1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

ツイート




今週の1枚(04.10.04)


今週の一枚No.176写真


ESSAY 176/「それではご返答のほどよろしくお願いします」


写真は、Newtown近くの公園にて。いわゆる公園デビューってやつですね。


 どうでもいいちゃどうでもいいことでも、「むむ?」と気になることが日常にあります。
 手紙/メールの末尾に、「それではご返答のほどよろしくお願いします」という書いてある場合なんか、「むむ?」と思ってしまいます。

  これだけ読んで「そうそう!」と思える人と、「え、なんで?」と思う人がいるでしょう。後者の人は、これがけっこう無礼なものの言い方だということに気づかないのでしょう。

 なぜ失礼な感じを与えるのか?それは相手が自分に返事をくれるのを当然だと思っているからです。他人に返事を書かせるということは、他人の時間と労力を奪うことでもあり、それを当然のこととして考えるのは、突き詰めていけば「お前は私に尽くして当然なのだ」「主人は私、家来はキミだ」という構造になっているということでしょ。なんでそこまで突き詰めるのよ?と疑問もあろうかと思いますが、ここは立ち止まって突き詰めてみるべきだと思うのです。

 コトバというのは恐いです。ちょっとしたモノの言い方ひとつで、好感を抱いてサービスしたくなったりするときもあれば、逆にカチンときて冷たい態度を取りたくなったりもします。それが人間だし、それが僕らでしょう。夫婦喧嘩をはじめ我々の日常的な喧嘩場面は、「何よ、その言い方!」という「言い方ひとつ」系のものが多いです。言っている内容よりも、言い方に腹が立つという。くだらないっちゃくだらない人間のサガなのかもしれないけど、でも、そうなってる。他人の感情を逆撫でするような言い方をしつづけていたら、他者の好意を受けられるはずだったなのにミスるという損失が生じます。コンスタントにそれをやればコンスタントに損をする。積もり積もった一生分の累積損失は計り知れない。これも好きでやってるなら=リスク覚悟の「己の流儀」として突っ張っているならともかく、全くその気がないのに気づかぬところでやってたら大損です。「損」という表現が冷たい利害打算を感じさせてお気に召さないなら、「他者との間で豊かな時間を共有する機会を失った」と言い換えてもいいです。

 ところで、ある程度社会常識のある人だったら、他人が自分のために尽くしてくれる理由など、本質的にはこれっぽっちも存在しない、ということをよく分かってるはずです。だーれが他人のために汗水たらして動きますか?あなただって、僕のために動いてくれないでしょ?人が他人のために動くのは、それ相応の理由ある場合だけです。主人と奴隷のように何らかの支配服従関係にあるとか、労働契約という合意をした場合とか、親族や恋人など特殊な人間関係にあるとか。それも全くなしに他人のために動く場合というのは、純粋な好意や愛情に基づく場合です。しかし、そんなこと滅多にないし、普通は期待しちゃダメでしょう。他人の善意や好意が自分に向けられることなど滅多にありえないことだからこそ、それが起きたとき「滅多にないことが起きた」=「有り難いことがあった」わけで、だから感謝の言葉は「有難う/ありがとう」になるのでしょう。

 「あなたは私のために働く義理などこれっぽっちもありませんよ」という前提でモノを言うということは、相手の主体性に対する最低限のレスペクトの表現だと思います。別に自分を卑下する必要は全然ないけど、逆に無条件で自分が相手よりもエラいという前提で接するのは無礼でしょう。少なくとも対等であることを前提にすべき。そのうえで、相手に何らかの行動を要求するというのは、相手の善意や行為を求めるということで、「お願い」になるわけです。「お願いします」というのはそういうことでしょう。「お願い」なんだから、相手に従う義務はなく、だから断られても当然です。敬語表現というのは、そのあたりの人間関係の基本を示す表現だと思います。



 「敬語がない」といわれる英語ですが、英語だって本質的には敬語表現があります。無いわけがないです。同じ人間同士の関係なんだから、頭ごなしに命令されてカチンとこないわけがない。"Watch your mouth!"(口の利き方に気をつけろ!)、"Who do you think you are?"(ナニサマのつもり?)という表現だってある。だから、いかに「頭ごなし」じゃないか、いかに相手が独立した人格であるかを示す表現=それがすなわち敬語表現=はあります。一番簡単なのは、プリーズをつけるかどうかです。

 日本人の英語初心者の陥りがちな傾向としては、サンキュー/ソーリー/プリーズの”三種の神器(エクスキューズミーを入れて”四天王”にしてもいいけど)”の使い分けがメチャクチャというのがあると思います。やたらソーリーを連発するくせに、プリーズは忘れるとかね。

 洋画を見てたら、恋人だったか友人同士だったかの会話でこういうのがありました。"You forgot the MAGIC WORD""What's that?""PLEASE"、「あなたは、魔法の言葉を忘れてるわよ」「なんだよ、それ」「”プリーズ”よ」。

 映画といえば、高倉の健さんとマイケルダグラスが共演した「ブラックレイン」でも、激昂した健さんがマイケルダグラスに向かって、思わず"Get out!"と口走るシーンがあります。そして、一瞬の間をおいて、”please"と付け加えます。ここの演技の意味するところは重要で、最初のプリーズ抜きのゲットアウトで空気が緊迫します。それは、「こいつにはプリーズをつけなくてもいい」「もうこいつと良好な人間関係を保つ気はない」という、人間関係が決裂する決定的な瞬間であるわけです。一瞬後それでもプリーズをつけることで、「なおもきちんとした人間関係でいたい」という意思をあらわし、さらに「どんなに腹がたっても最低限の礼節は守ろうという健さんの人間像」というのが浮き彫りになるのです。

 そう、プリーズはマジックワードです。プリーズをつけるのは相手に対する最低限の礼節を示し、プリーズを省略するのは「おまえなんか対等の人格として扱ってやんないよ」「お前なんか俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ」という意思表明でもあります。だから、あなたが総理大臣であったとしてもその辺のキオスクでタバコ買ったらプリーズをつけます。プリーズをつけなくても良いのは、ある程度の屈辱は刑のうちという刑務所か、事態の緊急性から常に徹底的機能的な人間関係を作っている軍隊くらいでしょう。

 もっとも、だからといって杓子定規に常にプリーズがついているわけではありません。相手に対するレスペクトや親愛の情が別の形で十分に表現されていたり、これまで築いてきた信頼関係が基礎にしている場合には、いちいちプリーズなんかつけません。コミュニケーションというのは言語以上にボディランゲージや表情、オーラが圧倒的に意味を持ち、且つこちらの人は日本人以上に表情も動作表現も豊かですから、そこで親愛の情が十分表現されているから、それ以上言葉でいわなくてもいいって事情はあると思います。でもそれは「敬語表現がない」のではなく、言語以外の多様なコミュニケーションで敬語的な表現をしているってことでしょう。

 だから、買い物その他で全く初対面の人間に接するときには、特にこれといってボディランゲージも表情も作らず(満面の笑みを浮かべながらウィンクするとか)普通に接するのであれば、基本的にはプリーズを外さないでしょう。特にオーストラリアなどの場合には、フレンドリーで当たり前だったりしますから、スーパーのレジで初対面で会った人でも、"Hi!"How are you?"と挨拶をします。「フレンドリーにやっていこうぜ」という。これってさかのぼれば、インディアンの部族同士の掟みたいに、ばったり他の部族の人間と出くわしても、双方敵意がないことを示すために片手を上げて「ハウ!」と言うみたいなもので、人間本来の儀式なのでしょう。最低限の基本。

 それを前提にしつつ、それでもキャラクターやシュチェーション的にプリーズを外したり、友好性を無視したりすることはありますよ。西部劇なんかで、ならず者が酒場のカウンターまでやってきて、「オヤジ、酒だ!」とぞんざいな口調で注文するとかね。それはそういうキャラでいこうってことだと思うのですね。これは日本語だって全く同じで、居酒屋で店員さんに、「すみません、ビールもう一本ください」と注文するか、「おい、ビールもってこい!」と言うかみたいなものでしょう。だから、あなたが英語圏現地で後者のようにならず者的に振る舞いたかったらプリーズを入れなくてもいいです。逆に前者のようにまっとーに言いたかったらプリーズを忘れるな、と。忘れたら後者的な発言だと思われてもしようがないです。

 とは言いながらも、最初の頃には忘れるんですよね、プリーズ。とにかくも英語がヘタだし、現場で英語を喋っているという緊張感で真っ白になってますから、何を喋るか単語探しや文の組み立てに頭を使い切って、プリーズまで気が廻らないのでしょう。その気持ちはわかります。僕もそうだったもん。だからこそ、意識的にプリーズをつけるように心がけて、クセにしていくしかないのだと思います。良く冗談で言うのですが、僕がサポートしている最中は、僕は常にあなたの背後霊のように立っていて、あなたがプリーズを忘れた瞬間、ハリセンでパーンと頭をハタけばすぐに身につくと思うのですが(^^*)。


 なお、当然のことながら、プリーズ以外にも、英語の敬語表現は沢山あります。詳しくは、英語雑記帳の丁寧表現をご覧ください。




 「それではご返答のほどよろしくお願いします」に戻ります。
 この「やって当然」的な傲慢さがカチンとくるのは、プリーズを抜かしてモノを言われた不愉快さに似てます。

 ただ、プリーズを忘れて喋ってる場合と同じく、別に悪気があってそうしてるわけではなく、そこまで頭が廻らないからなんだろうなってのも分かります。だから、そんなに腹は立たないです。でも、同時にこう言うとカドが立つけど「なんでそこまで頭が廻らないんだ?」とも思ってしまうのです。

 おそらくは、どっかの手紙文例集とか、商業文例とか、就職活動の資料請求の紋きり文例なんかを、そのまんま右から左に書いているだけなんでしょうかね。でも、そういうのを読まされると妙にこそばゆいというか、この感覚なにかと似てますね。そうそう、「英会話表現集」のフレーズをそのまま現場で喋ると、なんか変、妙にファニーなのとなんとなく似てます。あるいは日本語を勉強している外人さんが喋る不完全な日本語、日本語としては合ってるのだけど、いまどきそんなこと言う人いないよとか、TPOが違うよという感じにも似てますな。タドタドしい発音で「ごきげんよう」とか言われたり、居酒屋でバイトしている留学生の彼がオーダーを取るときに「アナタハ何ガ欲シイデスカ?」と言ってるようなもので、それは日本語文法的にも合ってるし、意味も正しいんだけど、ヘンだという。

 でも、それは第二言語の場合でしょ。「それではご返答のほど〜」というのは、母国語の日本語でしょ。なんで母国語が、第二言語みたいにギクシャクするのよ?という。ここですよね、問題は。


 いろいろ思うのですが、若者の言語能力の退廃なんてシンプルなことではないと思います。It's not so simple. というか、「あー、この人、日本語がなあ、、」というのは、年齢に関係ないですね。若い人でも十分に礼節を尽くした、論旨も明確なメールを送ってくれる人も多いし、年配の方でもそのあたりがイマイチな人はいます。これは世代というよりも、この世間に生きていて、How much did you learn? どれだけ学んできたの?ってことだと思います。

 人間関係の原型や基本みたいなものをきちんと体験して、皮膚感覚で分かる人だったら、こういう間違いはしないと思います。また、そういう人は、このように言語化して説明できないにしても、敬語表現の構造的理解というものが出来ているでしょう。「なぜ、こういう言い方になるのか?」という。「あ、ちょっと言葉足らずで失礼だな」「ここまでいうと過剰でイヤミだな」というように、甘い/辛いの味覚のように、感覚的に理解できると思います。

 でもって、それが出来ないというのは、相手が何を考えているのか分からないということでしょう。そりゃもちろん僕らはテレパスではないから何を考えてるかなんか本当のところはわかりゃせんですよ。でも、一般的に、こういう立場にいてこういう言い方されたらこう感じるだろうという経験則みたいなものは養えます。大体、「こう表現すれば、人はこう感じる」という一般的な原則がなかったら、小説も映画などの表現芸術が成立するわけがない。「共感の原理」です。

 子供のうちは中々そこまで分からんです。子供はまだ無力だから自分のことで手一杯で、なかなか他人のことまで考えてる余裕なんかないでしょう。多少余裕があったとしても、経験不足だからよくわからんでしょう。それが育っていく過程で、いろんな立場を経験し、「ほう、こういう立場にたつとこう感じるものなのか」という情報のストックを増やしていきます。

 例えば、失恋した友達を慰めるにしても、安易な慰めの言葉をかけても空々しく響いたり、却って鬱陶しがられたりってことがありますが、それは自分がそういう目にあっているとよくわかるでしょう。受験当日になって緊張している受験生に、プレッシャーをかけるだけの激励は何の役にも立たないとか。社会に出て働いて見れば、理不尽に頭を下げさせられる苦い思いが分かるでしょうし、一日中家に閉じこもって家事をやらされていたら、防波堤スレスレ水位に鬱積した閉塞感というのもわかるでしょう。よかれと思ってかけた言葉で余計に他人に傷つけるとか、何も言わないでおくのが一番いい場合とか、その一言で救われたとか、いろいろあると思うのですね。

 もとより複雑な人間感情を考えれば、完璧にコミュニケートすることなんて誰にも出来ない。悟りを開いた高僧とか聖人だったらまだしも、凡人にそこまで出来ないし、出来なくてもいいのでしょう。それが非常に難しいからこそ、カウンセリングという特殊技能が磨かれたりもするのでしょう。それでも、一応社会に出て、不特定多数の人々と接していくんだったら、このくらいは分かれよな、ってレベルがあるのだと思います。そのレベル設定は各人マチマチではあろうし、またその人の通過してきた世界世界によってバイアスはかかっているでしょうが、出来るだけ広く、深く、細かい方が望ましいでしょう。ある人のコミュニケート方法(言葉の使い方など)が、一般的に期待されるレベルにまで達してなかったら、原因の一つは、この学習不足があるのでしょう。

 これもね、若いうちはまだ許されます。若いんだから、まだ学習未了で多少馬鹿なのは仕方ないよねって思ってもらえますから。しかし、25歳や30歳になってまだこれをやってたら、学習期間はたっぷりあったはずなのに学習してないってことになるから、同じ馬鹿でも意味が違う。「なんで学習せんのや?」ってことになるし、学習しないのは、結局、腹の底ではこの世で自分だけが可愛くて、他人なんかどうだって良いって思ってるからじゃないの?なんだ、この自己中野郎、イヤな奴だなこいつ、、ってな具合に思われても仕方ないっしょ。



 ところで、「それではご返答のほどよろしくお願いします」ってフレーズ、どの文例集が載せていたのか知りませんが、こんな言い方するような現実的な場面ってあるのだろうか?仮にビジネス文例であったとして、取引先との対等な通信例でも、こういう言い方はしないんじゃなかろか?「ご多忙中とは存じますが」をつけたり、「ご回答いただけたら幸いです」と言ったり、もう少し相手に対する配慮を示す文言を入れるんじゃないでしょうかね?

 逆に上下関係が比較的ハッキリしている命令調の文章、例えば本社から支店先への調査依頼や、警察本庁から所轄への照会文などの場合は、もっとヘビーデューティーに、「至急回答されたし」みたいな硬派な言い方になるでしょう。「ご返答のほどよろしく」なんて妙に丁寧口調な言い方ではいわないような気がします。

 僕の言語感覚でいえば、このフレーズがハマる場面というのは、丁寧な口調で喧嘩を売ってるような場合のような気がします。例えば、本妻から夫の愛人に「即刻マンションも引き払って夫と別れ、今後一切の交渉を断つか、あくまで関係を継続するのであれば当方への慰謝措置について相応の誠意をみせるか、いずれか答えなさい」という喧嘩腰の内容証明郵便をぶつけて、その末尾に「それではご返答のほどよろしくお願いします」と使ったりするような場合です。それか、暴力団がソフトな口調で企業恐喝をしているような場合です。

 そもそもこの文章自体がなんかヘンなんですよね。「それでは」という冷たい感じのする事務的な口調に続いて、「ご返答のほど」というちょっと大時代な感じの丁寧さ、「よろしくお願いします」という紋きり型の依頼型、それぞれがミスマッチしていて、なんか丁寧口調のロボットに強盗にあってるような気分がします。「お持ちになっている金銭、貴重品の類をこのバッグに入れてください。拒否される場合は脳天に風穴をおあけいたします」とか(^^*)。



 じゃあどう言えばいいのよ?って、そんなこたあ自分で考えなはれ。言葉というのは、どんなファッションを身につけるかと同じく自己表現であり、自己表現の第一次責任者は自分でしょ。考えて分からないんだったら、その程度の自分だってことですし、その程度にしか自分を育ててこなかったってことです。そして、貧しい自己表現をしたことによって、世間から不利益なリアクションを受けたって=つまりメールの返事が返ってこないとか、いきなりブン殴られるとか、仲間はずれにされるとか、そういったのも全部自己責任でしょ。冒頭に書いたように、他人はあなたのために指一本動かす義務はないんだから。そこをやってもらえるもんだと無意識にせよ思ってるとしたら、とんだ甘ちゃんだし、いったいどう過保護に育てられたらこうなるんだ?って気もします。

 もっとも、そうは言いながらも、この程度のことだったら僕も現場では不問に付しています。そんなにイチイチやかましく言ってたら現実問題廻っていかないし、僕もそんなエラそうに言えるほどちゃんと出来ているわけではないです。誰だってミスはするし、未熟であることそれ自体は直ちに非難すべきことでもないと思います。このフレーズだって、別に悪意あってのことではないのは分かりますし、一生懸命敬意を表そうとして使い慣れない言葉を使ってるからこうなったんだろうなって好意的に受け止めています。

 それでもこんなことを書いているのは、この文例、ちょこちょこ見かけるのですね。妙な文章だから浮いていて、だから覚えやすいのですが、定期的に、そう、大体月に一回くらいはやってきます。これだけ定期的にあると、「なんかモトネタがあるのかな?」って気もしますよね。だから、就職活動用の文例なんかに載ってるのかなと思ったりするわけですけど、就職活動でこんなこと書いてたらちょっとマズイんじゃないかって、他人事ながら心配にもなります。



 「自分で考えなはれ」とか言いつつ、言ってしまう僕も甘いのですが、まず基本的には相手の主体性や自由というのを最大限認めるところから出発すべきってことでしょう。このメールに返事を出すか出さないかは基本的に相手の自由です。それがいかにビジネスであろうが、「皆さんからのメールを待ってます」って書いてあろうが、相手にはなおギリギリのところで拒否する権利はあります。それはあなたにもあります。ですので、返事をくれるのが当然という前提でのモノの言い方は避けるべきでしょう。どうしたら避けられるか?といえば、例えば仮定法を使えってことですよね。「やっていただければ」「お返事いただけたら」の「れば」「たら」です。「もし〜だったなら」って仮定でモノを言うことです。

 なぜ仮定になるかというと、相手の自由意思を尊重するからです。やってくれるかもしれないけどくれないかもしれないという予測、NOの場合の可能性を十分に認識するからこそ、「もしやっていだけるならば」という仮定の言い方になる。英語でも事情は全く同じで(これは別の個所でさんざん書いたけど)、Can you? よりも Could you, Would you?の方が仮定的ニュアンスが出て、より丁寧な表現とされるのと同じです。I want to 〜よりも I would like toの方が丁寧なのは、「もし私に選択の機会を与えていただけるのでしたら」という仮定のニュアンスが入るから、would という助動詞を使うわけでしょ。

 また「やっていただけないことも十分に考えてます。どっちかといえばやっていただけないだろうと思っています」と拒否されるケースの方をメインにするとより尊重感は高まるので、否定疑問文で聞く方が一般に敬語度は高いでしょう。「やっていただきたいです」と言うよりは、「やっていただけませんでしょうか?」と否定形で聞く場合の方が丁寧な感じがするでしょ?

 第二に、相手の立場をより実質的に慮(おもんばか)るということですね。「あー、今忙しいだろうな」とか、そのあたりを想像しろってことですね。別にそんな難しいことではなく、夜中の1時に他人の家に電話したらさぞ迷惑だろうなと思うでしょ?それも全く知らない他人の家にかけるような場合だったら普通考えますよね。食事時は外そうとかさ。手紙でも同じことだと思います。ビジネスでの問い合わせでも、相手の本業にドンピシャとハマる問い合わせと、周辺的などちらかといえばあんまり関係なさそうなことを聞くのとでは違うでしょうし、儲かる話をもっていってるのか、全然金にならない話をもっていってるのかでも違うでしょう。

 このあたりは自由に表現することが出来るので、ユーモラスにもかけますし、あなたの文才の見せ所でもあります。月曜の朝イチに問い合わせるようなときは、「月曜の朝という最もブルーが入るときに、このようなややこしいことを申し上げて大変恐縮です」とか、「人生への倦怠感がもっとも色濃く漂う月曜の朝に」とか、「週末の楽しい記憶がなおも余韻として残っているであろうときに」とか、こんなのいくらでも書きようがありますよね。もちろんカジュアル過ぎて失礼にならない程度に。

 その他、配慮を示すフレーズは沢山ありますので、そのストックを増やしておくといいですよね。「お手すきのときで結構ですので」とか、「お時間に余裕がございましたら」、「もしお心当たりがございましたら」とか。フレーズが沢山あると、手持ちのフレーズをつなぎあわせていくだけでキチンとした手紙文くらいすぐに書けるようになります。その基礎のうえに、自分らしい表現なり、キラリと光るフレーズを挿入するなりすればいいのでしょうが、これは上級編でしょう。



 いただくメールの大多数は、特に問題はないですし、それどころか配慮の行き届いたしっかりした文章をかかれる方も多いです。それだけにヘンなの、というか拙いメールがくると浮くというか、微苦笑を浮かべたくなったりします。

 「それではご返答のほどよろしくお願いします」的なメールを送ってこられる方って、「ご返答」とか言いながら、何を尋ねているのかよく分からないというケースがよくあったりします。極端な例ですけど、「これからワーホリビザをとって、オーストラリアにワーホリに行こうと思っています。いろいろ不安なこともありますが、頑張ってチャレンジしようと思っています。それではご返答のほどよろしくお願いします」とかね。まあ、これは本当に極端にしてますけど、煎じ詰めたらそういうことでしょって場合もあります。「よろしくお願い」されても、何をどう「ご返答」申し上げたらいいのか?という。微苦笑が浮かぶわけです。

 でも、これで「頑張って英語を勉強して身につけたい」という留学相談だったりすると、英語以前に日本語、つまりは「コトバとは何か」「コミュニケーションとは何か」、さらにさかのぼって「他人とはなにか」「人間とは何か」からやっていった方がいいかもしれないなあって気もします。人間がわからなければ他人も分からないだろうし、他人が分からなければコミュニケーションの何たるかもわからんだろう。そしてコミュニケーションが分からないのに言葉だけやっても無意味でしょ。

 でも、そのあたりの人間的な基本を身につけるには、日本にいるよりはむしろオーストラリアに来た方が分かりやすかったりするのですね。カルチャーもコトバも殆ど共通点のない中では、まさに生身の人間対人間でやっていかなければならないし、そういったシンプルなところから始められますから。よく、人間関係の基礎がわかってない奴に、「幼稚園からやり直して来い」って言ったりしますが、外国って幼稚園みたいなものなのかもしれません。無償の善意や好意というものが、人間にとってどれだけ貴重で、どれだけ暖かいものか、もう一回100%ピュアな善意を他人から受けて再認識できますから。「カネ払ってるんだからいいんだ」「客なんだから何をしてもいいんだ」という守銭奴みたいなbullshitはいっぺん洗い流した方がいいっす。

 だから英語の勉強にきて、もっと大事なことを学んで帰るってことはよくあります。というか、誰でもそうかもしれません。そしてこのことは、子供の頃に通っていた学校で、理科や算数という学業知識を学ぶよりも、もっと大事なことを学んできたのと同じことなのでしょう。





文責:田村




★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る