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僕の心を取り戻すために(2)

ゲーム性現実過剰適応症候群



(承前)最近思い付いた尾根道脱出の話からでした。


 簡単に言っちゃえば、僕が今まで生きてきた方法というか、根本原理というか、フォーマットというか、とにかくそういった根底的なものを変えようということです。

 僕はこれまでずっと「ゲーム」をしていたと思う。さきほど「海外修行ゲーム」とか書きましたが、煎じ詰めれば、みーんな「Aという結果を出すためにBという行為をする」ようなことばっかりでした。例えば、法曹資格取得という結果が欲しいから司法試験の勉強をする。何か新しく面白いことをしたいから海外に出るとか。目標定めて、時には10年かかりで、時には緻密に、時には猛進して結果に辿り着く。そのスリリングな経過を楽しむという、ロールプレイみたいな、双六みたいなものです。要するにゲームです。

 それは別に悪いことではないでしょう。「いい大学→いい会社→いい生活」なんてのは典型的ですが、バンド組んでメジャーデビューするのも、山登りの計画立てるのも、なにか市民運動をするのも、ゲームといえばゲームです。あるゴールを目指して、全知全能傾ける快感とやり遂げた達成感というのは何物にも代え難いと思います。全然悪いことではない。

 ここで個人的にフラッシュバックのように、大学時代読んだ刑法の教科書を思い出しました。その昔のドイツの学派で、早い話が人間の「行為」は全て「目的」があるのだとするもので、目的的行為論とかいったと思います。「空腹を満たしたいから→ゴハンを作る」みたいに、どんな些細な行為にも何らかの「目的」はあると。まあ、そう言われればそうかもしれない。だから、どうしたってナチュラルにゲーム性を帯びてくるのかもしれません。




 しかし、と思いました。
 そんなことばっかりやってると、人間ぶっ壊れてくるよ、と

 ゲームだの、目的達成だのやってれば、確かに戦略やらダンドリ立てるのは上手くなるでしょう。日々の行動に迷いも少なくなるし、「今なぜこれをするか」ということが全部明瞭にもなるでしょう。忍耐力もつく、自信もつく。成功のための「サムシング」、例えば「素材」「環境」「技術」「意思」の4要素を掛け合わせてMAXにもっていくような手順が必要なんてことも、何となく分かる。

 それはそれでいいんだけど、でも、どこまでいってもゲームはゲームに過ぎない。そんなことばっかりやってたら「自閉症」になっちゃうし、現に俺はそうなってるんじゃないかと思いました。

人生の主体性=ゲームへの過度の傾斜

 ところで、あなたは、他人に自分の人生の通信簿をつけられるのはお嫌いでしょう?「うーん、君なかなか頑張ったね。学校も会社もいいセンいってるね。はい、83点」なんて言われたかないでしょう? 僕、それが昔っから大嫌いでした。今でも嫌いです。だからその反動として、「俺のことは全部俺が仕切る」という具合になって、自分なりの価値観を通して、何をなすべきかの大目標、中目標、小目標を設定し、自分で決めた方法を貫き通すと。他人がそれをどう評価しようが別にどうでもいいし、参考意見にすらならないと思ってました。

 でもそれが昂じると、人生のこと全部、頭のなかで作っちゃおうとするのですね。すごく観念的になってきてしまう。無論やってることはモロに現実的なことをしてるわけで、むやみに夢見たりはしない。いつも考えてるのは、超具体的な手段−目的のダンドリのことです。「○○になりたいな」と思ったら、いきなり本屋にいって情報を集める、金のやりくり計算をする、考えるのはそんな具体的なことばかりです。であるにも関わらず、これはものすごく「観念的」です。だんだんと生きていくリアリティというものがなくなってくる。自分がなんかサイボーグみたいになっていってしまう。

 言ってる意味、わかります?
 それに気付いたら、尾根道が消えました。




 結局、最初に頭の中で書いた青写真がほとんど全てのベースで、現実はその青写真をトレースしていくだけという意味で「観念的」なんです。もちろん目論見通りことが進む筈はなく、滑った転んだの紆余曲折はあります。青写真のとおり事が運ぶなんてことはまず無いです。それでも大きな意味では、全てのことは「A地点からB地点へ」という自分だけのゲームの一場面でしかないわけです。途中の変更はあろうが、アドリブが入ろうが、大きなテーマは一緒。どんな現実に遭遇しても、「頭の中のチャート上の一点」という以上の意味づけはなされないわけです。

 あるマラソン大会でゴールポストが置かれている場所は、例えば行政上の表示でいえば「○○市○○町○○番先路上」と表現されるでしょうし、東経○○度○○分でも表せる。また郷土史の観点でいえば作家の○○がよく散歩をした所かもしれないし、米騒動が起きた地点かもしれない。誰かの個人史的に言えば、「8歳の頃、チャリンコ乗ってて車とぶつかった場所」かもしれない。経済的に言えば、バブル崩壊後この界隈では最も地価下落の激しい地域かもしれない。植物学的にいえば、なんたらという花の北限自生エリアかもしれない。オカルト的に言えば地縛霊が集まりやすいところかもしれない。「そこ」には人の営みに合わせて無限に意味がある。

 でも、マラソンやってる選手にとってみれば、そんなの何の意味もない。ただの「ゴール地点」としての意味しかない。「ゴール」地点は「ゴール」という以上の意味はない。 それはスタート地点であろうが、10キロ地点であろうが同じです。

 それが悪いと言ってるのではないです。ただ、ある「ゲーム」をやってる人間にとっては、何らかの現実に接しても、自分だけのメチャクチャ限定された主観的な意味づけしかしないこと、それ以外の意味や現実についてはまるっぽ見えなくなりがちだいう話をしているのです。

 僕から見る現実世界というのは、全て自分の決めたゴールに行くための「環境」であり「素材」です。だから、ファミコンの画面に映し出される映像と同じなんです。ファミコンの画面で海のシーンが映し出されても、それは本当の海ではないです。当たり前ですけど。でも、現実の海を見ても、「海のシーン」みたいにしか認識されなくなってきたら、これはマズいと思うのです。自分がそれじゃないのかと思うようになったのですね。なんでも記号化しちゃう。

 旅行だってレジャーだって、「行った」「見た」「とにかく潰した」「一応押さえておいた」ということばっかりに意味が偏ってしまって、その現地の現実に自分がとっぷり浸かって染まってくるわけではない。そういうことってあるでしょう?

 頭の中に青写真書いて現実はそれをトレースするだけの意味しかない、というのはそういうことです。それじゃ本当の意味で現実に触れていないのではないか、と。生きてるリアリティが薄くなってしまうんじゃないか、と。観念的とか自閉症とかいったのは、そういう意味です。


 さらに、ゲームというのは、基本的に過程を楽しむもので、結果に深い意味はないです。もちろん「○○がやりたい」という結果にそれなりの関心はありますが、それが出来るようになるまでの一連のプロセスが面白いかどうかにむしろ関心の重点はある。「そこに山があるから登るのだ」みたいに、山の登る一連のプロセスが面白いのであって、別にその山頂で暮したいから登るわけではない。

 プロセスに意味が偏ってしまえば、達成はすなわち終了になります。また新しいゲームを考えないといけなくなるし、永遠に漂流しつづけることにもなる。


 こういった傾向は、大なり小なり誰にでもある傾向だと思います。でも、僕の場合は、自分なりのオリジナルなバイアス・歪みがかかりつつ、その傾向が人一倍強いなと思います。そうでなかったら、何だかんだグチを言いながらも、あのまま大阪で独立開業して弁護士やってたでしょう。確かに、意義もやり甲斐もそこそこの収入もあったでしょうけど、でも新しいオーストラリア・ゲームをやることに比べたら、全然惜しいとは思わなかったわけです。

現実への過剰適用が心をゆっくりと殺していくこと


 どうして自分がこんなゲーム性格になったのかは、長くなるので割愛しますが(いわゆる幼児体験がどーのという分かったような分からんような話です)、それに関連して今思うのは、どうやら自分は現実に「過剰適応」してるわとということです。

 大雑把にいって、この世には物象と心象があるとします。「物」と「心」ですね。で、人はみな物象世界と心象世界を持ってると思うのですが、その配合比率は人それぞれでしょう。ものすごく極端な例を挙げますと、美しい山の風景を見て「まあ、きれいね」というのが普通の反応ですが、心象に重心がいくと「おお、あの稜線は、まるで母のため息のようではないか」などと口走りますし、物象に重心がいくと「このあたりの山林は坪○円くらいだろうな、立木の方が値打ちあるな」と呟きます。

 心象世界が豊かであることは、普通の人が見えない物が見え、感じないものを感じるわけで、だから優秀な詩人やアーティストの条件なのでしょう。しかし、それが昂じると、あっちの世界にいっちゃう。「紙一重」と言われる所以でしょう。物象世界が豊かな人、あるいな豊か過ぎる人は、現実への適応が過剰になってしまって、心の潤いというものが枯れてきてしまう。

 現実への過剰適応というのは、現実的なダンドリやビジネスやら実務家にはある程度必要な資質なのかもしれないけど、過剰だとかえって現実離れしてしまう。そして、現実に上手くいけばそれでいいかというほど人間は簡単ではない。




 僕はそれほどバリバリの現実型人間ではないです。音楽や言葉などにそこそこ感受性はあるつもりです。また、こんなところに目算もなくやってきちゃってるわけですから、あまり現実的分別のある人間でもないでしょう。しかし、ある面では人一倍現実的です。最初の発想は非現実的だったりするのですが、そのあとのダンドリが現実的になるのですね。SF小説などで、設定だけが荒唐無稽で、それ以外の部分は異様なまでに写実的なのとやや似てます。で、時間的にいえば、発想部分なんか極端な話、ポンと思い付くだけだから1秒もあれば足りるので、実際の時間の圧倒的大部分は現実的なことやってるわけです。だからどうしても体質的に物象世界に過剰な親和性をもってしまいがちです。

 過剰適応のプラスでもありマイナス面でもある特徴としては、僕はそんなに精神的に傷ついたりすることはないです。そりゃ不愉快になったり落ち込んだりすることはあるけど、それ以上に「傷ついた」「心の深い悩み」「グチャグチャの泥沼」みたいなものはないです。これは多分、心のある部分の痛覚神経をどっかで引っこ抜いてしまったんだろうなと思います。単に鈍感というより無痛覚なのでしょう。

 僕は柔道やってましたが、その経験でいっても、一般に格闘技や武道(あるいはケンカ)をする人というのは、肉体的苦痛に強くなると思います。強くなるというより鈍感になります。その身体的メカニズムは分かりません。闘争心アドレナリンが分泌されるので痛覚に対する麻酔作用があるのかもしれないし、筋力や柔軟性が増すのでダメージを最小限におさえられるのかもしれません。ともあれ、殴られ慣れる、投げられ慣れるということはあるでしょう。ボクサーとか顔面から血をダラダラ流していたとしても、「血で視界が遮られて負ける」「スタミナがなくなる」ということはあっても、「痛いからもうやめる」というふうにはならないでしょう。

 それと同じようなもので、次から次へとやってくる現実に対処するためには、落ち込んでそこで処理能力を落とすわけにはいかない。試験では1時間目に大失敗したとしても、2時間目はできるだけ平常心で対処することが求められます。「気分転換が巧い」「気をとりなおして」とかいろいろ言われますが、いっくら精神的に辛くても、その苦痛を平然と無視することが求めらるわけです。しかし、大事な試験に失敗したと思ったら落ち込むのが当たり前です。それでクヨクヨして二時間目にさらに大ポカをやるのが人間です。そこで「平常心を」なんて求めるのは、非人間的でさえあります。「人間らしい心を殺せ」といってるのと同じではないか。




 会社を立て直すために多くの人をリストラしなきゃいけないなど、現実に結果をだそうとすればするほど、情に流されていてはいけない。感情に流されない、つまり感情に逆らい無視するということは、それだけ深く心は傷つくでしょう。「3000人リストラ」となんか文字にしちゃうと簡単だけど、リストラされた一人ひとりとその家族の生活難、人生の変更、さらに心に与えた傷痕というのは相当なものでしょう。先日翻訳紹介ましたが、オーストラリアでリストラ失業によって孤独になり、廃人化していく男達の物語などを見ても分かるように、その影響は甚大です。そんなこと一人ひとり考えながら、3000人のリストラなんかやってたら、普通の神経なら耐えられないでしょう。心がぶっ壊れますわ。

 それでもリストラはしなきゃ会社それ自体が潰れる。だから、やる。現実に上手くやっていこうということは、どこかしら人間の心に大きな負担が掛かるものなのでしょう。リストラなんて話でなくても、商品に欠陥があるのを知りながら売場ではガンガン売らなきゃいけないとか、「営業上の嘘」に忸怩たる思いを感じてる人も沢山おられるでしょう。でも、生きてくためには止むを得ないとして、ある程度心を殺さざるを得ない。

 僕はいま「不正を不正と思わなくなる」というモラルハザードのことだけを言ってるのではないです。それがまず間違いなく正しいことであったとしても、それ以外道はなかったとしても、それを断行するには心が痛むということもある、ということを言っているのです。「鬼手仏心」といいますが、患者の命を救うために足を切断しなきゃいけないとき、その外科医のメスは、鬼のように大胆で精確で無慈悲でなければならない。それこそ「心を鬼にする」ことが求められます。この現実に生きようと思えば、人の心は無傷ではいられないということです。





 かくして心のある部分を殺せるのは、ある意味では有能な実務家の条件なのかもしれないです。そして現実社会に生きていくうちに、あんまり「心が痛い」とは思わなくなり、麻痺もしてくるし、そのうち神経がなくなっちゃうのでしょう。

 でも度が過ぎれば、その分人間としてはおかしくなっていきます。「無い心は傷つかない」かのように、ある部分で真っ白な空白部分が生じる。現実を処理するのに夢中になって、過剰に適応するにしたがって、だんだん潤いのないマシンのように、サイボーグみたいになっていってしまう。戦場に出れば、人殺しなんて何とも思わなくなるように。

 同時に他人の痛みに対する共感も薄くなってくる。もちろん理性的には大変だろうなあというシンパシーはあるけど、ダイレクトな感情の共振という感じでもない。自分の心が傷つかない分余裕があるから、表面的には普通の人よりも多く他人のことを考えることもできたりもします。だから感情豊かで優しい人のように見えがちだけど、本当のところはどうなんかな?という気もします。理屈のうえで同情してるだけかもしれない。




 こういった現実へ対処は人によって色々なパターンがあるのでしょう。そもそも適応出来ない人、過剰に適応してしまう人もいるでしょう。また過剰適応であっても、人それぞれにパターンがあるでしょう。

 例えば、商売の上での倫理観が麻痺してくる人もいるでしょう。仕事熱心のあまり、家庭に対する感覚が麻痺してくる人もいるでしょう。病気で苦しむ人をみても、仕事は心がけてもいちいち同情してはいられないでしょう。

 これらは分かりやすいですが、僕の場合は、ゲーム指向への強さゆえに、「過剰整理症候群」というか「割り切り過ぎ病」というか、そういった部分があるように思います。


 ゲームをやる場合、多少の失敗にメゲていては勝てません。1時間目の試験に失敗したなら、なすべきことは一つ。「1時間目の失敗をカバーするために2時間目では1点でも多く取る事」です。落ち込むのは試験が終わってからでいい。無理矢理自分にそう言い聞かして、心の落ち込みを避けます。それこそが踏ん張りどころだと性根を据えようとします。なんによらず、失敗をカバーするのは、失敗によって傷ついた心を癒すことではなく、それを上回る勝利のみであると思い込むことです。それがベストなんだと、本当にそれしかないのだと繰り返し思うことで、逆に心の痛みは薄らぎます。

 現実のゲームに勝つためには巧みな戦略が必要なのでしょうが、それだけでは不十分で、作戦どおり「機械のように動く自分」が必要です。ところが人間そんなに機械のように動けません。ここ一番というときに、やれフラれたとか、何となく鬱だとかいって、思ったとおり動かなかったりします。でも、それでは困るわけです。

 だからそういった心という不確定要素の不確定のブレを出来るだけ少なくしようとします。別に意識的に集めたわけではないですが、その心の落ち込みを避けるためのテクニックはやたらあります。例えば心理学をかじって「それは外界への投射機制であって」とか分析しちゃいます。あるいは大脳生理学などを適当にかじって、「しょせん脳内神経鞘の電流パルスの伝播パターンであって」など人間機械論に走ったりします。

 あるいは、「いったい何が困るというのか、別に死ぬわけではなし。それで落ち込むというのは、要するに自分を過大に思ってたのにそうでなかったという現実が判明したわけであって、それだけ一歩前進したじゃないか。それとも嘘の世界で気持ちよく浸っていたかったわけ?」など、自分の心を徹底的に分解して、キリキリ理詰めで追い込んだりします。そうかと思えば、この広大な宇宙を思えば俺の悩みなど無に等しいとか思ったりもします。

 また、今置かれている状況でなにがベストか?ということを考え、そのためには取りあえず何をするべきかを考え、絞り込みます。あとはもう現実に動いちゃいます。人間の記憶もRAMみたいなもので、どんどん動いて新しい現実に触れ、新しい情報を仕入れればそれだけバッファから古い嫌な記憶は消えます。だから動く。落ち込むときほどとにかく動く。ああ、忘却作用を促進するためとにかく寝まくるとかいうテもあります。睡眠や夢というのはパソコンでいえばデフラグみたいなものだと思いますから。

 まあ色んな方法がありますし、だれでもやってることでしょうが、とにかく「とっととカタをつけてしまう」ということで、それを集中豪雨のようにやって、「12時間で処理しろ」みたいな世界になっていくわけです。大藪春彦の小説に、野望のために恋人の頭をうしろから撃ち抜くシーンがありましたが、そのあと主人公は恋人の死体を抱きしめ、「感傷が襲ってくるのを待った。抱きしめながら感傷が通り過ぎるのを待った。やがて感傷は去った」という描写がありましたが、そこまで極端に処理はできなくても、それに似てる部分はあります。

 そうなるとどうなるかというと、何でもかんでも割り切って整理するのが上手くなるだけでなく、ほおっておいても割り切るようになります。さらに、割り切れない小数点以下はバサッと無視するようになります。また「なんだか分からないけど今日は気分がブルーなの」みたいな「なんだか分からない」ようなものは「ゼロ」として扱うようになります。

 こうなると人間、単純になります。複雑な人情の機微なんてのも、「ほのかな恋心」みたいなポジティブ系のものはいいのですが、「もう自分が嫌になった」みたいなネガティブ系なのはわかんなくなります。「自分のここが駄目である」という客観的なデーターは貴重な情報ですのでインプットしますが、それに伴う落ち込みに関しては、「もともとろくでもない奴なんだから今更落ち込まなくてもいいだろ」とばかりに排除しちゃうようにしてます。

 これはゲームするには都合いいです。「今日中にこの本を読む」という計画に妨げる心という不確定妨害要素を排除できますから。かくして、ゲームに都合のいい身体になり、ますますゲーム傾向が強まり、その環境がまた心のメカニズムにフィードバックして益々単純になっていくるという。




 そういう性格だからゲーム的になるのか、ゲームが好きだからそういう性格になるのか、ニワトリタマゴですけど、まあ最初にゲームがあったのでしょう。小学校入る前はというか、生来的にはそんなパキパキした人間じゃなくて、もっと薄らぼんやりした人間だと思う。それが、まあ小学校低学年のとき担任の先生やら何やらで結構ヒドい暗黒のような時期があって、そこで自分を立たせて、なんとかしのぐためには、何でもいいから目標見つけて頑張って達成して、自分を確認して、快感を得て、、というゲームをするしかなかったのかもしれません。よう分からんけどそう思うし、それらしき記憶の断片もあります。

 で、そのまま、それが生きる基本パターンになっちゃった。しかも、そのゲームパターンは、受験にせよ、趣味にせよ、仕事にせよ、非常にプラクティカルで都合がいい特性だから、それでいいんだと思ってしまったわけでしょう。どっかでゲームを止めればよかったのだけど、ゲームの快感に勝るものがないだけに止まらずに今日に至るというところでしょう。




 そんなことばかりやってたら、確かに今の状況は尾根道のようにしか見えなくなるわけです。森羅万象をそんなに簡単に記号化してパターン認識のもとに整理しちゃえば、複雑な現実社会も、簡単に図形化できてしまうでしょう。また、ゲームはより面白くなるためにどんどんエスカレートしますが、しまいにはネタ切れにもなってくるでしょう。そんなこんなで、「なんだかなあ」という気分になってしまうでしょう。

 ここまでは分かりました。
 皮肉なことに、自分の過剰で偏向した分析癖と整理癖のおかげさまをもちまして、なんでこうなってるのかは、何となくわかりました。でもって、またぞろ「傾向と対策」みたいなプラクティカルな話になっていくわけですが(そこで自己嫌悪に陥るとかいうことは殆どない)、「よし、わかった。直そう」ということになります。





 この現状を打破するのは何かというと、まずもって「もうゲームはやめ!」ということですし、それに伴って「リアリティを奪回すること」だと思います。

 目の前に映ったことを、いちいち意味付けしたり記号化したりし過ぎないことです。何かことある度に、知識のコレクションが増えたとか、目標達成率が1%増えたとかいう形で、いちいち翻訳して意味づけして、それで喜ぶというのは、やっぱ「生き物」として異常だわ。もう止めようということです。これを感覚的にさっきの話に戻すと、「面白くなくたっていいじゃん」「別にワクワクせんかてええやん」ということになります。

 さきほど第一の方向〜第三の方向を言いました。で、これは第四の方向だと思います。第四の方向というのは、そもそも「方向」という概念を殺すということでした。それは、そうやって人生をパターン化記号化してしまうことは止めるということですし、ゴールを設定することも止めるということです。もっといえば、そういった「位置感覚」、常にA地点からB地点に向っているかのように思うという感覚は錯覚だということであります。はたまた、「道」なんて勝手にそう思い込んでるから「道」に見えるだけで、月面上に道がないように地球にも道なんかないのだと思う事でしょう。

 そうやって座標軸をはずしてみて、それまで「移動物体A」だった自分を「存在物体A」という具合にアイデンティフィケーションのフォーマットを書き換えて、それで何が見えるか、です。高速で移動するために邪魔だったので切り捨ててきた僕の心のある部分を取り戻すために。


 とりあえずここまで書いておきます。これを書いたあと、またどんどん続きが出てきているのですが、あまり長すぎるのもなんですので。また、書きます。




1998年10月27日:田村
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