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僕の心を取り戻すために(3)

雪が見えない強者の死角



(承前)

 前回までは、尾根道のように「なんだかな」状態は、これまで習い性にしてきたゲームという特殊の思考パターンにおちいってるがゆえの錯覚ではないか、これまで気づかず心のある部分を落っことしてきたのではないか、だからリアリティの奪回をしようというところまででした。

 さらに先に進んでみたいと思います。以前にまして手探り状態になり「うわごとを口走ってる」かのような内容になるかもしれませんが、ご容赦のほどを。

 これまで30年以上慣れ親しんだ座標軸を叩き壊して、これからどうしていけばいいのか?断片的ながらいろいろ浮かぶことはあります。いろいろ取りまとめようとしましたが、一つ書いてる間に3つくらいまた分岐したりして中々進みません。そこで、まず先に、今浮かんでる断片だけメモ代わりに挙げておきます。

★これまで落っことしてきた、このグチャグチャした人間の心の迷宮にも関心を向けてみよう。しかし、それは強烈なネガティブな磁場があろうから、「あっちにイッちゃう」危険もあろう。

★また心の痛みを以前よりも感じながら、さらに高度な現実的事務処理をするので、心の負荷は今まで以上にキツくなるだろう。

★それでもやろうと思うのは、ほんの一瞬でもいい、一瞬だからこそ見える「キラキラしたもの」に触れたいからである。そしてそれを手に入れるためには、物象のみならず優れた心象が必要である。

★これまでの最大の財産は、妙にひねくれたり、あきらめたり、羨んだりせずに曲がりなりにも突っ張り通せたことである。後半生は、いろいろな面でパワーが落ちていくなか、このまま死ぬまで突っ張り通せるかどうかである

★いずれにせよ「ゲーム」は終った。これからはゲームではなく、本当の「戦い」が始まると思う。

★ただしその戦いは「テキトー」に展開される。

 なんのこっちゃか分からんでしょうし、自分でも天から降ってきた粉雪のような断片ですのでよう分からんです。ゆっくり考えていきましょう。1年でも2年でも10年でも。僕はもう時間を気にしない。






 いきなり最初から脱線しますが、その1、その2もかなり抽象的な話だったわりには、意外にも「私も同じように感じてた」という共感メールを結構いただきました。立場は異なれ、皆同じように感じておられるのでしょうか。

 「その1」でもチラッと触れましたが、考えてみれば日本と日本人自体がこれまで「ゲーム」をやってきたようなものなのかもしれません(まあ日本人に限らないけど)。経済成長だ、マイホームだ、バブルだ、今度は資格だキャリアだ、「明日は今日より一歩前進」という「A地点からB地点へ」ゲームをしていたと言えなくもないです。

 で、もうこれ以上は頭打ち。僕が個人の年齢的に折り返し点を過ぎたかのように、日本社会も折り返し点を超えたと思います。堺屋太一さんの言葉でいえば「うつむき加減の世の中」になると。

 そうなると、「何かやることが無くなっちゃった」かのような気もしてきます。同じく堺屋氏は、今後の指針は「自尊好縁社会」だと言っておられるわけですが、早い話が各自が好きな道を好きな人達と楽しんでいけばいいんだよということなのでしょう。

 そう言われてパッと思い付くのは、「趣味に生きよう」とかいうことでしょう(こんな大雑把なことを同氏は言ってないのですけど、それはともかく)。経済成長ゲームが終われば、それから先はのんびりゆったりやりたいことをすればいいじゃないかということで、これはこれでモットモな話だと思います。




 しかし−
 こんなこと言っていいのか知りませんが、「さあ、これからは好きなことやろう」「趣味に生きよう」というのって、なんか息苦しくないですか?趣味とか好きな事とかいうのは、「じゃ、これから始めましょう」といった改まった所からは出発しないような気がします。

 そりゃやり始めてしまえば、どんなものでもそれなりに面白くなっていくのでしょう。でも、高校のときロックにハマっていたのも、「さあ、ひとつ音楽でも趣味にするかな」なんてところからは出発してません。そんな高校生いるわけないと思うけど、ハマってるときは、それが「趣味」であるとか、「趣味をやってる自分が好ましい」であるとか、そんなこと全然考えないです。もう背中から濁流に押し流されるようにイクときはイキますもんね。




 「趣味に生きましょう」という方針は、どことなく官僚が作った「市民の憩いの広場」のような匂いがします。ちょっとしたオープンスペースがあって、噴水があって、街路樹があって、ベンチがあって、、という。そりゃ、そういう広場があった方がいいという理屈はごもっともな話でありますし、綺麗にまとまってはいるのだけど、実際、市民はそんなところで憩ったりしない。放置自転車の山になってたりします。

 で、ホンマの市民はどこで憩ってるかというと、そもそも「市民」なんて最大公約数的な人間実在なんてある筈もなく、その実態は「予備校生のたまり場」「オッチャンの息抜きの場」「買物帰りのおばちゃんのパチンコ」「OLに人気のケーキの美味しい喫茶店」「コンビニ前のウンコ座り」、、、というのが本当のところでしょう。そして、それは「憩う」というよりも「棲息」という日本語が似合うような感じで人々は居るのではなかろうか。

 それと同じで、「趣味をもって充実した日々を」と言われても、どっかしら空々しい気がします。小奇麗にまとまってる分、アーティフィシャルな気がする。どこが嘘臭いのかといえば、とっかかりが人工的だからでしょう。例えば釣でも、友達に誘われイヤイヤついていったらハマってしまったみたいに、まず面白さにガーンと襲われる→闇雲にやり出す→しばらくしてから「ああ、これって趣味といえば趣味なんかな」とぼんやり思う、というがホンマの順番だと思うわけです。ガーンと襲われる前に「ほな、やろか」という部分が嘘臭いんだと思います。これは、「趣味」を「恋」に置き換えてみたら分かりやすいでしょう。

 勉強や仕事と違って、「やろう」と思ってやった趣味や恋愛って結局モノにならんような気がします。あれはもう、ある日突然天から降ってくるようなものなのでしょう。そんな地下鉄走らすような計画的営みではなくて、自縛霊にとりつかれるような宿業的なものだと思います。





 しかし、とっかかりの嘘臭さ云々以前に、そもそも仕事ばっかりしてたら出会うチャンスもないではないか、無人島に暮していたら恋もヘチマもないだろう。だから、無理矢理始めなくてもいいから、取りあえず無人島から出て町に住むくらいのことはしたっていいんじゃないか、そこで自然なとっかかりを待ったらいいじゃないか、ということは言えると思います。だから「これからはゲームはやめて、趣味に生きよう」という方向性も、そういう具合に理解すれば、確かにひとつのオルタナティブとしてありうるでしょう。

 これは分かります。それでも、もう一つ今の自分にはピンときません。仮にナチュラルに面白い趣味にハマッて、湖面に向って嬉々として釣り糸を垂らせば、それで今抱えている問題はきれいに解決するかというと、「うーん」と考え込んでしまいます。

 もしかしたら、根本的な疑問として、結局それって「A地点からB地点」というのと同じじゃないかという部分があるからかもしれません。「充実した日々を送りたい→趣味を持とう」という、何らかの目的を設定して、またぞろ頑張ってしまうのではないかと。これも一種のゲームじゃなかろか、あんまり変わり映えしないのではなかろかとか。

 もっといえば「面白かったらそれでいいのか」「充実してればそれでいいのか」という部分に疑問をもっちゃったのでしょうね。そーゆーことじゃなくて、もっともっと抜本的なこと、恋愛初期に見慣れた町が全然違って見えるような、森羅万象の見えかたが変わってくるようなこと。それを模索しているのでしょう。

 逆に言えばそれが出来てはじめて趣味でもなんでも心から楽しめるんじゃないかと思います。それなしに趣味などに走ったとしても、仮にそれがメチャクチャ面白かったとしても、どっかしら誤魔化してるような気分が抜けないんじゃなかろか。それに、今の自分が趣味やっても、またぞろ妙に頑張ってしまいそうな気がします。それじゃ意味ないんだって。



 さて、「じゃ、どーすんのさ」という話に続きます。天から降ってくる様々な断片について、あーでもないこーでもないととりとめなく考えてみたいと思います。


 まずは「心象世界薄弱な欠陥人間とその改善」という点について。これは、「人間の心」というものの、理不尽で、非論理的で、時には暴力的でさえある動きに注意を払おうということです。

 ところで、前に述べたように、僕の感情というのは、どちらかといえば整理されてる方で、無闇やたらと落ち込んだりドロ沼化することはないです。

 だから、−多分「だから」だと思うけど−、自分の人生で悩んだことはそんなにないです。「考えたり」「迷ったり」することはあるけど「悩む」ってことは、経験ないです。よく人生相談とか、そこらへんの生き方読本みたいな本がありますが、あんなの読んだりする気持というのがよくわからなかった。また、他人からよく相談を持ち掛けられることはありますが(どうもそういうタイプのようです)、自分から他人に相談しようと思ったこともないです。他人に言うときは、もう既に決めたことを得々と説明したりするような場合だけ。

 今だって、別に考えているだけであって、別に悩んでいるわけではないです。車を運転していて道に迷って、「あれ〜、おっかしいな、どっちかなあ」で考えこみますが、それは考えたり、迷ったりしてるだけで「悩んで」いるわけではない。ハッキリいって「悩む」という行為の意味がよく分からない。そりゃ生きてりゃいろいろありますし、同時に二人の女性を好きになってしまって、あちらを立てればこちらが立たずで「ぐわ〜」というときもありましたが、そのときも別に「悩む」って感じではなかった。「何がベストなんだろう」で頭を振り絞って考えたりはしましたが、「どうしていいのかわからない」状態で目茶苦茶になりはしなかった。

 もっとも、こんなのは言葉の定義の問題で、僕が「考える」といってる状態のことを他の人は「悩む」といってるだけかもしれません。その可能性は大いにあるでしょう。ただ、自分としては、「悩む」というと「困難な状況に陥っていることを辛く思う気持ち」という、どちらかといえば心情的色彩が濃くて非生産的なイメージがあり、「考える」というと「困難な状況を打破しようとして色々模索する」という理性的で生産的なイメージがあります。で、僕の場合は後者の傾向が強いと思うわけです。

 両者を分かつ分水嶺は何なのかはよく分かりませんが、「悩まないで考える」タイプの根っこには「何とかなるんちゃうか」という楽天性があるのかもしれませんし、「絶対に何とかしたる」という執着があるのかもしれない。あるいは全く正反対に「ならんかったら別にそんでええわ」という淡白さがあるのかもしれません。

 ようわかりませんが、「何ともならんかったらしゃーないけど、大抵のことは何とかなるんちゃうか」と思えるからこそ、何とかしようとする。だから悩むのではなく、「考える」と。これが絶対に諦めきれず、且つ救いがないと思えてしまったら、やっぱり苦しむしかないでしょう。サファー(suffer)するしかない。




 僕みたいなタイプは、他人から見れば「ほっておいても勝手にやってくタイプ」でしょうから、手が掛からなくて便利でしょう。夜中にいきなり電話かけてきて、何時間も泣きながら訴えるようなことしないから、楽ですよね。たしかに「楽」とはよく言われましたわ。

 そうやって自分も相手も楽なのはいいのですけど、今は「だからこそオレはアカンのじゃ」と思ってるわけです。

 なんでかというと、前回まで述べたような心象世界が薄くなるとか色々ありますが、もっと具体的で手っ取り早い話でいえば、まず「楽でない人」の苦しみがよくわからなくなります。これ、やっぱり良いことではない。徒然草の吉田さんも言ってますが、やたら健康な人というのは「友とするにわろき(悪い)人」であると。健康な人は病弱な人の苦しみがわからないから。




 オウムのサリン事件のあと、その被害にあった人が神経や身体に変調を来たすという、ポストトラウマ症候群が言われています。これも世間の無理解によってさらに悪化してしまうとも言われています。遠く離れて見てる分には、周囲の連中はなんて冷たい奴らなんだろうと思ってしまいますが、でも身近におって、大事な仕事をすっぽかされたりしたら、やっぱり僕もツラクあたってしまうかもしれません。いや、多分そうしちゃうだろうな。その苦しみが分からないから。

 だから、「自分には分からん世界や苦しみがあるのだ」ということを知ることが大事なんだろうなと思うわけです。その世界を理解しようとしても、なかなか体験者のように理解できないでしょうが、少なくとも「そーゆーことってあるんだ」ということを、どこまで切実に想像できるかと。




 余談ですが、離婚事件などの裁判で、女性の裁判官の方が女性にキツいと言われたりします。詳しい実証的研究があるわけではありませんが、俗説としてはそういうのがありました。そのココロは、離婚にせよ何にせよ、事件というのは大体においてハタから見ればどっちもどっちというケースが多いです。離婚にしても、カミさんの側にも夫婦生活をぶっ壊したそれなりの問題があったりします。で、その女性が離婚にあたって「私は仕事なんかしたことないし、これからの生活が不安だわ」と色々な請求をした場合、同じ女性の裁判官からすると、「あんた、なに甘ったれてるのよ。私だって頑張ってるのよ」という心理が幾分働いて、あまり同情的にはならないということです。これが男性側だと、「女手ひとつで、それは大変でしょう」と、よく分からないだけに妙に同情的になってしまうという。

 この俗説が真実かどうかは分かりません。ただ、ここではそのことの真偽ではなく、一般的にそういった心理傾向というのはあるだろうなということです。それは、過度甘ったれてる人に対して不快に思う気持ちがどーのということではなく、「自分だって頑張ってるんだ。だからアンタも頑張れ」という気持、もっといえば、「世の中には自分と同じように頑張れない人もいるのだ」ということをついつい見落としてしまう危険があるということです。出来ない人の苦しさが分からない、「強者の死角」に陥る危険です。




 これ、どこまでが甘えで、どこからが本当に大変な問題なのか見極めるのは難しいですよね。ハッキリ言ってこれがスパッとわかったら、世の中の問題ほとんど解決するんじゃなかろか、という気すらします。

 例えば、神戸の地震のあとでも、いっくら頑張ってもどうにもならない人もいる反面、「いつまで被災者ヅラしてるんじゃ」という人もいる。この非難は、同じ被災者である神戸住民からの方が強かったりする。「俺も頑張ってるんだから、オマエも頑張れ」というのは、一見美しいのですが、でもすごい恐い。でも本当に被害者意識に胡座かいてる人だっているかもしれない。

 あるいは、登校拒否する子供に対して、「甘ったれるな」と厳しくすべきか、その悩みを共有しようとして優しく接するべきか。前者に出て自殺でもされたら「子供達のシグナルを見落とした」と非難され、後者にしたら「甘やかしすぎ」と非難される。その子が100%努力してもどうにもならないことで悩んでいるのか、それとも努力するのが嫌だから甘ったれているのか、その見極めは非常に難しいだろうなと思います。現場でほんまに判るんかいな?多分分からんだろうなという気がします。




 その人の心の巣食うゴチャゴチャした悩みを理解できないと、その人のことが鬱陶しくなります。「ポン!と決めてバン!と実行すればいいじゃん、もう、何グデグデやってんだよ」とイライラします。相談に乗って、何時間もあれこれ語り明かして、これがベストだという結論に達したにも関わらず、いざ実行の段になると、「やっぱり、本当にこれでいいのかなあ」とまた元に戻るなんてことに延々付き合わされると、いい加減イヤになってきます。で、ついキツくあたってしまったりする。

 無理ないといえば無理ない話なのかもしれない。しかし、こう考えてみたらどうでしょうか。その人は単に優柔不断で悩んでいるのではない、決断力だって決して劣るわけではない、ただ自分には見えない色々な物が見えるからその調整に手間取って居るのだ、と。

 決断なんて、考えてみれば無知でアホな奴ほど簡単に下せるのかもしれません。赤提灯で一杯やってる議論にしたって、下っ端の奴ほど威勢のいい簡明な強硬論を言うでしょう。サークルにしても上に立つほどに考えなければならないことが増えるから、中々決断が下せなくなる。なぜか、視界に映るもの、考えなきゃならないことが増えてくるからです。




 年頃の少年少女は、わたしは愛に生きるのとか、アーティストになるとか言います。そのために学校を中退しようとしたり、いきなり結婚しようとしたりします。しかし、世間の親は、「よく言った!頑張れ!」とそんなに簡単に決断できない。その夢は素晴らしいことは認めつつも、「取りあえず学校だけは出ておきなさい」とか言ったりします。

 世間の親が子供に「勉強しろ」というのは、総合的に考えてそれがベストだからでしょう。子供は世間知らずだから勿論反発するでしょう。でも、大人になると、嫌でも判ってきてしまうこともある。才能によって成功出来る奴なんか、ほんの一握りであることを。それこそ血みどろの努力、学校で首席取るのの100倍以上の努力をして、且つ幸運に恵まれた人だけがそうなることを。それで後で軌道修正がきけばいい。しかし、多くの場合、世間は冷たい。敗者復活のチャンスがそうそう転がっているものでもない。夢破れて、上目遣いに世間を見上げ、自堕落になり、人を羨み、ひたすら怨嗟的になっていく、どんより濁った瞳で周囲の悪口を延々と続ける昔の友達なんぞに久しぶりに会った日には、「ああ、世の中甘くないなあ」と実感したりするのでしょう。

 学歴だって、それがあるのと無いのとでは生涯年収で億単位で違ってくるよ、家まで車が迎えにくる生活と、50才過ぎても職安通いをする生活とどっちがいいの、ホテルの受付の態度も、結婚式での扱いも、いちいち全部違うよ。意味なく馬鹿にされ、悔しい思いを1週間に3回づつ味わうことになるよ、自分の子供のような年の奴に「おっさん、これやっといて」と虫けらのように扱われることもあるよ、それでもいいの?と。

 「それでもいいんじゃ!」と言えるのが本当の決断なんでしょうが、もしかしたら、そこらへんが全然見えてなくて、ポンと決めてるだけかもしれない。見える奴は、やっぱりそこで「むむむ」と考える。だから決断が遅くなる。それは決断力がないからでも、その人がグズだからでもない。簡単に決めちゃう方が阿呆なだけだったりします。大体、勢いだけでよく考えもせず、イケイケでやって足腰立たなくなるほど打ちのめされたのが、太平洋戦争であり、バブル経済でしょう。

 ちょっと付け加えておくと、これら一切のネガティブなことを考慮に入れても、なお僕は決断すべきだと思います。完璧を目指したら人は何もできないし、生きていけない。決断とは、答が見えてからするものではなく、答が見えないままするものなのでしょう。絶対に大丈夫なことだけを選択してもそれは決断とは言わない。

 頭の中にある自分の理想像を現実世界にコンバートするとき、その予想図面は嘘のようにミジメに収縮します。華やかなアイドルを夢見ても、目の前の現実はドサ廻りの営業であり、デパートの屋上であり、ぬいぐるみだったりします。それが嫌だったら決断は出来ないし、決断を避けていては死ぬまでゼロのまんまです。そして何もしなかった奴だけが何に対しても評論家になれるのでしょう。何かを決断し実行することは、何かに傷つくことでもあります。決断とは、現実のカッコ悪さを引受けること、それは即ち結果も含めてオノレの阿呆さを全部引き受ける行為だと思うからです。だから物が見え過ぎて「むむむ」と悩むのはいいのですが、いくらネガティブなものが見えていたとしても、最後には何らかの決断を下すしかないと思います。




 話をもとに戻します。心象世界が乏しい奴は、心象が豊かな人が悩んでいるのが判らない。その人は、まさに人間として正しく悩んでいるのかもしれないのだけど、分からん奴にはただのグズに見える。

 妙な比喩ですけど、僕は「雪が見えない人」なのかもしれない。雪が積もると歩きにくいです。30センチ積もっただけでも、まとも歩けない。そうやって、足をとられ一歩一歩ズブズブ歩いている人がいたとします。それが心象が豊かで悩ましい人です。でも、雪が見えず、普通の地面と同じようにしか見えない僕には、その人が遊んで踊ってるようにしか見えない。で、「なにをグズグズやっとるんじゃい」という具合に映る、と。

 



 今、話は、心象世界と物象世界のせめぎ合いについて、入口付近をうろうろしています。この入口は馴染みのある入口です。それは、「消費・物質社会から心の豊かさへ」という、非常に取っ付きやすいメジャーな議論にも繋がる入口です。だがしかし、入口は簡単だけど出口は無い。

 僕はこれまで「心の豊かさ」なんてフレーズには無頓着でした。そのフレーズにグッときたことはない。それは現実を変えていくプロセスに自己実現を見出していたという物象世界重視の姿勢にからくるものでしょう。しかし、心象世界に興味を覚えた現在においても、今までとは別の理由でグッときません。なぜなら「心が豊かになる」ということは、別の言葉でいえば「気が狂う」ということでもあると思うからです。

 心が豊かになる、心象世界が充実してくるということは、見えなかった雪が見えてくることもでもあるのでしょう。確かに雪は美しい。しかし、同時に生産性を破壊し、ときには人の命すら奪う「白い悪魔」でもある。心が豊かに、感受性が鋭敏になって得られるのは楽しいことばかりではない。むしろどちらかといえば、ネガティブなことの方が多いのではなかろうか。

 それでもいいのか、そのあたりのことを引き続き考えてみたいと思います。



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1998年11月19日:田村
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