シドニー雑記帳

コントロールとリスク管理




     子供のころは、ただひたすら苦いだけの酒も、年を取るとその美味しさが分かってきたりします。タバコもしかり。寿司にいれるワサビも、子供向けには「サビ抜き」にしてあったりします。どうしてでしょうか?

     「子供だから」とか「子供は甘いものが好き」とか、漠然と思ってましたが、これって何の答にもなってない、というか、もっと根底には大きな法則性みたいなものがあるのではないかと、思うようになりました。

     それは何かというと、「管理可能下にあるものは賞味できるが、管理外になると賞味できない(するどころではない)」ということではないか、と。

     ワサビも酒も、生まれて初めて口にするときは、「げ〜、なんじゃこりゃ」と思うのであって、それは子供か大人かは特に関係ない。外人さんでも最初にワサビを食べれば、「なんでこんな爆発的にスパイシーなものを魚に入れなきゃならんだあ」と思うでしょう。要は経験の有無、量であり、経験を積むにしたがって、初期に広がるショッキングな刺激も、予想通りのものとしてやりすごす事ができる。さらに周囲を見回す余裕も生まれ、その余裕で「ふむ、なかなかイケる」とその刺激を楽しむことが出来るようになるのだと思います。




     そこで思うのが、各国の料理、食べなれぬ料理の賞味です。
     こちらにやってきて、それまで味わったことのないような料理を随分食べました。一発で好きになる取っ付き易いものもあれば、最初は「なに、これ?」と思うようなものもあります。それでも、味わうカンどころのようなものを覚えていくと、「美味いわ、これ」と思うようになります。

     初めて食べる料理というのは、どっち方面にどの程度、味が展開していくのか予想がつきません。ただただ受身的に、「わ、辛い」「わ、甘い」と味パワーに翻弄されてしまったりもします。「この料理にはこれが合う」という技巧も知る由もありません。

     思うのですが、僕らが物を食べるとき、予め味を予想して、その心構えというか、「この料理はここを楽しむ」という「観賞の手引き」みたいなものを無意識的に用意しているのでしょう。「この辛さがいいんだよ」「この熱いのをフーフーいって食べるのが醍醐味」とか。本来ならば、むやみに辛いよりは辛くない方が食べやすいし、フーフーいなわきゃ食べられないほどクソ熱いものをわざわざ食べなくても良いではないか、何をすき好んでそんな苦労せにゃならんのかという話にもなるのでしょうが、その苦労を乗り越えると、なんとも言えない楽しみがあるということでしょう。でも、それを知らないと、食べてても単にツライだけということになりがちです。

     つまりは、その対象をよく知っていてコントロール可能下にあるものは、余裕で賞味できるが、そうでないものは、軽度にパニクってしまい、「なんじゃ、こりゃ」という不快感だけが残るということなのでしょう。

     いつぞや、APLaCの仲間の柏木が「こっちに来てから、辛い物の許容度が広がったような気がする」と言ってましたが、僕もそうです。ただ辛いというだけで騒ぎがちであった日本にいる頃に比べ、辛くても、その辛さのなかに「美味しさ」が同居してることに気付くようになりましたし、辛さのコントロール方法もなんとなくわかってきたような気がします。辛いというのは、現象的には「舌がヒリヒリする」ということで、これに慣れてないと、単にヒリヒリするというだけで「もうダメ」になってしまい、水で冷却鎮静しようと頑張ります。しかし、慣れてくると、舌がヒリヒリしてる状態を「黙認する」というか、「それがどうした。ヒリヒリするだけやん」と受け流せるようになり、さらには、「このヒリヒリ感がいいんだわ」になったりします。もっと言えば、発汗作用を促されるまま、舌はヒリヒリ汗ダラダラのまま、気分は高揚し、悦楽の彼方に「トリップ」出来るようになるのではないか(大袈裟やけど)と思ってたりします。「辛いからイヤ」というのは、酒をして「酔うからイヤ」といってるようなものではないかと。

     同じように甘い物にも強くなりました。日本にいるときは、甘いもの苦手だったのですが、こちらのチョコレート大好き文化(ワーカホリックのように、チョコホリックという言葉もある)、「大きいぞ、甘いぞ」ケーキ攻撃を受けていると、いつしかそれに立ち向かえるようになってたりします。

     甘い・辛いという分かりやすい話をしましたが、勿論なんと形容したらいいのかわからない、日本語にはおそらくその種の表現をする語彙がないだろうと思われるような味もあります。好きでなかったハーブの類を楽しめるようになったのもそうです。



     
     さて、コントロール(管理)という言葉から連想して、「海外」というといつも出てくる「リスク管理」という事柄にちょっと触れてみたいと思います。

     「海外」と聞くと皆さん申し合わせたように「治安」を気にするわけですし、その治安対策もいろいろされるわけです。それはそれで良いことなのですが、なかには「いたずらにビビらせるだけ」「ひたすらビビるだけ」みたいな話もあるように思います。リスクというのは「管理」するものであって、恐い恐いでビビってりゃいいというものではありません。というか、「ビビる」というのは一種の思考停止であって、「管理」の対極にある行為ですらあります。

     例えば、治安の悪い地区、良い地区とか良く聞きますが、そんなに奇麗に区別できたら苦労いらんです。日本国内にだって治安のよしあしはありますが、そうそうキッチリ割り切れるものではない。ある地域は犯罪発生率が100%で、ある地域はゼロなんてことはありえない。32%と17%とか、そんなもんでしょ。で、治安のいいと言われる地域でも17%はリスクはある。統計的に32-17=15%分リスクを減少したからといって、ゼロになるわけではない。むしろ、一回ぽっきり訪れる町で、数十万人規模の統計数値がどうかとかいうことは、大してアテになる話ではない。競馬で統計的に最も勝率の高い馬やレースがありますが、それを信じて100万円一気に賭けるかというと普通は賭けないことから分かるように、平均値はどこまでいっても平均値にすぎない。個別リスク管理にそれほど決定的な意味を持つものではない。

     「管理」というのは、「管理しきれない領域」をもクールに計算にいれてはじめて管理になるのだと思います。つまり事前に予防できる範囲は限られているという「現実」があるとしたら、まずこの現実を認める。そのうえで、管理できない部分についても用意しておく、第一防波堤が崩れたときのために、第二次防波堤を作っておき、さらに第三次、、と何重にも陣構えを作っておき、全てが打ち破られた場合の心構えをもしておく、と。

     何を言ってるかというと、「絶対に安心しないこと」「『安心したい』という心の弱さを殺すこと」です。リスク管理で最悪なのは、○○だったらOK、○○だったら駄目と、デジタル的に白黒つけちゃうことです。こういう二元論は、二進法でしかないので、考えるにはすごい楽チンです。そりゃそうですわね、現実の世界における犯罪発生の経緯の恐ろしく複雑なプロセスを全部無視して、「こうすれば絶対大丈夫」と思えれば、世の中楽ですわ。楽なんだけど、現実もそれだけ楽になってくれるわけではない。早い話が、リスクのない「おとぎ話の世界」に逃避してるだけであって、そんなものは「管理」の「か」の字にも値しない。いわばガキンチョの世界観にすぎない。

     同じように、旅行会社や添乗員に全ての責任を押し付けるようなこと、なにか事が起きたら主宰会社の責任であるかのように思うのも、同じ程度にガキです。大の大人がどこ行って何してどんなメに遭おうが、そんなものは自己責任であって、その予測不可能なことまで誰かに面倒見てもらおうなんていうのは、もともと無理な相談。

     「海外は治安に不安がある」と思うのであれば、最大にして最高の対策は「海外に行かない」ことです。日本にいて全てが安全だと思える人はそうすべきです(言うまでもないが日本にも犯罪は掃いて捨てる程発生してます)。それを押して行くならば、ある程度のリスクは覚悟しなければならない。それはゼロにはできない。完璧な警護をつけたVIPであっても暗殺されたりするのだから、この世に完璧はありえない 。また、犯罪以前に飛行機が墜落するかもしれないし、飛行場に行く前に乗ってたタクシーで交通事故に遭うかもしれない。旅行中、自宅が放火されるかもしれない。

     キリがないですね。100%なんかありえないということです。「絶対安心」とか思うのは止めたほうがいいです。日本の自宅に住んでいても「絶対安心」なんてことがありえないのだから、ましてや海外でそんなことが実現するわけがない。どこかで線をひかねばならない。100%は諦めて、「起きるときは起きる」と腹括ること。それが第一歩だと思います。

     それを踏まえて言いますと、「リスク管理」の要諦は、「ビビらず、怠らず」ということになるでしょう。「ビビらず」というのは難しいのですが、例えば「恐い」と思わず「危ない」と思う事かもしれません。「恐い」というのは、情緒的感情的反応なので、クールに分析できない。恐いと思えば何にもできない。夜中にトイレ行ったら便器から手が出てくるのではないかと思うのが「恐い」です。一方「危ない」というのは、それでどれだけのダメージを被るのかのクールな計算です。夜中に幽霊がでるのをモンダイにするのが「恐い」だとしたら、しっかり戸締まりをしたか、ガスの元栓を締めたかを確認するのが「危ない」という意識だと思います。違い、分かります?心のフォーマットは全然違うと思います。

     具体的には、ここで犯罪に遭うとしたら、それは生命をも奪われる犯罪なのか、もっぱら物盗りなのかを考えること、さらに物盗りであれば、取られることを予期しつつ取られてもそう致命的に困らないものだけを持って歩くことでしょう。ひたすら「恐い恐い」だけでは、そこらへんの個別的戦略というのは出てこない。ビビッて何にもしないか、ドベーっと安心してたるみ切るのか、その二つしかないことになって、それが一番危ないとも言えます。




     以前、弁護士やったとき、毎日が喧嘩で、毎日がリスクでもあります。司法修習一期上の先輩である坂本弁護士拉致事件は、別に他人事ではなかったし、リスクはそれに尽きるものでもない。と、同時に、事件内容を見ていても、リスクに対するスタンスも変わってきます。

     前述したところと重複しますが、まず100%予防は無理という前提、「絶対に安心しない」という前提で、まずベーシックな気を引き締めます。そのうえで、「発生したリスクに対応する体制」がとれるようにします。一定の確率で「なにか」は起きると。問題は起きたリスクへの対応如何であると。

     直感的な印象ですが、まず発生したリスクそれ自体はそうそう大したことなく、本当に恐いのはその次にやってくるリスクです。リスクというのは、どうも波状攻撃が好きらしい。第一波で態勢を軽く崩されたところで、知命的な第二波が襲ってくると。バッグを置き引きされ、慌てて探しに走り出したところ、車道に飛び出し車に撥ねられるような感じですね。言わば「不幸の二番底」であり、第一波に浮き足立つと、第二波を受けそこない、それが致命傷になる。倒産事件なんか見ててもそうでした。一発目はまだ何とかギリギリ受けられても、そこで泡食ってるうちに冷静な対応ができず、第二発目をマトモに食らってしまう。原野商法の詐欺団なんかもその手法使うみたいですね。最初に軽く騙し、その次に「私が取り返してあげる」といって別の仲間が近づいていき、「まさか、二度続けては騙されないだろう」というカモの心理につけこんで、今度こそ息の根を止めるような打撃を与えるという。よくある手ですね。

     だとすれば戦略的には、「第一波は当然あるものとして浮き足立たないこと」というのが出てくるでしょう。パスポートを盗られた、財布をスられたというのは、もう最初から「生じるもの」「生じなかったらラッキー」程度に思っておく。だから盗られても大丈夫程度にしておく。大事なのは、そこでバタバタ騒いで、招かなくてもいい第二波を招かないこと。確かに第一波の打撃は強烈かもしれないけど、そこでマットに沈んでしまうのではなく、大地に足を踏ん張って、グッと態勢を立て直すこと。追い討ちをかけられないように、瞬時に戦闘態勢に立ち戻ること。キッと前方を睨んで、第二波を威嚇して近づけないことだと思います。





     別にこんなに深刻に考えなくても、シドニーはそれほど荒れてません。ただ、「不幸の二番底」云々は全部日本にいる頃に納得した現象ですので、どこであれ安心ということはないでしょう。

     で、全体を通じて言いたいことは、味にしてもリスクにしても、「コントロール可能下」に入ってからが楽しいよということです。「苦い」「辛い」といって酒を投げ出していては酒の美味しさはわからないのと同じく、「恐い」といって投げ出していたら、そこから先の楽しみは見出しえないでしょうという話でした。

     必要なのは、場数と、そして森羅万象の出来事を、その性質に応じて自分のなかに取り込んでいけること、予測し対処すること。要するに「コントロール」できるようになることだと思います。すぐにはコントロールできなくても、そのあたりをクールに柔軟に考えていく姿勢だと思います。



(1997年5月21日:田村)

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