シドニー雑記帳



大変度数



     日本に住んでいて上手くやっていこうとしたら、「大変度数」という発想を身につけておくことが必要だと思われます。ネィティブの日本人は、ほぼ全員、無意識的にこの発想と技術を会得しているのではないか。

     人間が社会的動物である以上、快適に生きていくためには、周囲の人間達の協力が必要です。いや、積極的に協力してくれなくても、消極的に「妨害しない」という程度のサポートは必要だと思われます。むろん、織田信長のように、社会全員敵に廻しつつも力でねじ伏せることの出来るだけの人もいるかもしれませんが、大体の場合、周囲に妨害され続けながら快適に生きるのはかなり難しい。

     そこで、周囲の人間に対して、自分の状況を理解して貰い、あわよくば好意を抱いて貰うにはどうしたらいいかが問題になります。正攻法は、「立派な生き方」をすることでしょう。しかし、あまりにも立派すぎると、これまた周囲の反発や嫉妬を招きますので、むつかしいところです。また、そんなに簡単に人間立派になれるものでもありません。出来ない戦略を建てていても時間の無駄です。

     ではどうしたら良いか。ここで出てくるのが「大変」の発想と技術です。他人の無理解、妨害を払いのけ、理解させ、さらに味方にひきこむためのコツはただひとつ、「自分がいかに大変であるかをアピールすること」だと思います。




     例えば、皆が出社しているのに一人だけまとまった休みをとって郷里に帰るとします。当然周囲の人間は羨みますし、いい気分ではない。「みんな忙しいのに、ひとりだけ休みやがって」と思われます。これはある種もっともな側面もあります。

     「正義とは何か?」という命題が古来法哲学などで語られ続けていますが、一つの答は「公平/衡平」と言われます。ハカリの両皿の重さが釣り合う状態を「正義」といい、バランスが崩れている状態を「不正義」と感じる。

     例えば、人を殺した人間がのうのうと暮らしていると、どうにもバランスが崩れている気がする。やはり人を殺した奴は、同じように殺されて初めてバランスが取れたように思うのです。あなたが、給料日前で金欠な友人に、焼肉→スナックコース合計3万円おごったとします。後日友人から昼飯1000円分おごってもらったとします。このとき友人から「これで、トントンだね」と言われたら、素直に「そうだね」と言うことができません。「まだ差し引き2万9000円分あるやないけ」と思うでしょう。まあ、そんな会計処理的数字は咄嗟に出てこないでしょうが、「バランスが崩れたまま」というのは直感的にわかります。



     皆が等しい状況で仕事している。休みたいのは皆同じ。そんななかで誰かだけ休みを取るというのは、「不公平」であり、「正義に反する」ことになります。皆の反感を買います。バランスを失しているわけです。

     この場合、失われたバランスを回復しなければ、後々になって有形無形の不利益を被ることになりかねません。既に休みを取る時点で「いい身分だねえ」とか嫌味の一つも言われるでしょう。ここで、「そんなに気に食わなきゃ、とっととテメーも休みゃいーんだよ。どうせ、大した仕事なんかしてねーんだろうが。目立って休むことすら出来ない肝っ玉の小せえ野郎が、人さまのことをゴタゴタ抜かすんじゃねーよ」と反発したくもなります。バランスとか正義とか言っても、所詮は「嫉妬」に過ぎない場合が多いし、半径5メートルで「正義」が振りかざされる95%は単なる嫉妬に過ぎないという事実は、既に皆さんもよくご存知のことと思います。しかしながら、勿論そんなことを言おうものなら益々ややこしい仕儀に相成ること必定でもあります。これまた周知のとおり。



     そこで、このバランスを回復するため−ありていに言えば「皆の嫉妬を薄らがせるため」ですが−、そのための特効薬的レトリックとして「大変度」が注目されるわけです。では「大変度」とは何か?

     話は簡単、「自分はいかに大変か」を吹聴するだけです。「夏なのに出社」という事態Aの大変度数が100だとするならば、休むことによる事態Bの大変度を100以上にまで高めてあげればいいわけです。それで皆は納得します。

     極端な話、「郷里の母親が死んだために帰る」「自宅が家事で全焼したから休む」ということになれば、大変度抜群ですから、周囲の対応も違います。誰が考えたって、「休みを取らず出社する大変度」と「実の親が死ぬ(家が全焼する)大変度」とでは比較になりません。一撃粉砕です。むしろ大変度にあまりにもギャップが出来ちゃったため、埋め合わせの為に逆に周囲から香典とかカンパとか貰ったりもします。日頃や部下の休暇に渋い顔をする上司も、このときばかりは「それは大変だ。早く帰ってあげたまえ。いや、後のことは皆でなんとかするから心配はいらない」と万全のサポート体制を示してくれたりします。

     しかし、「実の親の死亡」というほどの「大技」はそうそう乱発出来るものでもありませんし、すぐにばバレる。そこで、古来、「親戚のおじさんの死亡」程度の、使い勝手の良い中量級が持ち出されたりするわけです。この程度だと、特に香典だのカンパだのという過度のリアクションを引き起こすこともなく、また「じゃあ、しょうがないな」と皆を納得させられる程度の大変度を持ちます。

     まあ、ここらへんの古典的レトリックはあまりに陳腐ですので、そこでいろいろ皆さん頭をひねるわけです。「いやあ、もう、女房にせがまれちゃってさあ」「一家4人で帰省したら、なんだかんだで15万円の出費だよ」「150キロの渋滞だぜ、たまんないよ」「親戚の遺産分割でちょっとモメててさあ、俺も顔ださないと駄目だって言うんだよ」などなど。いかにも、休みが楽しくなく、苦痛に満ちていて、出社してた方がよっぽど楽という状況説明をするわけです。つまり大変度数がいかに高いかを説明するわけです。




     古来日本では、日常を規律するに足る確固たる宗教的価値観もありませんし、それに類するフィロソフィもそんなにないです。人間の価値をはかるメジャーがそんなにない。そら、「正直さ」「勤勉」「博愛」などいろいろなメジャーが断片的にはありますが、総合的なものではない。また、正直さも過ぎれば「馬鹿正直」、勤勉さも「糞マジメ」、博愛も「八方美人」とか言われますので万全ではない。そんななかで、安定的な価値観として知らずのうちに重宝されているのが、「立派な人/エライ人」=「大変なことをしている人」という方程式です。これ、何となくなりたっているように思うのですが、違いますか?

     もう一つの価値基準としては、「持って生まれた生来的な特長」がエラいとされること。これは分かりやすいのですが、美人であるとか、頭がいいとか、足が長いとか、特殊な才能があるとかですね。一方は後天的努力なりを、他方は生来的美質を、それぞれ賞賛するわけですが、ここでは前者についての話です。



     でもねえ、そこまで因数分解しちゃうと、どうして大変だとエラいの?という気分もしてきますね。太平洋をヨットで一周したらエラいというのは、まだ何となく分かりますけど、東大入るとエラいというのが分からん。あの大変な受験戦争を勝ち残るだけ努力したからエラいとかなのでしょうけど、そうか?僕も弁護士だということで過分に言われることもありますが、何を評価されているかといえば「あの難しい司法試験をパスした」という部分であったりします。「むつかしいんでしょう?あの試験」と聞かれたりしてね。そりゃ難しいですけど。でもね、難しけりゃエラいんか?という違和感はあります。

     本当に評価されるべきは、例えば手弁当で必死に意義ある事件(冤罪事件を晴らすために35年とか)に取り組んでいるという部分、もっといえばその心情(義を見てせざるは勇なきなりとか男気とか)であって、試験そのものは、あんなもなあ「私利私欲」にかられやってるに過ぎない。なんぼ難しくたって、好きでやってるのだから、別にエラくもなんともないんちゃうの?むしろその心情は「将来のキャリアパス」とかさ、所詮は自己利益の追求であり、セルフィッシュなことではないのか、と。必死になってパチンコやってるのと同じことじゃないの?大変だからエラいというものでもないんじゃかろか。

     もちろん、大変なことを成し遂げることで、その人の揺らがない人生観やら意思の強さという美徳は見出すことが出来るでしょう。その部分が賞賛されるのは、まあ、分かる。太平洋横断なんかもその類でしょう。「大変度数」が有効なのも、そこらへんの深い洞察に基づいてなされているというなら、文句ないです。でも、実際はそうでもなく、もっぱら「周囲に嫉妬心を起こさせないようにする」という基本的機能が使用されているのではないかと。




     ここで「嫉妬とはなにか」というややこしい問題がありますが、嫉妬なり憎悪なり、他人に対して向けられる悪感情というのは、「自己防衛の心理」だと思います。いわば「心の自衛隊」が出動するのだと。何をワケわからんことを言ってるかというと、人はそれぞれの環境で、「一応これが満足すべき状況である」ということにして心の安定を図っているわけです。これが崩れると不幸になる。で、この安定を壊しかねない危険をもたらす人に対して、攻撃的(防衛的)になるのだと僕は思います。特に嫉妬というのは、「自信を揺らがしかねない人物」「自分が不当にワリを食ってるような気にさせる人物」に対してなされる攻撃的な感情なのではないか。

     例えばカールルイスと100メートル走で負けても、別に自信は傷つかないし、心の安定も揺らぎません。でも、日頃パッとしない同級生に負けたりすると、「くそ、なんでじゃ」と思います。同期の中で自分をさしおいて出世する奴がいると、心穏やかではいられない。「オレはあいつよりも能力的に劣っているのではないか」という不安が出てきます。あるいは「オレは世渡り下手なんじゃないか」とか。その不安を払拭するために、そいつの出世は「なんかの間違い」なのだということにしたくなり、好んでそいつのアラを探したりしたくなるし、あるいは出世制度が実力を反映していない不出来なものだとするとか、最終的に出世してもロクなことはないよと思ってみたりとか。いずれにせよ、最終的な結論は、「だから、自分は今のままで間違ってないのだ」「これでいいのだ」ということにしておきたいのですね。なぜって、その方が楽だもん。

     同じように、一人だけ休みなんか取られてしまうと、相対的に「休もうと思えば休めるのに休まないで苦しんでる馬鹿な自分」「休みますの一言が恐くて言えない根性なしの自分」というものが浮かび上がってしまうから、それを必死に打ち消そうとする。「休む奴は道義的に正しくない奴なのだ」とか、「休むと出世に響くから、馬鹿な奴だ」とか。いかに休まなかった自分の方が正しいかについて自分で納得させようとします。

     もうおわかりでしょうが、「大変度」は、この他人のいじらしいまでの自己正当化努力を支援してあげるためのレトリックになると思います。他人の理論武装を手伝ってあげるわけですね。「休みといっても、仕事してるよりも苦痛だよ」という大変さをアピールすることによって、周囲の人々の心も静まるわけです。

     「大変だからエラい」という感情も、他人を賞賛するという行為をする裏付けといいますか、他人を褒めるのはその分相対的に自分が沈むわけですから、沈んでも納得できるだけの難行苦行があったのだ、ちゃんと対価を払っているのだからそれでいいのだという具合にバランスが取れているからなのかもしれません。

     同じように、職場に来ているアメリカ人がさっさと5時になって帰るのを横目で見ててもあまり嫉妬心はおきませんが、同僚の日本人が5時に帰ると腹が立つというのも、これで説明できると思います。なぜかというと、「ガイジンさん」はもう自分達とは「違う人達」なんだと最初から別扱いをするわけです。別枠でどんなことが行われても、だからといって自分の心の安定が崩されることはない。ところが、同じ枠の日本人にやられると、「基本的にあいつと俺とは同じなのに、なんであいつだけ楽してんだよ」と納得がいかなくなるわけです。



     以上のことを踏まえて、実践的に日本社会でうまくやっていこうとするならば、いろいろな処世術が導き出されるでしょう。

     なにか目立つことをするようなときは、自分の「大変度数」の高さを力説し、周囲に対して「キミ達の方が恵まれているんだよ。キミたちはそれで正解なんだよ。だから慌てなくてもいいんだよ」というメッセージを送り続けます。

     間違っても、「俺の方が正しい!てめーら揃って馬鹿じゃないの?」というような言動はしてはいけません。どんなにそれが正しくても、です。なぜならば、職場というのは「人生の真実」を皆で考え実践していく場ではないからです。「出社してる」という事態だけで既に皆「不幸」になってるわけで(給料ゼロでも仕事するという人は別ですけど、多くは金の代償として働いている)、自分も含めて不幸な、心に傷を負った人々に接するには、メンタル面での特別のケアが必要だと言っているわけです。大変度を通して、他人の痛みに敏感になったあなたは、より一層の行動の自由を獲得することでしょう(ほんとか)。



     もう一つの方法としては、荒技ですが、「ガイジンさんになる方法」があります。人間集団の中に「異形の人」がいた場合、「こいつは違うんだ」と思いますから、特に比較して心が波立つ度合も低くなりますわね。あなたの知ってる人のなかにも、こういう「異形の人」はいると思います。極端な例ですが、あなたの職場に毎日、チョン髷ゆって(流行のポニーテイル的なものではなく、時代劇などの超本格的なチョンマゲ)、和服着て出社してくる同僚がいたとします。まあ、そんな人がこのリストラの時代に採用されるかは疑問ですが、とにかく居たとします。で、付き合ってみるといい奴だったりするけど、やっぱり自分達とは全然違うという人。こんなあからさまに「異形の人」が、休みを取ろうが、早く帰ろうが、あんまり心は波立ちませんわね。

     ここまで極端でなくても、「○○さんは特別だから」とごく自然に周囲に思わせてしまえば、あなたの勝ちですね。このときの注意点は、どっちの路線が正しいかという路線闘争は極力避けて、「キミ達の世界も十分に魅力的なんだけど、残念ながら、僕は違う世界にいるみたいなんだ。だから認めてね」程度のあっさり風味でいいと思います。これはそんなに難しいことではなく、例えば「登山の鬼」とか異様なまでに一分野に集中していて、その執念たるや余人の介在を許さないという程度のものでいいでしょう。それが周知のことになっていれば、嫌で嫌でたまらない職場の慰安旅行に誘われても、「え、旅行?何日?あ、ダメダメっ!山があるからね」と一言いうだけで、周囲は諦めます。「山なんかやめて一緒に行きましょうよ」なんて言おうものなら、「キミ、山というものはだね」と延々演説が始まりそうなので、皆ビビるわけです。でもって、「欠席者は○○さんか。ま、あの人はしょーがないな」と思わせてしまえば成功です。

     これを、皆に合わせて、合わせて、「和の精神」とか考えて調和していこうとするから苦しくなるわけですね。「和」というのは全部同質でなくても生じるわけで、異質なものであっても、それが最初から織り込まれており、そのうえで全体のハーモニーが築かれていれば問題ないわけです。



     というわけで、「オーストラリアでのんびり、楽しくやってまあすorやりに行きまあす」とか言うと、「いい身分だね」とかいろいろ反発を買ったりするかもしれませんが、そのときはそれがいかに大変かを力説するといいわけですね。大変度数を高めたらいいんですね。
     曰く、「「のんびり」って言っても、英語は全然分からんから、買物ひとつするだけでも冷汗が出るしもう大変。ましてや、家のどこそこが破損したから修理云々になると一大事業。」「なんだかんだ言っても差別っての受けるし、あれはイヤなもんだよ、ほんとに大変なことなんだよ。」「もう毎日が戦いだよ」「周囲なんか皆こんなにデカし、こっちなんか単なるチビだから、舐められたりもするのは日常茶飯事だね」「いくら行ってたって今どきキャリアなんかにならないし、この先どうするのかと思うと、本当に考えちゃうよ」などなど。で、「そっかあ、それはそれで大変なんだな」と思って貰えればいいわけです。

     その他、説得のために殺し文句や戦略は沢山あるでしょう。「一生に一度くらいは」とか「今しかチャンスはない」とかいうのも、常套の殺し文句のでしょう。他人から「一生」を持ち出されてしまえば、ちょっと反論しにくいし。

     しかし、まあ、セコいレベルの話をしてますね、僕も。くっだらねーって気もしますね。以前お話した「原始感性」のヒエラルキーでいえば、ま、下士官レベルの、「うまくやっていく」ための現場の知恵といったところでしょう。




     ただ一旦オーストラリアにやってきた後は、このレトリックは通じないでしょう。ところ変われば理屈も変わる。どうもこっちの人は、「大変なこと」に日本の人ほど重き価値を置かないようで、「いま、大変なんだよ」というのがちょっとした社会的礼節に近い日本と違い、「いま、ハッピーだよ」というのがむしろ礼儀というか。「不幸だよ」「大変だよ」話をすると、「そんな気の滅入る話を聞かせないでくれ」という感じでしょうか。より正確にいえば、なんか不幸な状況があったとしたら、「どうやってそれを解消するか」という具合に妙に話は先に進んでしまって、「どうしてそんな職場で我慢しているのだ(馬鹿じゃないのか)?」「それは許されないから断固訴えるべきだ」「そんなにイヤならさぞかし素晴らしい打開策を持っているんだろうね」とか、そっち方面に進んでしまう場合もありますので、日本的感覚では「え?いや、別に、そんな」という具合になるやもしれません。

     これはオーストラリア人の常識という本にも出てることですが、オーストラリア人というのは、「この世には悩みなんてないよ、皆ハッピーだよ」というのが「あたりまえの状況」だというフィクションがあって、どんな出来事があっても、「大丈夫だよ」「大したことないよ」と皆口々に言って、「なにごとも無かったかのように」過ごしたいというメンタリティがあるのではないかと。

     そこまでいくとちょっと大袈裟かなとも思いますが、オーストラリア人の口癖の"No worries"も、worryする(心配する)ことが出てきちゃうと、それは「異常事態」ということになって、それに対してシリアスに議論して打開するなりなんなり、何らかの対処をしなきゃいけないという具合になってしまうから、それが面倒臭いから、「大丈夫、大丈夫」を連発してるのかなといううがった見方もしてしまったりもします。



     オーストラリアの人にものを尋ねると、日本人の感覚からすると、平気で嘘を教えるという部分があります。別に本人は悪気があって言ってるわけではなく、自分の知識のなかで何とか助けてあげようとしてるのでしょう。ただ、そのとき、「良く知らないけど、○○だと思うよ」と言ってくれりゃいいものを、「大丈夫、大丈夫、○○すれば簡単だよ」という具合に言うから始末が悪い。結果的に大丈夫じゃなくても大丈夫ということにしておきたいというバイアスがかかっているように思いますので、ちょっと割り引いて考えておいた方がいいでしょう。

     日本では、大変度50度くらいのことを70度位にあげて言いますが、オーストラリアでは30位に下げていくといいと。日本人に「儲かりまっか」と聞かれたら、「いやあ、さっぱりでんな」と答えておくのが礼儀で、オーストラリア人から同じこと聞かれたら「万事順調にいってるよ」と言っておくと。オーストラリアの人に、自分のやろうとすることを伝えたかったら「大変なんですよお」なんて言ってもだめで、自分のやろうとしてることが素晴らしく夢に満ちているのかを言った方がええんちゃうか、なんとなく受けはいいですよね、座も自然に明るくなるし。

     自分で書いてて「ほんまかいな」という気もしますし、オーストラリア人だって税務署が来たら「儲かってるよ」とは言わないと思います。でもねえ、日常の会話で、"How"s Ya going? どう、調子は?"と聞かれて、「ま、ぼちぼちやってるわ」程度のニュアンスで答えるのに、"Everything is all right"なんて答えたりしてるところを見てると、そういう部分もあるのかなあと思いますね。エブリシングですよ、「全て」ですよ。普通に生きてりゃひとつや二つ悩み事がある筈で、オーストラリア社会もいろいろ問題を抱えまくっていて、そんなに「全てはOK」なんてこたあないと思うんだけど、でも「全部OK」なんだわ。

     そういえば、"How are you?"と聞いたら、"Good!"と答えたあとに、「いや、いまちょっと風邪ひいてしまって熱があるんだ」と言ったりするから、全然Goodやないやないけと思うわけです。でも、そう言うという。おそらく死の床についていてもGoodと答えるのでしょう。そら日本人でも「大丈夫ですか?」と改まって真顔で聞かれたら「大丈夫、大丈夫」というけど、そこまでは頻繁にEverything is all rightって言わないと思いますが、どんなもんでしょう。

(1997年7月30日:田村)

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