シドニー雑記帳








中高生の留学現場から見える日本の問題(その2)





     僕らがべったりサポートしていたケースは、数的には全然多くありませんが、学校関係者、カウンセラー、ホストファミリーなど関係者は軽く20名を超えます。で、僕らの印象と、これらプロの人々の見解とがほぼ一致していることを考えると、たとえサンプルケースは少なくとも、ある種の共通項が見出せるような気がします。また、この見解は、僕らなんかより遥かに多くのケースを扱っている他の関係者からの話とも一致します。

     その「見解」というのは、「親が甘やかし過ぎたため、子供の社会性が未発達のままきてしまったこと」であり、「現在に至るまで、親自身そのことを100%理解できていないこと」であります。





     僕らが見てきたのは、日本の学校で不登校だった子ですが、いわゆる絵に描いたようなグレた感じは全然ないし、態度も特に不審な点はない。知能的にもむしろ優秀な部類に入るくらいでしょう。だから問題ないと最初は思うのですが、数ヶ月もすると大きな欠陥が露呈してくる。すなわち対人関係形成能力が未熟である、と。英語でいえば"immature"ですね。イマチュアという表現は、ことあるごとによく耳にしました。

     そこそこ自分にとって気持ち良い環境にあるときは、結構ほがらかだったりしますし、問題はないのですが、少しばかりツライ環境になると、それに直面して乗り越えようとする姿勢が、普通の人が50あるとすれば10くらいしかない。早い話がワガママなのですが、ありきたりの分かりやすいワガママと違って、普段はおとなしいのだけど、「ここ一番」という重要な局面になればなるほど現実逃避をしてしまう。その「逃げること」に関しては、人並みはずれて我を張る。

     逃げるのに慣れているというか、逃げることに対する忌避感が段々摩耗してきてしまうのでしょうか。例えば、ホームステイの門限を破って遅く帰ることになった、謝りの電話をしなければならないのだけど、それが出来ない。一言「ごめんなさい」と言えば済むものを、それが言えない。我々や、時にはわざわざ日本の親に国際電話をかけて親からまたホストファミリーに電話をしてもらおうとする。

     人間関係の基本として、約束破ったり悪いことしたりしたら、まず自責の念がわきますし、行動的には「ごめんさい」と言いますよね。そこできちんと謝れば、まあ向こうとしても怒りはするけど、その怒りは最小限度で済みます。そのあたりのケジメをつけられることが、人間として付き合っていくためのミニマムな要請だと思うのです。怒られるのは誰だって嫌ですが、ここは一番怒られなければ、と普通だったら判断するし、ツライのをぐっと我慢して謝りにいきます。野原で野球やっててボールが近所のカミナリオヤジの窓ガラスを割ってしまったら、死ぬほど恐くても、割った奴は正々堂々と謝りに行かねばなりません。

     「そうしないともっとヤヤコシイことになるから」という打算計算もありますが、そんな算盤勘定をする以前に、「あちゃ〜」と思いながらも奥歯食いしばってブン殴られに行くものでしょう。「なんで?」とかいう以前に、「そういうものだ」「それをしないのは人間として許されないのだ」ということを、いつからか僕らは叩き込まれてきてます。僕も何度か行ったもんです。あなたもそうでしょう。

     この当たり前のことを、何故か学んでこない。目先の「怒られるのが恐い」がゆえに、いろいろ逃げの手を打とうとするし、それが当たり前になっていってしまう。ホストファミリーにしたって、わざわざ日本の親が国際電話かけてきて、「今晩、娘の帰りがちょっと遅くなります」なんて言われたら、「どういうこっちゃ?」と思うでしょう。いや、「ああ、あのコは私達に真正面から向き合ってないのね」と思うでしょう。「どうしたのかしら?まさか事故でも?」と一生懸命心配してくれているホストファミリーの気持が分からんのか?と思いますが、わからんのでしょう。他人の痛みよりも何よりも、自分が不快な思いになることだけが一大事だったりするのでしょう。




     どうしてここらへんのことを学んでこないのか?疑問はそこに逢着するのですが、「甘やかす」ということの意味はそこにあるのだと思ったりします。

     人間には、というか生き物には不快を避け、快を求める本能があります。主観的な快・不快、好悪でもって行動しようという性向がある。これは生命保存本能でもあるのであって当たり前です。しかし、世の中というのは多くの人がひしめきあって生きてますので、各人の好みや快不快を、その都度交通整理する必要がある。気に食わない奴がいるからといって殺してはならない、欲しいからといって勝手に人の物を奪ってはならないにはじまって、嘘をついてはならない、他人に迷惑をかけてはならない等などの秩序が生まれ、倫理や文化が生じます。

     何も知らない子供にそれを教えるのが親の役目であり、部族の大人達の役目でありますが、この作法を教え込むことを、通常「躾/しつけ」と呼ぶのでしょう。この躾を通じて、他人の気持を配慮したり、全体を俯瞰することが出来るようになる。主観的な自我だけでなく、客観的な視点というものを身につけることができる。また、これを通じて辛抱というものを覚え、その忍耐力によって、地道な練習を繰り返すことによってより高度な技を身につけられること、「努力をすることによってより高次元に達することができること」「辛抱することの意義」というものを知る。かくして、個人のなかに「成功への道筋」が刻み込まれるのでしょう。

     よく新聞の投書などにある古典的な馬鹿親の例として、電車の中でお年寄りが立っているのに、子供を平気で椅子につかせ、しかも靴を脱がさずに席に上らせているというケースがあります。ここで親が席を譲るなり、靴を脱ぐことを教えるわけですが、これによってその子に「身体の弱い人にはいたわりの気持ちを持つべきだ」「そもそもこの世には身体の弱い人もいるし、同じ立つにしてもその人の方がツライのだ」ということを教えることができる。また、他の人も座る席を勝手に汚してはならないということ、その前提として「公共」という概念があることなども教えられる。

     もちろん子供としては、立ってるよりは座ってる方が楽ですし、靴なんか脱ぐのは面倒臭いという「不快」を避けたいでしょうから、反抗したりするでしょう。泣き叫ぶかもしれない。で、そのとき、親がそれに負けて好きにさせてしまうならば、その子は「あ、別にそんなに大したことではないんだ」と思うでしょうし、「泣き叫べば不快を避けれるのだ」ということを学んでしまうでしょう。これが問題ですよね。なんぼ反抗しようが、ピシャリとケジメをつけないと、えらい差になって顕れてくるような気がします。

     余談ですけど、親が躾るとき「そんなことしてお母さん恥ずかしいよ」という怒りかたをするパターンがありますが、これは間違ってると思う。実はこれ、自分が子供の頃そう言われた覚えもあるのですが、そのとき子供心に「それって理屈としておかしい」と釈然としませんでした。だって「お母さんが恥ずかしい」という、言わば身内内部のエゴだけで物事が完結してしまっていいのか、何がそんなに恥ずかしいのか、要するにお母さんも自己保身に走ってるわけで、母親の自己保身に協力しなさいと言われても、「そういう問題なの?」という気がしたわけです。で、「そうじゃねえだろう」と思って、反発した記憶は結構今でも生々しくあります。




     かくして過保護ないし甘やかされて育ってしまうと、理性的には、他人の気持や自分の立場などの客観的視点が欠落してしまう傾向があるように思います。また、我慢して精進して高いレベルに上がるというロングストーリーを経験しておらず、「イヤだ→逃げる、ねだる→成功」というショートサイトのことばっかりやってるから、長期的な計画、人生上の因果関係というものが実感として理解できなくなっている。

     実際僕らがやってるケースでも、せっかく現地の高校に入れているにも関わらず、他のクラスメートが嫌だから+もっとシティに出て遊びたいからという理由で、その学校を辞めて、シティの語学学校に入りたいと言い出すというケースがありました。本来の目的でいえば「高校卒業資格を取りたい」ということでした。その時通っていた高校では、留学生用特別英語クラス設置され、英語クラスと同時に普通クラスも部分的に履修でき、且つyear10(高校1年)に編入させてもくれていた。だから、ここで無難に勤め上げればあと2年半で卒業することができる。

     どう考えてもこれがベストなのに、ここで語学学校に行ってしまえばどうなるか。一般に普通の高校入学レベルまで1年〜2年英語習得に掛かる。それから別の高校に復学しても、学力不足でyear9(中学3年)に編入される可能性は非常に高い。だとすれば、高校卒業まで4〜5年もかかってしまうことになる。2倍も時間も金もかかるし、20歳過ぎてもまだ高校やってないとならない。忍耐力がないその子がそんな長期間辛抱できる見込は非常に低い。だから事実上留学目的は放棄したといってもいい。それを口が酸っぱくなるほどこちらが説いても、「やだ、シティにいくんだ」の一点張りで、新学期が始まるやいきなり不登校状態が続くという。

     その子の場合、その学期が始まる前も、日本に帰国してたのですが、オーストラリアに戻りたくなくなったのでしょう、いよいよ出発という日になったら飛行機に乗らずに済むように雲隠れしてしまった。やることなすこと、15歳とは思えないほど子供だったりします。

     どうしてそんなに先が見えないのか、目先の快不快以外に何も見えないのかと思うのですが、これもなんぼ説いても駄目、しまいには煙たがられてしまう。




     この種のエピソードは、これだけではなく掃いて捨てるほどあります。毎週毎週、もう何度学校やらホームやらを往復させられたことか。最初のホームステイでは、基本的な挨拶(おはよう、ありがとう)が言えないため、入居数日で「こんなルード(非礼)な子は理解できない」とホストファミリーから怒りを買う。また、登校初日でも、日本で買ってきたルーズソックスがこちらの学校の校則に合わないから駄目といわれただけでショックを受けて、ステイ先に帰るや電話をひっつかんで日本の親に泣きながら3時間も国際電話をかける。そんなこんなで月の電話代が十数万円にも達するという。

     結局、その高校も出席日数不足で退学にされてしまい、我々としてはもう日本に帰国させるべきだと散々説いたのですが、「最後のチャンス」ということで、やむなく最も信頼できる語学学校に入学させ、生活ルールを紙にまで書いて、納得させてサインまでさせ、一つでも破ったら即刻帰国だよと何度も念を押したというのに、登校初日からいきなり無断外泊、そのままサボる。ルール違反についてどう思っているのかと問えば、「こんなん勝手に押し付けられたものだ」と言い「あんな紙、ムカつくから燃やしちゃいましたよ」とうそぶく。ことここに至って、帰国勧告をだし、帰国をしなくても我々では責任持てませんということになりました。




     しかしですね、親は何やってんだ?という気になります。で、これまた何度も何度も親御さんにFaxを送りまくりました。お父さんは世間的には立派で常識豊かなビジネスマンなのですが、自ら父親失格ですと問題の構造は分かってはいつつも、躾に対する挫折感があるのか、よう強いことが言えない。一度お父さんがこちらに来たことがありますが、そのときのその子の態度といえば、親をつかまえて「おう、オッサンよお」と言ったり、プラダのバッグが欲しいとねだりまくったり、ハタで聞いてる方がムカムカしてきて、僕なんか「アカン、これ以上聞いてたら、俺、あの子蹴り殺すかもしれんから、あっち行くわ」で行ったくらいで(蹴り殺さないまでも、一発ブン殴るべきだったとは思う)。

     お父さんに何度も説いたのは、上述のようなことでして、要するに自分の快不快だけでは世の中渡っていけない、そのことを子供の頃から「不愉快な(しかし必要な)体験」を積み、世の中の「壁」を知ることで培っていかねばならないのであるから、今からでも大人達がその「壁」になるべきでしょうと。お父さんも分かってはいるようですし、それなりに努力はしておられるようなのですが、でも駄目。今一歩の気迫が足りないから足元見られてしまう。なんぼ僕らが厳しいこと言ったり、壁になろうとしても、お父さんにチクって、お父さんからこちら「ここは一つ穏便に」「本人の自主性に任せて、これが最後ということで信じてやりたいのです」という口添え電話が掛かってきて、水の泡になっちゃう。

     その子と面接し、また親御さんと電話で話したカウンセラーは、さすがにプロだけあって1時間くらいで問題の本質を見抜いてましたし、留学中止・帰国以外に方法はないという意見でありました。そして何よりも親御さん自身のカウンセリングが必要である、と。

     でも、やらないでしょう。何かその子に日本に帰ってこられたらマズイ理由でもあるのかしらんと邪推したくなるくらい(そういえば上の兄が今年受験とか言ってたなあとか)。



     ほんでもって、段々わかってきたのですが、シドニーはその種の日本人少年少女達のグループがあるようで、その数は数十人規模でいるようです。細かいことは分からないけど、ある子は、親の方が完全に教育を放棄していて、息子をオーストラリアに送り込み、金は幾らでも出すから日本には帰ってくるなという酷いパターンだったりするそうです。その子はオーストラリアくんだりに来たくなかったのに、そんなメにあえば馬鹿馬鹿しくて学校なんか行ってられないでしょう。で、出席率3%くらいのサボりまくりで、本来なら90% 以上の出席でないと学生ビザは取り消されるにも関わらず、なぜかまだオーストラリアにいる。

     18歳未満の子には現地の親代わりのガーディアンがいないと入学許可もビザも下りないのから、そう簡単に滞在できるわけではないのに、聞くところによると、金次第で名前だけのガーディアンになり、違法滞在の手助けをするようなところもあるようです。まあ、そうでないと居れるわけないし、いかにもありがちな話です。

     カウンセラーも言ってましたし、他からも耳にしてますが、そういった子がドラッグや売春などの道に入っていくのは極めてありがちなパターンだそうですし、悲惨な例になると今日にいたるまで完全に行方不明になってしまったケースもあるそうです。学校のサボリからドラッグまでいきなり転落するようですが、実際こっちではドラッグなんか簡単に手に入りますし、そう遠い距離の話ではない。で、ドラッグの金欲しさに犯罪に走ったり、売春婦になったり。1年ほど前にも、地元オーストラリア人で、小学生の頃は成績優秀明朗活発で模範生にも選ばれた女の子が、いたずらでやったドラッグにハマって、ほどなく売春婦として街頭に立つようになり、ある朝、キングスクロスの裏道の溝に全裸の死体で発見されたりしてます。

     糸のきれた凧のようになってしまうのが見えてますから、つまりは人の人生の存亡の危機なのですからと、これまた何度も親御さんに言ってるのですが、もどかしいくらいに通じない。語学学校の校長さんとこの件で話をしていて、「ことが起こったら本当に取り返しがつかないのですけど、こうなると現場の無力をつくづく感じさせられますねえ」と慨嘆しておられました。これは、前の学校の先生も、カウンセラーの人も、皆異口同音に心配しているところでもあります。




     「これだけ言っても分からんなら、もう勝手にしろ」「落ちるところまで落ちないと分からんのか」と思ってしまうのですが、後味悪いことおびただしい。なんとかならんのか、畜生!と思ってます。

     これは多分特殊な事例ではなく、もう構造的に繰り返されていることでしょう。冒頭でも言ったとおり、僕らはもともと教育者でもないし、これ専業にやってるわけでもない。だから、専業としてやっておられる方には、さぞかし大変であろうと敬意の念を深く抱きます。真面目にやるほどに煙たがられ、裏切られの繰り返しの日々ではないですか。まあ、それでも、何件かに一件は、本当にこちらの学校に来て自分を取り戻して生き生きやってる生徒さんもいるというのが救いですし、その人にとってはこちらに留学する意義は大いにあった、だからそれをサポートする意義も十分にあるというのは分かります。でも、それも成功歩合の問題で、駄目なケースばかりが繰り返されると、もううんざりしますし、そもそもサポートなんかするべきではないという気もします。でも良心的にやってる人が辞めたところで、金次第で動くところがあるんだったら何も意味なかったりするのですよね。

     しかし、ここで嘆いていたって始まらないわけで、どうしたらいいのか、何が問題なのか、さらに考えてみたいと思います。


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1998年06月13日:田村

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