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僕の心を取り戻すために(6)

「心を豊かに」の幻影(その3)


(承前)

心のありようを規定する三大前提


 なんで心が豊かになりたいのか?といえば、周囲の物象的環境によって心がサツバツとしてしまっているケースも相当数あろう。言わば煮詰まるべくして煮詰まってるという合理性・必然性があるのだろう。ならばその根本原因たる現実そのものを変革すべきであって、ココロココロと念仏だけ唱えていても、そうそう簡単にリラックスした生活→ハッピーになるものではなかろう、ところまででした。

 人の心のありように影響を与える現実環境(物象)とは何か。いろいろな考え方があるでしょうが、ここでは@自分の資本(能力・性格)、A現在の日本(世界)の状況、B人間一般そして自分自身の精神特性という三つがあるします。そして、それを変革するということは、

    @自分の資本という前提条件を変える
    A今の日本といういう外部環境を変える
    B人間一般/自分自身の精神特性を変える→つまり感性や価値観を変える

 この3つのうち、@Aは物象世界であり、Bが心象でしょう。一般に「心を豊かに」と言われている場合、Bが最も多く語られていると思います。これは物象を変えずして心象のみにて救われようとする一番本質的な議論になります。

 だったら最初からBばっかりやればいいのに、何を長々と述べているかというと、本当に心象が問題になるケースというのは実は少ないと思うからです。何かの問題を「心の問題」として括ってしまうのは、実はメチャクチャ簡単だと思います。でも、その世界は趣味の世界というか非論理的な情緒世界だから、曖昧で、一旦入ったら中々筋道だって話が進まなくなる。だから、心の問題に入る前に、論理世界である物象で処理できるものは出来るだけハネておきたいのですね。これ、無駄なステップとは思いません。

 というわけで、物象的な@Aから先に見ていきます。




 まず@の「自分を資産(能力)を変える」という点について。これ、理屈としては非常に簡単。

 「月収30万レベルは崩したくない。なぜならこれを崩すと子供の教育費、家のローン、老後の備えなどなど、もっとベーシックな部分の幸福が壊れてしまう。しかし、これを稼ぐためには、嫌なこともしなきゃいけない、時間も足りない、だから心がスサんでいく。もっと可処分時間を増やして心が豊かになりたいものだ」−−−−という人の場合、解決策はただ一つ。

 収入同じにして自由時間を増やしたいなら、単位時間あたりの収入を増やすしかないです。そして、収入を増やしたいなら、高く売れる自分を作るということで、キャリアに磨きをかけたり、専門知識を身につけたりしようということになります。あるいはよりより転職機会を窺うなどです。

 或いはもう単純に宝籤に当たるとか遺産がころがりこむとか。はたまた、別に残業しなくてもいい時まで気が弱いからつい残ってしまうような場合は、もうちょい毅然として帰るときは帰るとか。




 これは多くを語る必要はないと思います。自分が有能になったり、要領よくなれば、可処分時間も増えるでしょうし、ゆとりを得るチャンスも増えるでしょう。それだけの話です。

 それだけの話なんだけど、これが最も王道であり、特効薬であり、正解だと思います。結局頑張らなきゃダメだと。貧すれば鈍する。心/人間の感情というのは、どうしようもなく物質世界の上に成り立ってる部分が大きいという事実をシビアに見つめるべきで、貧しくて劣悪な環境にいれば、やはりそれなりに心もすさむ。ローンの心配、老後の心配、心配ばっかりしてたら心が豊かになる暇なんかないでしょう。

 だから、「心が豊か」になるためには、お題目唱えてたって仕方がない。ココロ系の本読んでる暇があったら、鉢巻きして勉強して資格のひとつもとった方が、結局は現実を動かし、結果として心も救われるんじゃないかということです。下部構造たる物象世界から変革していかないと、中々話は進まない。




 次にAの方法。

 これは所与の前提である社会環境そのものを変えちゃうという方法です。例えば老後の備えのためにキリキリ働いて心に潤いがなくなってしまうなら、老後の心配がないような社会にしちゃえばいいのです。都会に緑や自然が枯渇して心がスサんでいくのなら、都市計画や国家経済そのものをもっとちゃんとやるのが王道であるべきです。

 でも、「いいのです」「べきです」なんて言うのは簡単だけど、それを実現するためには、気が遠くなるようなステップが必要です。それはすなわち、市民運動から総理候補までなった管直人氏の軌跡のようなステップであるわけですが、あそこまでいかんでも地道なところでは選挙に行くとか、新聞に投書するとか、コミュニティ活動に参加するとか、そのあたりの実践もあります。

 ただ迂遠なようでいながら、これも又、正道だと思います。「ゆとり」という言葉は「ゆとりある教育」など、こういった社会的文脈でも多く使われるように、社会システムの改革とリンクしやすい。また、後述のBの個人的な組み替えを行うにあたっても、外部環境の整備は非常に重要なことだと思います。







 @Aは非常に分かりやすい話だと思います。ただ、分かりやすいけど、優しくないです。なぜなら@Aは詰まるところ「もっと努力しーや」「頑張らんかい」ということであって、もう頑張るのに疲れちゃった人にとっては、聞くだに鬱陶しい話でしょう。

 そもそも現実世界が何ともなりそうもないからこそ「心のありよう」という部分に救いを求めているというのが、ココロ系の論説なりムーブメントのひとつの通奏低音になってると思います。ヒーリングにしたって、癒しにしたって、環境CDにしたって、そもそも最初から疲れないように現実を変革してしまえば必要ない筈です。仕事が嫌だったら仕事を変えればいい、家庭内不和だったら仲良くすればいい、それが一番抜本的な解決であるはずです。でも、そんなに簡単に出来ないからこそ、現実はそのまま置いておいて、少しでもダメージ回復を図ろうということでしょう。まあ、口臭スプレーというか、一種の対症療法だと思います。

 対症療法なだけにお手軽です。「努力しなくても楽になれる」んだから、そっちの方が魅力的に見えるのももっともな話です。でも、意地悪なようですが、やっぱりそれは対症療法なんだということを敢えて確認しておきたいです。疲れようがなんだろうが、やっぱり頑張るっきゃないという。


物象変革と心象変革の分水嶺

 「心が豊かに」系の話の99%とまでは言いませんが、その大多数は、@Aの努力系対策こそが正攻法になるパターンだと思います。シツコイですがそう言いたい。

 いま「もっと心が豊かになりたいなあ」と思ってる人がいたとします。で、何でそう思うの?という原因部分を突き詰めていったら、結局個人的な環境に起因してたりします。借金取りに追いまくられるとか、親の介護に疲れ果てたとかいうハードなケースもあるでしょうし、マイルドなケースも多いでしょう。例えば、会社や自分の前途に漠たる不安を感じるとか、一生こんな宙ぶらりんでいいのかとか、専業主婦やってるうちに幽閉されてるような気分に陥ってしまうとか、仕事上で行き詰まってるとか、対人関係で煮詰まってるとか。

 そうこうしてるうちに、ふと気付けば、四季の移り変わりにも無頓着になり、美しいものみても、本を読んでも、音楽聞いても、学生だった頃ほどには熱中しない。子供の頃なんかカブトムシ一匹で超ハッピーになれたというのに。そういえば好きな人を前にして心臓がドキドキなんてことも、最近なくなったなあ。なんかどんどん無感動になっていくような気がする。これでいいんだろうか?とか。

 そういう人でもですね、ドロンと神様が出てきて「なんでも望みを叶えよう」と言われたら、やっぱりそれなりに興奮すると思うのですね。別に神様でなくてもいいです。昔の友人がやってきて、今急成長している会社をやってる、是非オマエの力が欲しいんだと言って、非常に魅力的な仕事を持ち掛けてきたとか。昔よりもさらに美しくなった初恋の人と偶然再会して、非常にいいムードになるとか。

 何を言ってるかというと、要するに物象環境が変わったら気持ちもまた変わりますか?ということです。よく「なんかいいことないかなあ」「なんか面白いことないかなあ」と言ったりしますが、これって物象でしょ?「面白いこと」が「ある」、ある物象が発生すればいいんだから。

 逆に言えば面白い現実が周囲にないから「なんだかな」と思ってるわけで、だったら面白い現実を作ったり、呼び寄せたりすればいいじゃないかということになると思うのです。現実世界はそのままに、心のありようを変化させて救われるという脈絡の話ではないのではないかと。

 でもまあ、神様なんか滅多に出てくれそうもない。現実を変えればいいと気軽にいうけど、それが出来るくらいだったら最初から苦労してない。



 ここが一つの分水嶺になると思います。

(1)物象世界を幾ら変革しても本質的に関係ない人
(2)物象世界を変革するのがほぼ不可能と思われる場合
 (1)が正味の心象問題だと思います。(2)は物象が解決すればいいんだけどそれは無理だという場合。例えば親しい人が死んでしまったとか、事故で半身不随になったとか絶対にどうしようもないケースです。

 これらに当てはまるケースは、物象をいじくってても抜本的解決にならないので、いよいよ心象世界に進むことになります。もちろんこういう場合も物象的対処は可能です。妻に先立たれた傷心の夫が気晴らしの旅をするなどの場合です。でもこれら物象対応はあくまでも心象を和らげるための補助的で対症療法的なものという点で違うと思います。

 上記(1)(2)に当てはまらない場合は、やっぱり物象対策こそが基本になるでしょう。つまり物理的には何とかなるのだが、それをやるのが面倒臭かったり、不安だったりして中々手をつけられない、どうしたもんかということでしょう。この場合、求められるのは「癒し」などよりも、物象世界に切り込んでいくための「勇気」「度胸」「根性」といった類のことでしょう。




なお、
(3)物象変革はそんなに難しくないけど、深刻でもないから、気分転換的な対症療法で事足りる人
 なんて人もいるでしょう。こういうライトなパターンはそれほどムキになって論ずる必要もないと思います。


 あるいは、
(4)抜本的には物象変革こそが解決なのだが、物象変革をする準備として心象を整理する必要がある人

 これは一種のミックスパターンでしょうが、実際にはかなりの割合を占めると思われます。これは物象と心象の有機的関連ということで非常に重要なポイントだと思いますので、後にまた考えてみたいと思います。

 さて、物象変革によって救われるのか/心象変革によって救われるのかの見極めですが、要するに物象変革が不可能だと思われるかどうかでしょう。でも、この境界線はけっこう微妙だったりします。

 どうしようもない天災などの自然現象、動かしがたい物理法則は別にして、大抵の現実は変革可能だと思います。

物象変革の射程距離−大抵の現実は変革しうるという確信


 ここで少し脱線することを許して戴きたいのですが、「大抵の現実は変えることができる」というのは、僕の心の奥底に根ざしている「確信」でもあります。これがないと自分が成り立たないというくらい、かなり根本的なものです。この確信は、ゲーム指向とほぼ二人三脚のようにして、これまでの過程で蓄積・形成されたものです。

 前にもチラッと触れましたが、小学校低学年の頃、結構暗黒な時期があったわけですが、これをボトムラインにして、その後の人生、主観的にはずーっとあがってきたと思ってます。ガキの時分に、最初に学んだのは「どんな悲惨な環境も時間が経てば必ず変化する」ということです。

 次に学んだのは、最初「絶対無理」と思えるようなものでも、アホみたいに努力すればそこそこの所まではいくという、量的突破作戦です。例えば聞き取れないほどのギターの超絶技巧的早弾きでも、練習すりゃなんとかなります。それも「毎日1時間地道に練習」なんて悠長なこといってないで、毎日20時間弾く。同じフレーズを100回やって弾けなかったら1000回やる、それでも駄目なら1万回弾くと。どんなヘタクソでも1万回同じこと練習すれば出来るようになります。同じように、大人になってからもピアノは絶対弾けると思います。そりゃ世界最高峰にはなれないでしょうが、そこそこまではいく。毎日睡眠時間削って意識朦朧となるまで、千本ノック状態で練習すれば結構なレベルにはいくと思います。

 要は、短時間に、常識外れの量を叩き込めるかどうかです。「これだけやれば出来て当然」と誰もが思うくらいの、笑っちゃうくらいの物量を注ぎ込めるかどうか、そういうことを思い付けるかどうか、それをやる気になるかどうかです。一番大事なのは「思い付けるかどうか」だと思います。




 僕は司法試験やってました。いまは合格者も増えて、大分楽になってきましたが、僕が受かった当時はかなり難しい時期だったです(だからこそ改革論議になったのですが)。当時でも、東大などで在学中に合格する俊才連中がいたわけですが、あいつらは頭の出来が違うんだろうというのが、のほほんと勉強始めた当時の僕らの一般的理解でありました。でも、あるとき、それが違うというのがわかりました。あいつらもう死にもの狂いにやってるのですね。ある人の話では、1年生のときコンパにいって夜中の2時に帰ってきても朝の4時まで翌日の授業の予習をしていたとか。1年生の段階でですよ、それも試験シーズンとかそんなんじゃなくてごく普通の時期にですよ。それでもやってるわけです。で、必死こいて集中して講義聴いて、そんで徹底的に考えて、また質問に行く。その繰り返し。話は簡単、単純に物量で負けてるわけです。なるほどそうかと思いました。

 水温20度の水が1度高くなっても水のままです。でもそのまま1度づつ温度を上げていくという量的変化を続けていくと、あるとき「水」から「湯」へという「質」的変化が訪れます。弁証法でいうところの「量質転換の法則」とやらいうものですが、逆にいえば質の差は量の差に還元できると思います。そりゃ絶対的な才能の差、ホンマモンの天才というのはいますが、別に天才にならんでも秀才レベルで大抵の望みは叶います。で、秀才になるのは、量を積み上げていけばいいのだから無理ではない。

 アホみたいに膨大な物量を投入すれば、絶対に無理と思えた現実も変革可能であること。そしてやってみたら案外出来ちゃうこと。一芸に秀でた奴が他の分野でも強いというのは、自分の努力キャパシティがデカく、「このくらいだったら俺にも出来る」という自分の可能性の自己認識の範囲が広いからだと思います。大事なのは、真実そういう能力を持ってるかどうかではなく、「そう思えるかどうか」という自己認識だと思います。




 この発見はでかいです。大体の場合、そこまでのことを思い付かずに無理だ無理だといってるケースが多いと思います。でも、やる奴はやってる。英語が上手くならないとかいっても、本当に真剣にやってる奴なんか稀だと思いますもん。

 ちなみに、日本の英語学習本を見てると、「英単語らくらく〜」とか「1000時間で喋れるに〜」みたいな、英語をナメてるようなタイトルの本が目につきます。もちろん著者はナメてるのではなく、そういうタイトルの方が売れるからそうしてるのでしょう。しかし、ハッキリいってそんなタイトルが売れること自体、いかに日本人が英語を知らないか(出来るとかいう以前に)を表していると思いますし、そんな本に目移りしてる限りはまず英語はモノにならないと思います。だって難しいという事を知っている分野、例えばオリンピックで金メダルを取るとか、プロスポーツ選手になるとか、芥川賞を取るとか、なんでもいいですけど、これに「らくらく金メダル」とか「1000時間でノーベル賞が取れる」みたいな本があっても「アホか」と思うでしょう?

 司法試験だって、僕らのときに合格率2%前後、前述の東大生が合格率高いといってもせいぜい5%くらいで、100人受ければ95人は落ちてました。でも受験生の過半数は、最初から問題外なのですね。本人はいかに必死にやってるつもりでも、合格レベルからすれば「司法試験をナメてる」連中でしかない。僕も最初はその「ナメてる連中」の一人でして、それなりに図書館で夜9時の閉館時間まで勉強して自己満足に浸ってたわけですが、いよいよ本格的にそれなりの研究室に入室を許されたとき、その圧倒的にシビアな雰囲気にうちのめされました。アマとプロの違いでした。諸先輩達の努力や物量はもうハンパなものではなかったです。生まれて初めて、文字どおり「人生投げ打って勝負に出てる人」を生で見たというくらい迫力でありました。




 さて、この受験時代にもう一つ次の段階を学びます。それは物量作戦にも限界があるということです。最初に入った年の秋の合格発表、その迫力バリバリの先輩達は全滅でした。それも3回戦のうちの2回戦敗退。「あれでもダメなら、どうすりゃいいんだ?」「もう止めようかな」と、しばらく立ち直れないくらいでした。ただ、それでも諦めずにやってるうちに、色んなことが見えてきました。それはテクニックです。物量を投下して得た知識や技術を、いかに世間に(この場合は試験官に)売り込むか、アピールするかというテクニックです。

 「ものごとにはやり方というものがある」ということがわかりました。ただ、それは圧倒的な物量を前提にして初めて出てくることで、物量が足りない段階で賢しげにテクニックを振り回しても何の意味もないです。

 次に学んだのは、このテクニックが完璧であっても、なおダメだということです。もう打ちのめされるのも慣れてましたが(^^*)、最終的にものをいうのは、気迫とか精神力であるということ、そしてもう一つもうミもフタもなく「運」だなということです。で、精神論も運も、言うまでもないですが、圧倒的な物量と芸術的な技巧があって、そのあとに初めて出てくるものです。それなくして気合いれても駄目なものは駄目。神頼みしても時間の無駄。

 ほんでもって弁護士になったらなったで、同じような世界が待ってます。ここでも、普通思い付かないような物量の投入、テクニック、気迫、運などを実地で教わりました。単に裁判かけて法廷で喋るだけではなく、マスコミを使う、各市民団体と連携を取る、イベントを打って盛り上げるなどなど。それはビラ配りの文案起案とか、ダンボール何箱もある証拠の整理であるとか、文献探しに医学部の図書館にいって迷子になることとか、記者会見の段取とか、スライドショーのためのナレーターの手配であったりとか、地味な地味な作業の積み重ねであります。でも、この何千ピースのジグソーパズルをどのように有機的に結合させていくのか、それによって世の中がどのように変わっていくのか、何十年かかるかもしれないけど確かに世の中は変わるわということを実感したりしました。




 長々述べたのは、「現実は絶対変えられるという確信」についてでありました。これは「希望」と言い換えてもいいのですが、この確信が心のどこかにドンとないと頑張れないです。司法試験やってて、最後には合格したいという気持の意味が変わりました。思い出したくもないアンラッキーでみすみす一年空費したとき、さすがにアホらしくなって止めようかと思ったこともありましたが、止めるにしても「止めかた」があるなと思いました。下手な止め方をしたらこの「絶対何とかなる」という確信が崩れる、心のどこかに「どうせ駄目だ」という妙な負け癖がついてしまうのが怖かったからです。

 僕の辿ったプロセスは、業種や道筋は違えど、おそらく皆さんも同じく辿ってこられたと思います。司法試験なんて上のように描写すればいかにも大変そうだけど、別にどの世界だって同じだと思います。どんな領域でも人間がムキになってやってる以上、ほぼ同程度のシビアさがあると思います。それを皆さんも潜り抜けてこられたし、今も奮闘されてることでしょう。だからこそ今日も頑張っていられるのでしょうし、明日に希望を抱けるのだと思います。

 で、この「何とかなる」という確信があるから、これまでそんなに悩まないで済んできたという部分があります。「考え込むけど悩まない」という特徴です。この確信は前述のとおりゲーム性現実過剰適応症と二人三脚になってるわけですが、この確信それ自体はそんなに変えなくてもいいと思ってます。ただ、問題は「何ともならんこともある」という心象世界とどうコネクトし、どう付き合っていくかです。これがこの長い長いシリーズの根本テーマなのですが。





 話を元に戻します。物象世界を変えるという射程距離が広がれば広がるほど、とりあえず悩みからは解放されます。悩みというのは「どうしようもない」ことに悩むわけで、「何とかしようがある」と思えたら、そこが解放のキッカケになるでしょう。で、何とかするためのダンドリを必死に考えるようになるでしょう。

 「何とかする」のは、単なる頑張りやダンドリという物理的なパワー&テクニックだけではないでしょう。もっと精神的なメンタルバリアというのもあるでしょう。例えばストリーキングというのは物理的には全然出来るけど、精神的にはツラい。そういうの好きな人以外、誰だってツラい。そのメンタルバリアを超えちゃうと出来るようになる。

 よく、体育会系のシゴキで、街の雑踏の中で、一人で大声で歌をうたわせたり、電柱よじのぼってセミやらせたりするのがありますが、あれも一種のメンタルバリアを超えさせて、大試合のときにアガらないような胆力をつけさせるのでしょう。

 離婚にしても、破産にしても、転職にしても、海外移住にしても、シンドイのはメンタルバリアだと思います。それなりに物象的に大変ですけど、やる前に思っていたのに比べれば、いざやってしまえば「あれ、出来ちゃった」みたいな感じでしょう。海外っていったって、チケット買って飛行機乗るだけですもんね。現地での家探しも大変ですが、そんなん、そこらへんの新人研修でやってる飛び込み営業の方がずっと大変だと思います。だもんで、一旦やってしまえば、そのこと自体はどうってことないというケースが多いと思います。





 以上、物象か心象かの分水嶺である、物象変革の可能性の見極めの話でありました。シンドイけど現実に立ち向かおうとしないかぎり、何でもかんでも「心の問題」になっちゃうわけで、そうやるのは簡単で楽なんだけど、永遠に解決はこないだろうなと思うわけです。それか妙な理屈つけて解決したことにするとか。

 ついでにちょっと思い付いたので付記しておきますと、「妙な理屈で解決」と非常にニアリーなのが宗教だと思います。メチャクチャ理不尽なメにあっても、「それが神の思し召し」とか「試練」とか意味付けしちゃえば、とりあえず解決します。本当は現実改善のために立ち上がるべきときでも「これでいいのだ」になっちゃったりする。あとでも述べますが、心象を自由自在に変えられれば、もうオールOKです。地下鉄でサリン撒くことも「いいこと」になっちゃいます。だから宗教は万能であり、同時に恐くもあります。

 僕は宗教のことは良く分かりませんが、良い宗教があるならば、宗教的トリックの怖さをよく知っていること、地道な現実変革の大切さを知っている宗教ではないかと思われます。もっと正確にいえば宗教と宗教団体は別物で、分けて論ずるべきなのでしょう。僕としては、宗教それ自体よりも宗教団体の方がもっと分からんです。心象の物象化したものですから、なんか実写の画面にアニメが動いているような、不可思議な存在だと思うのですが、この話はまた別の機会に。


 さて、長らくお待たせしました。いよいよ、B心象世界のアプローチに入ります。

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1998年12月04日:田村
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