シドニー雑記帳

援助交際について(その1)

−−SEX。このメンド臭い存在



     ずっと前に現地の新聞の日本関連記事(ちなみに最近はとんと減ってますね)「Enjo Kosai」を紹介し、「面白すぎるので個人的コメントは後ほど」と書きましたが、ここで書きます。「援助交際」について個人的にどう思うか?です。




     援助交際については、これを「好ましくない行為である」というのが、ほぼ衆目の一致するところでしょう。「素晴らしいことだ!」「これで日本も安心だ」とポジティブに評価しているのはあんまり聞いたことないですし、当事者達の「何が悪いのかよく分かんない」という反論(?)にしても、積極的に「良いこと」「誇らしいこと」と思ってるわけでもないでしょう。「一概に悪いと決め付けていいのか」という意見はあれど、どの意見にしても、積極的にOKであるとは言っていない。「オリンピックで金メダル取るのと、援助交際で金稼ぐのとどっちが素晴らしいか」「お年寄りの手をひいて横断歩道を渡るのとどっちがエラいか」と比較して、「そりゃなんといっても援助交際!」と、万人に向って言い切ることの出来る人はあんまりいないと思います。

     じゃあ、なんで僕らはそれを良くない、少なくとも積極的に素晴らしいとは思えないのか?援助交際の何が悪いの?と。

    これもいろいろあるんだろうけど、

    (1)売春だから→そもそも「売春」は「悪」なのか?
    (2)青少年がやるから→「青少年」がやると何故悪いのか?
    (3)あまりにも簡単に金が稼げてしまうから→簡単で何が悪いのか?
    (4)動機(ブランド渇望など)が不毛だから→どういう動機だったらいいのか?
    (5)その他(売春なのに「援助交際」などという偽善的な言い方をすな!など)

     などでしょう。ああ、そういえば『そんなもの、「モラルに反するから」に決まってるじゃないか』という人もいるでしょうけど、それじゃ大雑把すぎて答になってないと思うし、第一モラルとかいうのも、時代民族部族ごとに違うわけで、一種の「集団幻覚」と言えなくもないです。ちょっと前まで天皇陛下の写真の前でオナラしただけで死ぬほど殴られてたわけだし。一種の洗脳というかお約束というか。そんな本質的なものとも思えないです、僕には。

     で、ですね、これらを通観して浮かび上がってくる「人類の法則」みたいなものは、こういうことでしょうか。

    命題A:人類にはSEXという吸引力・破壊力抜群の煩悩があるぞよ
    命題B:人類には生物として不自然である部分に価値をおきたがる傾向があるぞよ
    命題C:簡単、易きに流れると、本当にいいものを見失いがちでロクなことにならないぞよ

     だから援助交際は「止めておいた方がいいぞよ」ということになるのでしょうか?あは、全然分からんか?




     つまりですね、売春がなぜ悪いのかとか(俺は「悪」とは思わんけど)、SEXに耽りまくるのが何となくイカガワシイことのように言われるのは、それだけSEXって人類にとって強烈な存在だからと思うわけです。お釈迦さんは「煩悩」と言ったり、イスラム教でも、キリスト教でも、SEXに対してはわりとネガティブな立場を取ってます。特に聖職に就こうとするなら妻帯すら許されないとか、厳しいわけです。

     人類にとって、SEXが強烈なインパクトを持ってるのは、まあ言うまでもないことでしょうが、ナチュラルに気持ちいい、面白いから、でしょうか。

     もうちょいドライに生物学的に言ってしまえば、生き物なんて「生きる」のが仕事で存在価値。で、その延長線として自己複製→生殖というのがくるから、プライオリティでいえば生存本能に並んで最高位にくるのでしょう。ほんでもって、人類の場合、進化しすぎちゃって立ち上げるまで(成人するまで)非常に多くのソフトをインストールしなきゃいけない。受精→出産→成長の過程が異様に時間が掛かる。だから途中でコケる率も高い。だから失敗を見越して、どんどん生産する必要がある。でも海亀の卵のようにドドドと産めないから、そのかわり「一年365日発情期」状態になる、と。ゆえに人類は(他の動物に比べれば)のべつまくなし「SEXしたいなあ」と思ってる動物である、と。

     そう考えていけば、人類がSEXに明け暮れているのは至極当然の話で、だから、健康な女子高生が援助交際であろうが何であろうが、SEXやりまくっているのは、生物としてみれば「メチャ正しい」とも言えるわけです。女子高生に限らず、他の年代に対しても、SEXは抜群の吸引力、破壊力を持っているわけですし、Hサイトがインターネットのホームページで圧倒的なアクセス数を誇るのも当然すぎるほどに当然ということになるでしょう。




     ほんでも、SEXに明け暮れるのは、動物としては「正し」かったとしても、人類としてはあんまり正しくないかのように思われるのは何故でしょう?どうして釈迦もキリストも、皆に率先してSEXやりまくらなかったのでしょうか?なんでまた「処女懐胎」なんて「人類最大の大嘘(ハッキリ言っちゃいます)」ぶっこいてまで頑張ってしまうのでしょう。




     これ言い出すと超巨大な問題になりそうなのですが、簡単に言ってしまえば、人類というのは、原始本能というか動物的な側面と、その対極にある理性的な側面を持っていると。理性と本能とか、その手の二分論はよく聞くところですね。で、僕らが日常やってる生活とか社会とか文化とか秩序とかいうものの基本OSは全部後者(理性)だと思うのですね。あんまり「本能全開」でやってたらアカンと。本能バリバリで行動してる奴、つまり欲情するといきなり強姦しまくって歩いている奴については、文字どおり「ケダモノ」呼ばわりされます。

     せっかく自然界から授かった本能、そして決して否定し切ることの出来ないケダモノとしての資質を、どうしてそこまで押さえ込むのかというと、まあ、いろんな理由があるのでしょう。曰く、「大脳皮質が発達しすぎて余計な事を考えすぎるから」「時の権力者が皆を押さえ込むのに都合のいいモラルを開発するから」「農業など生産性を高め生存率を高めるためには、いきあたりばったりにやってたら駄目で、強度な理性をベースにする必要があったから」などなど。

     実際そうですよね。本能だけでやってたらロスが大きい。原始時代のまんま、その日のメシはその日の獲る、出くわした異性とはとにかくヤル、でやってると、大量に餓死する奴も出てくるだろうし、妊娠出産という身動き取れない時期には、他の猛獣の標的にされるだろうし、自分で餌も取ってこれない。生まれた子供もどうなるもんでも分からん。このようなヒヨワな存在が、厳しい自然界でやってこうと思ったら、それなりの工夫が必要。集団となって外敵に備え、生産と育児など分業した方が結果としては生存率は高くなる。集団を維持する為には、個々のセルフィッシュな本能を抑制する必要がある。で、いろいろ知恵をしぼった甲斐があって、人類はムチャクチャ増殖しました。

     考えてみれば妙な生き物ですが、それもこれもひっくるめて「自然」と呼べないこともないです。「特殊進化」を経たケッタイな生き物としての人類にとしては、その非動物的な部分こそ人類たるユエンであり、アイデンティティでもあるのでしょう。だから、人類が、アンチ本能的な営みにこだわり、価値をおきたがるのも、また当然という気もします。



     グチャグチャ書いてますが、本能に支配されつつ本能に逆らうという、存在自体が自己矛盾している人類としては、永遠に本能と理性の間を行ったりきたりすることが宿命づけられているとも言えるでしょう。

     でもって、いつもいつも理性100%でやってるとさすがに息苦しくなるから、どこかで全体に害を及ぼさないように本能を開放してやる必要がある。灌漑治水というか水門の開け閉めみたいな「本能コントールのメソッド」こそが、人類社会や文化の本質じゃなかろかと思ったりもします。

     そのメソッドは時代部族で様々でしょうが、当然SEX管理は重要な部門となり、どんな部族でもSEX管理条項=要するに「結婚制度」ですが=に関するオキテはあったりする。一夫一婦制にしたり、一夫多妻制にしたり、通い婚、略奪婚さまざまですけど、取り決めとしては一応あります。ま、そこを決めないと社会としてもワヤになっちゃうから、決めなあきませんわね。



     余談になりますが、結婚制度で大原則を定めたとしても、さらに「微調整」をカマしたりしますね。結婚だけで皆ハッピーで納まるわけでもないし、長い年月のうちにはふと他の異性とやってみたくもなるし、またどうやって相手を探すのだとか、結婚できない奴はどうするのかとか。そこらへんのニーズに応えて、それぞれの部族ごとに「微調整」をする。日本であれば、例えば「村祭りの夜は何があっても無礼講」とか「お妾さん」とか「宿場の旅篭の飯盛女(サービスとしてSEXもする)」とか。

     でもって、本能(性欲)という巨大な奔流を適当に「治水」するために、まあ、いろいろ「小出し開放」などのシステムがあったわけで、売春なんてのは、そのなかでもメインの柱でありましょう。人類最古の職業と言われるユエンでもあります。だから売春それ自体は「悪い」とかいいとかいう問題でもなくて、ある種必要に迫られて開発されたのでしょう。

     そうであっても尚、性欲エネルギー管理のミスによって社会が乱れたり、国が潰れたりもします。「犯罪の影に女あり」とか、「傾国の美女」なんて表現もありますね。国主が色香にボケて国政をないがしろにして国がコケる。中小企業の社長が美人秘書に手を出して、専務である奥さんとシビアな関係になり、社内の雰囲気が悪くなり、有能なスタッフはアホらしくなって逃げ出し、倒産にいたる、と。よくある話ですね。げに、面倒なのは性欲管理なり、です。

     本当は人類もこれだけ繁栄しているのだから、昔のように365日欲情してなくても良さそうなものなのですが、大自然の進化はもっとテンポがのろいので追いつかないのでしょう。それでもセックスレス夫婦が増えたり、人口減少傾向とか、それなりに自然の調節弁は働いていると言う人もいます。




     で、話はやっとこさ援助交際に戻ります。

     日本のどこかで一回援助交際が実行されることによって、(一時的ではあるけど)性欲エネルギーが一回分消費・消滅されます。男にとって、性欲ゆうのは適度に開放したらんと妄想が溜まって、人によってはよからぬ方向に流れ、さらには犯罪に走ることもないとは言えない。言うならば援助交際は、単に「本能エネルギーの治水」という観点だけでみれば、犯罪を未然に防いでいる「防犯活動」であり、警察としても摘発どころか表彰すべきであるという理屈もないわけでもない。

     ところで、古来からあるSEX産業(赤線にしろ春画にせよ)については、人類がそれを必要とし、また大きな目で客観的に見ても必要だと思うから、基本的に僕は支持します。必要「悪」であるとさえ思わない。人間そんなに聖人君子ではない。少なくても100%全員がそうではない。であるならば何らかの対処が必要で、性欲対処の方法は、ダムのように溜め込む方法ではなく、小出し流水の方が合理的だと思うからです。これはもうゴミ処理問題と一緒だと思うのです。煩悩管理は、これは真剣に考えるべき問題であり、「いやらしい妄想はスポーツに打ち込んで発散!昇華!」なんて子供だましの方法論を言ってる場合ではない(スポーツ選手に性欲はないとでもいうのか)。社会工学としては、そんなメルヘン言ってたらアカンと思うのです。




     ただですね、援助交際が、これらの性欲管理のメソッドとして優れているか?というと、そんなに優れているようにも思わないです。これは2点あります。


     一点目は、需要が供給を生むだけではなく、「供給が需要を生む」という経済学の「セーの法則」でしたか、あったと思いますが、そゆこと。つまり、援助交際など、あまりに簡単に、またそれなりに画期的な「新商品」が発売されると、「寝た子を起こす」というか、それまで存在しなかった性欲を新たに発生させてしまう場合もあるんではなかろかということです。

     手に入らなければ入らないで、そんなに欲求も生じなかったものが、目の前に出されると急に欲しくなる。ダイエットやってる人の前にケーキを差し出したり、禁煙してる人の前で煙草を吸うようなもので、供給されることによって需要が喚起される部分というのはあると思います。このことを織り込むと、「発散させて性欲エネルギーの減少」というプラス面よりも、「挑発してエネルギーを喚起」というマイナス面の方が強いのではなかろかと。

     いや、これ、測定不能だからよう分からんのですけど、そういうことも考えておかなアカンかなと。単に「治水管理だからいいのだ」だけではアホやなと。それに、援助交際でいい思いをしてる男性も多いだろうし、中にはハマってしまう奴もいるだろう。ブルセラ大好きという嗜好の人も多い(ネットのサイトをみたら分かる)、「いい時代になったものだ」と狂喜してる奴もいると思うのですわ。で、これまで安定供給されていたものが、摘発その他で「品薄」になったらどうなるか?禁断症状が起きるんじゃないかな。一遍味しめてしまったら、麻薬と一緒で、そうそう簡単に諦められるものだろか。のちのち、なんか(性犯罪など)をしでかす奴も出てくるのではなかろか、と。

     これが第一の疑問。だったら、もっと優れた方法論もあるんじゃなかろか、と。ただし、この「需要喚起」をあまりに強調しすぎると、PTA的な有害図書なんたらという方向にいくから、すごい危険やねんけど。


     第二の疑問は、一定の管理(発散)効果があったとしても、コストが高くつきすぎて赤字ではないかという点です。長くなったので続きます。よかったらどうぞ。



1997年4月12日:田村

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