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今週の1枚(10.06.21)




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Essay 468 : CONCEQUENCE/コンスィクゥエンス  〜自業自得の現実的正義



 写真は、最近のバスに良く貼ってある広告。「この楽しいことが大好きな人々は川遊びに興じています。あなたは交通渋滞に巻き込まれて身動き取れないでいます」という意味なのだけど、この広告を読むときというのは、まさに渋滞に巻きこまれてバスの後ろの車を運転しているときでしょう。広告主はオージーホリデーという旅行会社のようだから、広告の趣旨は、皆こーんなに楽しく遊んでいるのに、あなたときたら都会で渋滞に巻き込まれている、、、なんて可哀想なんだろう、さあ、今からでも次のホリデーの予約をしましょう!っていう意味でしょう。しかし、渋滞で見たら(僕自身その状況で見た)、ムカつくというか、くそおって気になりますよね。笑っちゃうけど。
 本文にも関係しますが、そうなんですよね、オーストラリアってこういう国なんだよね。仕事以上に遊ぶことが大事であるという。あ、撮影場所はQVB裏のYork Stのバスターミナルです。


コンスィクゥエンス = 当然の帰結

 日本ではあまり聞き慣れないのだけど、英語世界では頻繁に使われる単語として、"consequence"というのがあります。「当然の帰結」「必然的な結果」という意味です。発音がまた難しくて「こんすぃくぅえんす」と読み、日本人の苦手、というか苦手だということすらあまり知られていない「W」の発音が真ん中に入っていますし、アクセントが語頭に来ます。複数形で使われるケースも多く、聞いた感じでは、「んすぃくぅえんすぃず」になります。

 映画「マトリックス」のパート2だったかにも出てきましたね。フランス系のもったいぶった気障なオヤジが出てきて、「キミ達はそれを”不運””バッドラック”だとかいって嘆くけど、私に言わせればそれは当然の帰結(コンスィクゥエンス)なのだよ」(”You may say "bad luck", but I would say "consequences""=記憶だけで書いてるから間違ってるかもしれないけど)。

 この単語の途中の「しくぅえんす」は、”sequence”で「順番」とか「連続」という意味で、「あいうえお順」等というときの「順」の概念にあたります(in AIUEO sequence)。「○○順」の「順」。予め順番を入力しておいて、そのとおりに実行していってくれるシステムやプログラムを「シーケンサー」といい、音楽の録音や演奏などでボタン一つで勝手に演奏してくれるMIDIなんかもシーケンサーです。

 で、それが何か?というと、つらつら考えるにオーストラリアなど西欧の社会と日本との違いに、このコンスィクゥエンスの概念の徹底があるのではないか?と。コンスィクゥエンスは、「当然の帰結、論理的帰結」という意味だと書きましたが、実際に使われている感覚ではもっとキツい感じで、「自業自得」「身から出た錆」のようなニュアンスがあります。

 例えば十分に勉強しなかったので試験の点が悪く、それで卒業できなくなったとき、日本では何というか可哀想だから「ゲタをはかせる」というサポートをしがちですが、西欧ではわりと無慈悲に落第させてしまう。でも、それは冷酷だとか、非人情的とかいうのではなく、「当然の帰結」だからだ、コンスィクゥエンスだからだ、落第させるのがこの世の原理であり、それをねじ曲げるのは道理に反するという意識が強いように思います。

 日本で大企業が破綻するような場合には、「社会的影響」を考慮して政府が助けたりするわけですが、西欧では直近の世界経済危機のような超弩級の場合は別として、通常だったら平気で潰します。ずっと前の話ですが、オーストラリアのナンバー2の航空会社アンセットが潰れたときも、政府は平然と潰させています。日本でいえばANAが潰れるようなものですが、それでも潰す。失業者の再就職斡旋のサポートはしたでしょうが、公的資金を注入して延命させるということは、基本的にはしない。僕もそれを目の当たりにして、「へえ、潰しちゃうんだ」と思った記憶があります。

 なぜ、今このことを書くかというと「つらつら考えたから」ですが、なにをツラツラしてたかというと、僕自身の経験範囲=オーストラリアにやってくるワーホリや留学生の皆さんのサポートをしてて、やはりここ数年の日本人の人間力と学力(英語力)が下がってきてるなと感じたのが発端です。

 英語力については主題から外れますからまた別の機会に譲りますが、やっぱり下がっていると思います。それがゆとり教育のせいなのかどうか知りませんが、「ゆとり」とかいうレベルじゃないだろというくらい。これは来られる個々人の英語力がどうのという問題ではなく、また彼らの責任でも何でもなく、日本人総体の問題としてです。これ、ちょっと分りにくい視点なのですが、数年前、あるいは10年前に比べて自己評価が甘めになっている。日本人は常に「いやあ、英語はちょっと、、」と口ごもるわけで、それは昔も今も同じなんだけど、「ちょっと、、」と言いつつも昔だったら平均50点くらいだったのが40点とか30点に下がっている。

 これは日本人が何となく思っているスタンダード、「これが普通」と思う標準が下がってきているということで、別にオーストラリアに来る人達だけの話でもなく、また若い人達だけの話でもないです。従って僕自身にも適用されうるわけで、自分自身の無知・無能・無教養を恥じ入る度合いが減っている。昔だったら、こんなに出来なかったらかなり恥ずかしいという自覚があったし、それなりに危機感を覚えていたのだろうけど、今は「ま、いっか」みたいになっちゃってる。全体にレベルが下がってるから、あんまり恥ずかしく感じなくなってるというか。だから怖いな〜と。知らない間に僕自身も影響されているだろうと思うから、意識的に目盛りを一つか二つ高めに設定しなきゃと自戒しています。「これだけ生きててこのレベルかよ?馬鹿じゃねーの?」と自分を叱らないと、知らない間に劣化していってしまうから。

 まあ、考えてみれば、特に最近だけの話ではなくここ100年レベルで一貫して下がってるとも言えるのでしょう。昔、日本で仕事をしてたときにボスによく作文能力がダメダメだと説教を食らってましたが、弁護士という職業レベルで二世代上の連中だったらまず普通に漢詩が読め、自分でも作れた。日露戦争の乃木将軍などは203高地のあとで見事な漢詩を作ってますよね。一世代上の連中だったら書が書けた。「先生、ひとつお願いします」と言われたら、その場で筆を握って巨大な和紙に向って揮毫(きごう)して、ドーンと飾れるくらい、どこに出しても恥ずかしくない達筆の書が書けて当たり前。それが出来ないというのは人間失格レベルにかなり恥ずかしいことだった。で、ボスは続けるわけで、今の僕らはアホアホだからそんなことも出来ない。だからせめて日本語くらいはちゃんと書けと、常に考え得る最高水準の文章を書けと怒られてました。で、それが出来なかったら、もう「舌噛んで死ね」くらいの感じで説教食らってました。先生、すみません、未だにこのレベルの文章です。舌噛んで死ななきゃならんな。少なくとも、そのくらい恥ずかしいことなんだという自覚は持とうと思うのでした。

 でも、英語を初めとする学力や知識は未だ勉強すればいいですし、前回述べたようにダメダメなものを平均レベルまで引き揚げるのはそう難しくないので、まだ傷は浅いです。厄介なのは人間力という分りにくい領域で、ここがダメだと万事にダメになるわけでちょっと厳しく、だからツラツラ考えるわけです。そのツラツラのプロセスを以下に書きます。

職業経験の有無

 日本では今就職が難しくなっていると聞きますし、また就職しても上司や先輩からビシバシしごかれて一人前になるというOJT(on the job training)が少なくなって、仕事によって一人前に育てられるというよりは、単なる労働力としてすり潰すように働かされるという感じになりつつあるとも聞きます。多分に誇張はあると思いますが、その昔の日本のように、勉強がダメだろうがなんだろうが、就職=”丁稚奉公”にあがれば、そこで世間のイロハは徹底的に、毎日ぶん殴られながらも教え込まれるという感じではなくなっているでしょう。

 それでも働いていない人に比べたらキチンと働いていた人の方が、オーストラリアという異国にやってきても成功率は高いです。それも、正社員>派遣>フリーター>何もしてないの順で、成功率が高い。まあ、常にそうなるものではないですし、絶対の法則ではないですが、ルール・オブ・サム(大まかな法則=rule of thumb、親指の法則という)としてはそうです。

 海外は自由度が高いですし、特にオーストラリアはのんびりしてますが、それでも外国の環境というのは厳しい面もあり、簡単にいっちゃえば日本でダメだったら、海外でもっとダメです。ビザも言語バリアもなく、勝手知ったる最強・最適な環境である母国でパッとしなかったら、全てにおいて絶望的なまでなハンデを背負ってる海外でやっていけるわけないです。当たり前の話ですけどね。海外の自由度の高さは両刃の剣で、出来る人はどんどん出来るようになるけど、ヘタレな人はとめどもなくダメになっていくという二極分化増幅装置として恐ろしさがあります。要は、自分がしっかりしているか/していないかが残酷なくらいハッキリ識別され、露骨に結果として突きつけられるということです。

 そこで問われる「しっかりしてる」という事柄の内容ですが、学力とか体力とかいうのもありますが、行動力とか勇気とか決断力とか、大事なストレス耐性であるとか、要するに人間力一般ですね。一番大事なのは「逃げない」という精神的な前向きさ、真の意味でのプライドや自信なのかもしれませんが。

 いずれにせよ「うまくやっていくための素養」みたいなものが、やっぱりちゃんと日本でやってきた人、正社員として数年間ミッチリ修行してきた人の方が成功率が高いということです。何度も言うけどこの法則は絶対ではなく、例外はいっくらでもあります。別に正社員という形がエラいわけではなく実質面、つまり面倒臭い就活をやったかどうか、楽な方に逃げてないかという点や、時間的に労働力を切り売りするのではなく一定範囲の責任をドンと押しつけられてこなさなければならない、不可抗力すらも責任をとらねばならない厳しい正社員的環境によって鍛えられてきたかどうか、という面に起因するのでしょう。

 だから実質が伴っていれば形はなんでもいいわけで、別に仕事という形でなくても、ボランティアであろうが、家事であろうが、はたまた恋愛だろうが、サークル活動だろうが、一定の責任をひっかぶって厳しい現実に直面してやっていくという錬成機会・時間がどれだけあったのか、ということでしょう。

 日本の仕事、特に会社での仕事というのは理不尽なものも多く、会社人間、”社畜”的な全人格的献身を求められたりもするでしょう。正直言ってクソみたいな仕事も沢山ある。しかし、クソだろうがなんだろうが、やればやっただけ鍛えられるものはあるのであって、クソすらやらないのであれば、クソ以下です。仕事に一定の理不尽さが伴うのは、それは個々の人間がそもそも理不尽な存在だからでしょう。我が身を省みても、気分で言うことが変わったり、三日坊主だったり、好き嫌いが激しかったり、いい加減ですもんね。そんないい加減な人間の集団が、いい加減じゃない統一的な事柄を組織的にやろうとすれば、あっちこっちでキシミが出てくるのは当然の話です。クソ呼ばわりされるほど純度が下がってくるのが、それは人間がもともとそれほど純度が高くないからであって、その人間の集合体としての組織や仕事に汚濁的要素が混入してくるのは仕方のないことでしょう。だからそれは仕事がダメだというよりも、この人間社会そのものがダメなのであって、それはなぜかといえば、僕やあなた自身がダメだからだということでしょう。自分のダメさを棚に上げて環境が悪いとか何とか文句を垂れることを、「天に向って唾する」ということであり、その唾は自分の顔面にしっかりネッチャリへっつくだけのこと。

 だけど、僕はそんな仕事礼賛みたいなことは、あんまり言いたくないのですよ。過去のエッセイでも書いているように、「日本人と仕事」という関係をもっと解体、発展、再構築という、鋼の錬金術師みたいなことをすべきだと思ってます。うーむと、ツラツラ考え出すのはここからです。

オーストラリアの事情

 ここで考え込んでしまうのは、オーストラリアと比較してしまうからです。
 オーストラリア人は、そんなに真面目に仕事しません。そもそも仕事してない人も結構いますし、仕事をしたとしてもそのレベルは、平均すれば日本のバイトさん以下だったりします。もちろん、優秀な人も沢山いて、その人がいるから何とか仕事が廻ってるわけで、オーストラリアの会社と取引(イチ消費者として買物をする場合でも)、ライト・パーソン("正しい人")を見つけ出すのが何よりも肝要です。ライトパーソンさえ見つけてしまえば、こういう人達は日本の平均よりもはるかに優秀ですから、日本よりもポンポン話が進みます。融通もきくし、決断も早いし、実行も早い。でも、総体的に言えばダメダメだと(^_^)。

 じゃあオーストラリア人はヘタレの集団かというと、意外とこれがしっかりしてるのですよ。いわゆる人間力、例えば知らない国にいって孤立無援の状態で頑張っていく力、極端な例で言えば無人島に流れ着いてサバイブする力はかなり優秀だったりします。ようするに「ちゃんとしてる」「しっかりしてる」。

 こんなに仕事をしっかりしてないで、なんでこうなってるんだろう?というのが疑問なのですね。だから、日本でよくあるような仕事礼賛論、仕事もしないでのたくってるニートなんぞは軍隊にでも入れてヤキを入れたらいいんじゃ論には、イマイチ踏みきれないのですね。

 だから、結局は仕事する/しないじゃないんだろうなーって思うのですね。仕事によって得られる「教育課程」みたいなものを、オーストラリア人は仕事以外の局面で得ているのだろうと。そうなるとこのエッセイでお馴染みの議論になって、オーストラリア人にとっての仕事のプライオリティの低さ論になります。人間が生きていくに当って最も大事な領域に優先順位を付けていくと、第一に家族や恋人がきて、以下順不同(人によって違うけど)、国民としての政治参加(投票率ほぼ100%)、コミュニティ活動やボランティア(ボランティ参加率の異様な高さ)、趣味やサークル(スポーツはもとより、ガレージで車を組み立てちゃったりするのめり込み方)、などなどです。

 「お金を払ってオーストラリア人にものを頼むと全然やってくれないけど、無料の場合はびっくりするくらい熱心にやってくれる」というのは、この国に来て最初の頃に知りましたし、過去回にも書いてますが、彼らの価値観でいえばそれは当然なのですね。仕事というのは要するにゼニカネのバーター取引であり、それほど価値の高いものではない。しかし、「困ってる人を助ける」のは人間として当然のことなのだからより価値序列が高い。だから熱心にやる。そうそうオーストラリアでボランティアをしたいと人が多いですが、こちらのボランティアはある意味では仕事よりも水準が高くて、キツい場合も多い。仕事はさぼってても給料くれるからダレてる側面もあるけど、ボランティアは余暇時間を削って皆参加してるから、英語がヘタクソだと邪魔臭がられる場合もあって、精神的にキツかったという人もいました。常にそうだというわけではないけど、彼らの価値観からしたらさもありなんと思います。「ボランティアだから」と甘い発想は通用しないということですね。オーストラリア人に混じって仕事が出来るくらいになってから参加するのがボランティアだという部分もあります(もちろん分野によるけど)。

 ということは、オーストラリア人が人間力を鍛えていく場所というのは、別に仕事に限ったことではなく、幾らでもその場所があるということであり、振り返って日本社会を見ると、仕事とか職場以外にこれといった場所がない、無いことはないがそれほどふんだんにあるわけではないということでしょうか。だからこそ、日本人の人としての錬成度を見る場合、どうしても過去の職歴など仕事を中心に見ていく傾向があり、イージーな仕事しかしてなかったらそれなりにイージーな奴なんだろうなという推定が働くという。採用面接なんかでも結局はそこを見ているのでしょうし、膨大な希望者を審査しようと思ったら、過去の職歴なり学歴なりで足きりを食らうという話になるのでしょう。そういった慣行に対する批判はあるでしょうし、僕も幾分かはあるけど、だからといってイチから十まで間違ってるというわけでもなく、それなりに長年の蓄積によって得られた経験則というものなのでしょう。


人間力錬成の本質

 じゃあ、仕事なりボランティアなり何なりで磨かれる人間力とは何か、どういうメカニズムが働いて人間が「鍛えられる」という現象が生じるのか?です。

 ここを一番ツラツラ考えていて、出てきた答が、冒頭に述べたコンスィクゥエンス(当然の帰結)なんじゃないかという話です。

 結局は「現実」なんだと思うのですね。この理不尽で、残酷な「現実世界」です。現実はファンタジーではありませんから、マンガのようにここぞというときに強力な援軍がやってきたり、、というご都合主義はありません。「何とかなる」というのは良く言いますが、何とかなるまでの過程が途方もなくしんどかったりしますし、場合によっては何ともならないこともあります。

 また、他者は自分のために生きているわけではないという当然の現実もあります。自分がいくら誰かのことを恋いこがれていようとも、その人はあなたを好きになる義理はありません。ダメなものはダメ。キビシーよね。でも、立場を逆にしたら、どっかの誰かに好きになられたら、仮にその人が鳥肌レベルにイヤな奴だったとしても、結ばれなければならない、、となったらたまったものではないでしょう。いくら自分が不幸だ、悲惨だと訴えても、世間の人はあなたに同情する義理はないし、あなたのために指一本動かす義理はない。それは、あなたが他者にやっているのと同じであり、募金活動の前を無視して通り過ぎるのと一緒です。どんなに自分が夢を込めて自分の店を開店したり、起業したりしても、市場に通用する商品を提供できなかったら倒産するのです。

 そして、因果関係というか、出来事Aがあったら出来事Bが生じ、それは避けられないという因果の流れです。ちゃんと勉強しなくて怠けていたら、点数がとれずに入試に落ちる。社内の派閥抗争ばかりにうつつを抜かし、真面目に商品開発に取り組んでこなかった会社は倒産する。難しい問題は先送りにして、目先の快楽ばかりを追っていたら、やがて大きく破綻する。しんどいことから逃げて、ヌルいことばかりやって生きていたら、やがてはニッチもサッチもいかなくなりケチな犯罪に走るか、惨めな人生を送りつつ老いさらばえていく。

 それがコンスィクゥエンスというものであり、当然の帰結というものであり、日本語で分りやすく言えば「自業自得」というものです。

 オーストラリアや西欧は、ここが結構キツんじゃないかなって気がします。誰かが悲惨なことになっていたとしても、それに至る過程がコンスィクゥエンスに則っていたら助けない。冷酷に突き放す。そのあたりは優勝劣敗の原理=優れたものが勝ち、劣ったものが負けるのは当然であるという以上に「正義」である=に裏打ちされた、西欧社会のドライな、まさに口の中がシュンと乾くような、背筋が寒くなるような冷徹な哲学があるような気がするのですね。

 したがって、そういう社会に子供を送り出す(18歳になったら親の援助は基本的にしない)わけですから、家庭での教育でも、それでもやっていけるように育てるのではないかと推測されます。これも前に書いたけど、スーパーなどで子供がお菓子が欲しいと泣き叫んでもピシャリと言って撥ね付けるのを見ます。"give me a reason"といって、理由を寄越せと。自分の思う通りに他者は動いてくれないのだ、それでも他者を動かしたかったら説得しろ、十分に言葉を尽して説得しろ、それが出来ない人間には何も与えられないのだと。「困ったわねえ、今日だけよ」とかいって買い与えない。

 よく過保護とか甘やかすとかいうけど、具体的に何をどうすると「甘やかした」ことになるかというと、その本質は、「コンスィクゥエンスをねじ曲げるかどうか」だと思います。

 勉強をしてなかった人間が卒業できないのはコンスィクゥエンスであり、卒業させてはならない。しかし、可哀想だからといってゲタをはかせるようなことして卒業させるのは、コンスィクゥエンスをねじ曲げているわけで、甘やかしていることになります。学校というものは、特に義務教育レベルにおいては、その存在自体が大きな後見人みたいなものですから、その種の「尻ぬぐい」をします。

 しかし、一歩実社会に出たら、その種の恩恵や甘えは通用しません。仕事でミスをしたり、納期を守れなかったら契約を打ち切られる。大事な契約の現場で、実印や権利証など必要書類を忘れて契約が流れてしまった場合、ミスをした社員は「死んで詫びろ」くらいボロカス面罵されます。僕も弁護士時代、巧妙な組織詐欺にひっかかった大企業が数十億円損失を出してしまった事件を垣間見たことがありますが、その直接の担当者(まだ若かったけど)は、もう死人を通り越して幽霊か?というような顔していたそうです。学校だったら何か忘れ物をしても廊下に立ってるくらいで済みますけど、社会にでたらそれが数億数十億の損失になり、それがもとで会社がコケて数百人の社員が路頭に迷ったら、もう首括ったくらいでは追いつきません。3回自殺してもまだ足りないというくらいの非難と恨みを一身に受けます。でもそれが現実でしょ。

 よく「学生気分が抜けない」といって叱咤されるのは、そのあたり「誰かが何とかしてくれるだろう」という甘い期待が1ミクロンでも存在しているからなのでしょう。それが抜けてくると、ささいな忘れ物一つ、ミス一つで、営々と築上げてきた自分の人生が全崩壊する、それどころか生命すらも危うくなるという、魂が凍り付くような現実の恐怖を身に染みて知ってるかどうかだと思います。

 ミスを犯し、死ぬような目にあって一つ学び、別のミスを犯してまたヒドイ目にあってまた一つ学ぶ、この繰り返しだと思うのですね。それを学んでくる場所が、なんだか知らないけど日本社会の場合、職場や仕事が多い、だから仕事中心的なモノの見方になるのだろうなということです。

 したがってこの原理からしたら、現実を、コンスィクゥエンスを思い知らされ、魂に刻みつけるようにして学ぶ機会があれば、別に仕事であろうがなんであろうが構わないということになります。一番簡単なのは各自の家庭でそれを教えることでしょうし、学校や、コミュニティで教えることでしょう。もっといえば、改まって「教育」などというほどのこともなく、その社会の構成員がそれを当たり前のこととして日々生きていればそれで十分だって気もします。子供は大人の背中を見て勝手に学ぶでしょうから。

 日本人の平均的な人間力が劣化しているならば、その平均を押し下げているのは、このコンスィクゥエンスを体得していない日本人が増えてきたということなのかなって気がします。良く言われるモンスターペアレンツなんてのも、言葉を換えれば、まさにコンスィクゥエンスや現実を全然理解していないアホだということですし。その中枢にあるのは何かと考えていくと、いろいろな失政をしても誰も責任を取らないで済むという官僚制や組織のあり方にあるのかもしれません。その意味では、失政をしたり人気が下がれば辞職せざるをえない政治家なんかはまだしもマトモな方でしょう。いずれにせよ国の基本ドグマのところでコンスィクゥエンスが徹底していないと、あらゆる局面で歪みが生じてきて、非常に厳しいんだか、非常に甘ったるいんだかよう分らん社会になっていくのかなって気がします。

 ということで本題は以上。
 以下、若干の補足。

現実の真の恐さ

 コンスィクゥエンスを徹底理解して、ミジンも甘いところが無くなるというのは、今の日本社会において20代前半くらいのカリキュラムだと思います。

 20代後半から30代、それ以上の年代になると、さらに上級課程が待っています。それは、コンスィクゥエンスすら通用しないという超理不尽です。理不尽といっても、アホな客や上司に振り回されるという微笑ましいレベルの理不尽ではなく、もっとキツイやつ。例えば、一生懸命まっとうに、善良に生きていたとしても、ある日突然乗ってた飛行機が墜落して死んでしまったり、家で寝てたら強盗に襲われて殺されたり、無実の罪で誤認逮捕されて死刑にさせられてしまったり、、という、とんでもない超弩級の理不尽です。村上春樹がその小説群で繰り返し問いかけている、「何かの悪い冗談のような、とてつもなく恐ろしいこと」というものがこの世界にはあるという認識です。現実が本当に怖いのはそこにあります。

 20代前半までは、理不尽ではなく当然の帰結、厳しく感じられるかもしれないけど、それ自体は至極まっとーな現実世界に慣れることだけど、上級課程になると合理的でない理不尽に慣れること、そのストレス耐性の錬成です。最初はささやかなレベルから始まります。例えば、自分のミスでもない部下のミスによって自分がヒドイ目にあうという、まあ、この程度は微笑ましいレベルですよね。部下なんだし、直接監督しようと思えば出来たわけだし、無能な部下を信用しすぎたという自責性も多少はあるわけですから。

 しかし、段々上級難度になっていくと、全く自分のコントロール不能な部分で腹を切らされるという理不尽があります。例えば、警察官僚の上級職キャリアは、出世コースにしたがって各都道府県の所轄署長などをやるわけですが、たまたま自分が署長をやってる任期中にその署内でなんか不祥事が発覚したら(発生ではなく発覚)、それだけでキャリアに傷を負い、出世競争で致命的なハンデを負います。また、社員数万人の巨大企業の社長は、例えば末端の派遣社員が顧客情報を横流しにしていたという、どう頑張っても自分でコントロールできないような不祥事が発覚したら、記者会見で頭をさげざるを得ないわけですし、場合によっては引責辞任です。

 このように人の上に立つ、上にあがるということは、自分が与り知らぬこと、到底コントロール不能な事柄にも全責任をひっかぶるということです。はっきりいってロシアンルーレットみたいなもので、いつ自分の番でズドンとなるか分らない、今この瞬間にも人生が終ってしまうかもしれないという強烈なストレスに耐えつつ、的確に采配をふるいつづけることです。これが20代後半からのカリキュラム。

 ほんでもって多分40歳越えたころから、そのストレス耐性を何らかの「悟り」に転化させていくのでしょうね〜。40歳過ぎたら「自分自身の死」というゴールも視界に入ってきますし、生と死の見通しの良い尾根道に出て、何事かを考え始めるのが40歳以上のカリキュラムであろうかと。60歳以上になると、すいません、僕もよく分りません。そのレベルではそのレベルで何かあるんだろうな〜とは思うのですが、未熟な私にはよう見えない。


 えーと、それから、、、って書いてたらいい分量になってしまった。メモ書きだけにしておきます。

 コンスィクゥエンスと福祉社会
 優勝劣敗やコンスィクゥエンスを重んじる西欧社会なのですが、その原理を貫けば福祉なんかに一銭も金をかけなくても良さそうな気もしますが、実態は真逆でかなり手厚い社会福祉が行われています。矛盾してんじゃん!って思ったりもするのですが、多分これはコンスィクゥエンスが徹底してるからこそ福祉もまた徹底できるという関係に立つように思います。つまり自業自得的なものと、そうではない真に救うべき事例との境界も見えやすいのだと。もう一つは西欧社会の生活水準や人権感覚のボトムラインの高さで、いくら自業自得でもそこまで悲惨になる必要はないというボーダーが比較的高いからだと思います。


 コンスィクゥエンスの再錬成
 "Never too late to learn(学ぶのに遅すぎるということはない)"でして、別にいつからでも学べます。また、幾つになってもコンスィクゥエンスに「思いしらされる」という機会は不可欠だと思います。ただ、習得カリキュラムとしては、割と結果がすぐに出る方がやりやすいです。子供の頃からの不摂生が祟って早死にしたとかいうスパンの長いカリキュラムは習得に時間がかかるし、習得した時点ではもう死んでますから手遅れです。ですので、手前味噌ですがシェア探しなどの過程で、例えば「英語電話にビビってしっかり住所を聞き取ることを怠った」ら、現実にその街に行ってもそんなストリートやそんな番地は存在しないというコンスィクゥエンスに見舞われます。書類整理をしっかりしてなかったら、いざ電話をかけようとしても電話番号が分らずモタモタしているうちに誰かにそのシェアを取られてしまったというコンスィクゥエンスがあります。非常に短時間に結果が出るので集中して学べますし、僕もサポートしつつ意識的にそのあたりを知って貰おうとしています。もうブドウのように果実が沢山ありますので。


 コンスィクゥエンス不徹底に対するフラストレーションと将来の日本
 官僚や組織の無責任体質や、働かないのになぜか生きていけるニートさん達の存在、ゴリ押しを通そうとする一部の人々、、こういう情況は一言でいえば、あるべき因果の流れになっていないわけで、コンスィクゥエンスの不徹底です。それを昔の日本語で分りやすくいえば、自業自得になってないということで、「無理が通れば道理が引っ込む」というあたりでしょうか。そういう状況に対するマトモな日本人のフラストレーションは結構なレベルに達しているような気もします。まあ、住んでないから分らんけど。でも、もし仮にそのフラストレーションが累積されていったら、ちょっと空恐ろしい気もするのですよ。今は未だ過去の遺産でなんとか食っていけるからいいけど、いよいよ食えないということになったら、かなり激しい福祉カットというか、揺れ戻しが来るような不安もあります。つまり貧しいときだからこそ、皆で助け合ってやっていこうぜという「協同の原理」ではなく、それまでの積年の恨みが噴出して「勝手に死ね」みたいな冷淡な社会、そしてそれを冷淡ではなく正義であるとするような社会になっちゃうかも、、という。日本人というのはもともと勤勉で「働かざる者食うべからず」民族ですから(そんなフレーズが古来から死語にならずに生きていることからも分るように)、これが揺れ戻しで増幅されたらキツイだろうなと。といっても、昔のどっかの国みたいに「失業罪」という犯罪にされて投獄されるとか、そこまでドラスティックなことにはならなくても、徴兵制度復活の追い風になるとか(面倒を見させられる軍隊こそいい迷惑だという気もするが)、社会にあちこちでの有形無形の差別のキツさとかという真綿的な感じになっていくのかなって気もします。思い過ごしでしょうか。むむ。



文責:田村






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