シドニー雑記帳



日本に行ってきました(その3−後編)




    (承前)


     一方、男にしたって、これまでは、多少の不満や悲哀はありつつも、大企業に入れば、あとはエスカレーター式に収入も上がるということであれば、そら仕事は大変かもしれないけど、根本的に物考えなくていいから楽ではありました。余った部分で消費三昧やってればいいということになります。ところがこの「エスカレーター方式」がこうも怪しくなってきて、「もしかして来年は失業してるかも」という世の中になれば、面倒臭い根本部分をいっつも考えなければならなくなります。

     これまでだって、高校のとき理系にするか文系にするか、進学するか就職するか、進学だったらどの学校にするか、就職だったらどの会社にするかという人生の大きな選択肢があったりしますし、その選択肢を実現するために、受験戦争やら就職戦線やら、戦争類似のハードな状況があったりするわけです。で、会社入っても次から次へと段取を考え続けなければならないよという状況は、言うならばこの戦争が一生続くよということを意味するでしょう。ハードですね。

     同時に、時代の変化に伴う激震のようなものも局所的に起こってくるわけです。早い話が、倒産、失業、一家心中の類です。




     ハードはハードなんだけど、でも、このテのハードさというのは、男にとっては馴染みがあるハードさというか、まんざら居心地悪くないのではないか?こんなこと言うと「なにをアホな」と怒られるかもしれませんが、でもねえ、彼女をゲットするためにクリスマスイブに10万円もかけてシナリオ書いて演出して、、という面倒臭さに比べてみれば、男としては馴染みやすいのではないですか?まあ人によるだろうけど、僕はそうです。女に気に入られるかどうかで決まっていく社会よりも、ケンカが強いか弱いかで決まっていく社会の方が分かりやすくて好きだわ、僕は。

     だから、男連中は、そういうシリアスな話を好むのでしょうし、「最近日本は?」と聞かれればそっち系の答になり、「オリンピックすごかったよ〜」話にはならない。だから、一般論として、次の時代をリードするのはそういったシリアスなハード環境に慣れている、そして実は内心ウキウキしているようなオッサン達だろうなと感じたわけです。

     「内心ウキウキしてる」なんて又ぞろ妙なことを口走ってます。でも、エスカレーターは楽といえば楽なんだけど、牢獄といえば牢獄とも言えるわけで、牢獄にいれば三食ついてくるけど脱獄したら誰も食事の世話をしてくれないだけの話じゃないかとも考えられるわけです。

     安定していた社会が乱れてくるにしたがって、資本主義の荒々しい骨格原理(それは生存競争という生き物の原理でもあるでしょう)が再びミもフタもなくむき出しになっていくのでしょう。笑みを絶やさず社交界を遊泳してればメシが食えた時代から、槍一本もって食い物の調達に走り回る時代に移りつつあるのかな、と。和歌が詠めなきゃ生きていけなかった平安時代から尚武の気風あふれる鎌倉時代になるように。だから男達としては、口では「大変だ」と深刻ぶりながらも(実際深刻なのだけど)、内心ウキウキしているのではなかろうか、と。

     これ、ものすごく大雑把な話です。男だってそうじゃない奴、女だって乱世を好む奴は幾らでもいるでしょうが、あくまでマクロの話です。




     そう感じた理由は他にもあります。見聞録その1で書いたように、その当のオッサン達が変わりはじめてきているなということです。安泰なサラリーマン生活を否定されて呆然と立ち尽くしているかという、まあそういう人もいるのでしょうが、必ずしもそうではない。着々と次の手を打っていたり、考えていたりします。思い返してみれば、会った友達連中(=オッサン連中)で、既に転職、退職、独立したかこれからしようと思ってる人の占める割合は80〜90%にものぼりました。「いや、実は数年先には〜〜の方向をやってみようと思ってるんですよ」という類の話は結構聞きました。

     会話時におけるこの種の空気やテンションというのは、昔何度か味わったことがあります。高校3年のとき「俺、もう国立一本にしぼるわ」と言ってたアイツの顔、大学のとき「司法試験もいいけど、俺、やっぱ教職にするわ」と告げたアイツの顔、研修所の頃「色々考えたんだけど、検察官になるわ」と言った顔、顔、そして雰囲気。あの感じ。



     そうそう思い出した、もう一つあります。3年前永住権とってシドニーに行くときは、「ふ〜ん、いいなあ」とか「どうやって生活すんの?」とか、まあ他人事としてのリアクションが殆どでありました。でも今回帰ってきて、「オーストラリアで一ヶ月生活するのに幾らくらいかかるの?」という質問を何度(少なくとも3〜4回以上)も受けました 。話が妙にプラクティカル・実践的になってるのですね。

     生活費幾らかかるかを聞いて自分もすぐにオーストラリアに行くわけではないでしょう。でも、遠い世界のお伽話を聞くというスタンスから「情報を収集する」という具合にシフトしつつあるかな、とは感じました。もっといえば、「そういう選択肢もありうるから一応聞いておこうか」「自分のライフプランを立案するための比較の材料を聞いておこう」という、ある種の真剣さがありました。逆にいえば、そうやって自分の生活設計を抜本的に考えようという雰囲気が出来つつあるのでしょうか。




     いや、実際、「ふ〜ん、日本も面白くなってきたかな」と思いました。確かに「大変な時代」なんですけど、自分も弁護士途中でスピンアウトしてオーストラリアに大変なことをしてしまった実感でいえば、「大変なことをする」のって、実はすごいウキウキするのですね。メチャクチャ楽しかったりもするのですね。いや、顔つきは深刻なんだけど。あの、子供の頃、台風が来るというので懐中電灯持って布団に入ってたときみたいに、妙にウキウキしてしまう感じってあると思うのですけど、ないですか?それどころではないですか?

     また余談ですけど、ジャパン・ペシミズムとか、「もうダメだ」的な話が絶えず流れてますが、あれも穿った見方をすれば、ウキウキしたいから、盛り上がりたいからやってるのではないかと思ったりもします。





     しかし、全員が全員そうやって密かにウキウキしてるわけではない。そんなの一部でしょうし、昨日と同じように生きていこうという人だって沢山いるでしょう。で、ウキウキ派の対極というか結局は表裏一体だと思うけど、「死んじゃおっかなあ」と思ってる男達も、実は沢山いるように思います。

     これは人に死生観にかかわるので軽々に言うべきではないのかもしれませんが、一般に野心が強かったり面白いことが人一倍好きな人って、同時に厭世感や虚無感も人一倍強いと思います。早い話が「面白かったら頑張って生きるけど、面白くなくなったら死んじゃう」という。




     先日、元X Japanのhideが自殺しました。個人的に好きなギタリストだったから(ソロCDも持ってるしコピーもした)、すごいショックではあったけど、同時にすごい納得もしました。それはXが解散したからとかそんな話ではない。直近のインタビューなんかも読んでたけど、精力的にレコーディングの予定立てたり、ラジオ番組入れてたりしたそうで、要するに「さあ、バリバリ頑張るぞ」という態勢だったと思います。でも死んじゃった。

     この報せを読んだとき、数年前に一番親しい友人が自殺したときのことを思い出しました。そのときも「なんで?」というのと「ああ、なるほどね」と思う気持ちがせめぎあって収集つかんかった。




     死者の気持ちなんか遂には分からんし、分かると思う事自体が侵してはならない人の聖域を侵す傲慢さにつながると思うのですが、もし僕が彼らの立場だったら、ひょっとしたら死んでたかも知れないなと感ずるところはあります。

     自分があの立場で死ぬとしたら理由は一つ。要するに「詰まらなくなっちゃった」のでしょう。シラケちゃったというか。色々やりたいことや、やるべきことも思い付くし、それを実現できる力もあるのだけど、何をどうやってもソコソコ楽しいだろうけど、ソコソコしか楽しくないだろうなという、その「ソコソコ」感が嫌というほど見えてしまったのではなかろうか。僕が同じ立場で死ぬとしたら多分それでしょう。

     ハタから見てれば何が不満なのよ?ということになるかと思います。
     でも、自分自身そういうところがありますから、分かる気はするのです。代償的に金使ってブランド品買い漁ったり美味しいもの食べたりするということでは全然満たされない。そんなの全然面白くないわけです。

     なんか、物質的快楽よりも精神的快楽の方に傾きすぎちゃってる、一種の奇形なんかなと思ったりもするのですが、なんか日々の餌が美味しいとか少ないとかいうことよりも、水槽を辿って泳いでいって、この水槽(世界)が有限だということを悟った瞬間死んじゃう金魚みたいに、妙な生き物だとは思うのですが、人間ってそういうときに一番死ぬんじゃないでしょうかね。




     ここのところ日本でも多くの人が自殺してます。まあ、対外的に進退極まったり、因果を含められたりというのも多々あるでしょうが、揃いも揃って男ばっかりですね。もともと中年男性というのが一番自殺率高かったと思うのですが、これもっと増えると思います。イヤな話なんだけど。

     これも偏見かしらんけど、男の方が女よりも地に足がついてないというか、物質的な感覚が希薄なのかもしれません。「存在」ということの力強さを知らないというか、「生きる」ということを基本的にナメてるというか。生物学的に極論しちゃえば、雄なんかそんなに数要らないわけだし(男が一人いれば生涯に1万人でも子供作れる)、存在自体が余剰だったりするから、もともとあんまり「やること」がない。だから、暇があったら殺しあったり、競いあったり、生涯賭けて芸事を極めたり、いろいろやるのでしょう。必死になって暇つぶしをしているだけで、暇がつぶれなくなったらアウトという。
     男の場合、単に自分がこの世に存在してるというその存在感だけでは中々満ち足りることが出来ないという、面倒臭い不安定さがつきまとってる気がします。絶えず何かやって退屈シノギをしてるというか、面白がってないと、「別、俺生きてなくてもいいかも」とかポッカリ空洞が空いてしまうという。これがペットだとしたら「詰んないのが3日続いたら死んじゃうから絶えず面白がらせておきましょう」という厄介な生き物だったりするわけです。太宰治をはじめ自殺した男性作家は山ほどいるけど、自殺した女性作家っていましたっけ?女性の人って、「詰まんないな〜」だけでは自殺しないような気がするのですが、僕は女性でないので分からんのですが、どうですか?




     で、話は戻っていくのですが、エスカレーター式でなくなって、「自由にやったんさい」的な世の中になっていくと、それによって面白さは倍加する反面、面白いことを思い付くのをしくじってしまう人も沢山でてくるでしょう。そうなると「詰まんないな〜」で死んじゃう男も結構出てくるような気がします。

     勿論事業が行き詰まって死んじゃう人もいるでしょうが、事業が成功して「さて 次は」というときに、前がうまくいっただけに中々次が思い付かなくて、詰まらなくなって死んじゃうというパターンもあるような気がします。

     世の中が大変になって、言葉を変えれば自由になって、絶えず自分の身の振り方という根本を考えることを求められるようになると、ある意味危険でもあるのでしょう。そういった自分の根っこの部分というのは、「生きている意味」とかいう答なんか無い泥沼に近接してるだけに、足元からみとられる怖れがある。これがエスカレーターだろうが牢獄だろうが、ともあれ忙しくバリバリやってれば、そういった「危険地域」に入ることもないし「死にいたる病」に罹患することもないのですが。





     そんなこんなで、色々な意味で、物言わぬオッサン世代の動向こそが、次の日本の方向性(それは混沌としたものではあるのですが)を、一番ビビットに示しているように感じた次第です。




     ただ、じゃあ女性には何の期待もしてないのか?というとそんなことないです。実は大いに期待しています。

     それは何かと言い出すとまた長くなっちゃうので、別の機会にしますが、例えば、男性的奇形を女性的奇形でバランスを取るとか、「消費文化」から「消費」の二文字を取って本当の文化にまで持っていけるかどうかとか、「雌性」と「母性」の違いをもっと凛然と出来んもんかなとか、夫婦のような男性女性のワンペアが今までとは別の意味をもったユニットとして機能していくんちゃうかとか、いろいろあります。また今度。


    PS:しかし、前回述べた「風景が細かい」とかいう事なんかよりも、もっともっと漠然とした印象を文章化するというのは大変です。特に「死が身近になってきた」なんていうのはメチャクチャ微妙な皮膚感覚ですので、何をどう書いても誤解されそうで怖いです。分かる人には分かるんだろうけど。





1998年05月17日:田村

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