そこらへんよく分かって言ってるわけでもなかろうし。

シドニーに留学される人、海外移住を希望される人、いろいろおられますけど、日本にいる時点で「目的を持って」とか聞かれて(あるいは問い詰められて)、しんどいんじゃないかなあと推測します。でも、こう言っちゃナンですけど、「目的」なんか、日本を離れるに当たって家族をはじめ周囲に対する「言い訳」というか「理論武装」に過ぎず、本当の目的なんか現地来てから考えたらいいんじゃないかな、最初の段階では、「海外とやらに行ってみたいな」でいいのではないかとも思います。それが十分面白そうに感じられたら、それだけ興味をひく物事を見つけられたら、その時点ではそれでOKだと思います。それ以上深く計画建てても砂上楼閣に近い。勝手なイメージ作って盛り上がってシドニーに来て、思ってたたのと全然違ったけど、その代わり思ってもいなかった何かとの出会いがあり、そっちの方がはるかに自分にしっくり来たりするものではないでしょうか。




すごい無責任なこと言ってるようですが、何がなんでももっともらしい「目的意識、渡航の理由」を問い詰めるようなやり方も、同じくらい無責任だとも思います。自分の心の中にあるワケの分からん衝動を、的確に言語化することが出来る才能があるなら直木賞取れるでしょうし、簡単に「〜です」と要約できるくらいなら、わざわざ何百頁もかけて描写する小説なんか必要ないです。対象(海外の地)についても情報不足だから不鮮明、自分の心についても文章化するのは困難、という状況で、「渡航の目的を明確に述べよ。きちんとした目的意識を持て」というのは、無理難題以外の何物でもないのではないか。

場合によっては、この無理難題を吹っかけることによって、「ちゃんと言ってみろ」「ほら、言えないじゃないか」「新しい人生の可能性なんて甘っちょろいこと言ってたって現実には通用せんぞ」「悪いこと言わないから、早く結婚しろ」という具合につながっていくこともあるのではないかと思われます。これが法廷だったら、「異議あり」と言えるのですけど。「たた今の質問は、本来的に回答不能ないし困難なものであり、いたずらに証人を困惑させ、有利な結論を押し付けることを目的としたもので、著しく不適当なものであります」とか言えるんですけど。

僕が「目的意識」というフレーズにこだわるのは、一つにはこういう「悪用のおそれ」があるなあと思うからです。

日本語教師になりたくてシドニーに来て勉強したけど、現実は供給過剰で職なんか全然なかった、でも学食でたまたま出会った人と恋に落ち、ニュージーランドで一緒に牧場やろうと言われて行ってしまったとかね。月日は流れ40年、ニュージーランドのとある牧場で孫に囲まれ、「本当は最初は日本語教師になりたかったのよ」とニコニコ語ってるかもしれない。で、僕にはその人の人生が間違ってるとは全然思えないのです。だから人生は面白いんだよなとは思いますが。日本でのキャリアアップのためにMBA取得の為にやってきたけど、ヨットにハマってしまうのと同時に、MBAといっても所詮は他人の金勘定という現実にシラけて、こっちでインストラクターになって、自分の会社設立してやってるという生き方だってあるかもしれません。現に駐在員として赴任してきて、会社辞めてそのまま住み続けてる人というも結構おられるようですし。もちろん、しっくり来るモノが全然見つからずに日本に帰るかもしれないけど、別にそれでもいいじゃないですか。試行錯誤とはそういうことでしょう。



というわけで、「確固たる目的をもって」という説には、いささか異論がございます。目的なんか別に確固としてなくてもいいし、無理に持たなくてもいい。

「じゃあ何にもナシでもいいのか」と言われそうだから、僕なりに対案として提出するなら、「目的」という形で明瞭に文章化するのに悩むくらいなら、「わあ、これ面白そう!」と素直に思えるような心のアンテナというか、嗅覚や感受性を磨いておくことの方が大事だと思います。「自我」というのは、別に第三者に説明するためにあるのではないのですから、それがムニャムニャした説明になっても構わない。他人に理解不能であっても構わん。もっと形にならない、あるいは形を持たない、生命体のようなもので、その生命力をみずみずしく保つこと。太陽の方角を察知するヒマワリのように、動物的、本能的に自分にとっての太陽を探し当てる感性の鋭さが命なのではなかろうかと思います。そして、本当に面白くなってしまえば、周囲が「やるな」と言ってもやっちゃうでしょう。

それがすわなち「確固たる目的」なのだよと言われればそうかもしれません。でも、出たとこ勝負で、ピンボールのようにあちこち突き当たって方向転換した挙句に一応の成功を収めた時点で、他人が勝手に「目的意識をもって一直線に突き進んだ」かのように誤解してるだけという気がせんでもないのです。場合によっては、「目的」なんか全部終わってから認識されるものかもしれないし、自分でも「ああ、自分はこういうことがしたかったんだ」と初めて分かることなのかもしれません。

(1996年12月29日/田村)

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